【薫風編】33:xx16年2月27日
冬も暦上終わり掛けだというのに、一向に寒さがなくならない2月の月末。
静は自室で大学でまとめていた研究データのまとめを進めていた。
パチパチとキーボードをたたく音だけが響く中、
ディスプレイ横に置いたホットコーヒーを口にする。
ふうと息を吐き出して、まとめた内容を確認していくと
視線が画面右下の時刻で止まる。
11:55。
そろそろ昼食の時間である。
そう思った瞬間、コンコンと部屋がノックされた。
ドアに顔を向けて返事をすると、妹が顔を出した。
「兄さん、お昼ご飯出来ました」
「ああ、ありがとう」
ショートボブ程度だった乃亜の髪は気づけばミディアムボブくらいの長さになり、
気付けば、どこか幼さを残していた時と比べて、
顔つきや仕草、服装が大人びた様子になっていた。
乃亜は間もなく中学を卒業する。
ここで共に暮らし始めてもう三年が経過するのかと思うと感慨深くあった。
受験生である乃亜だが、夏ごろから志望していた通り、
特待生として中学の推薦を受け、志望の学校に入学が決まっている。
一月も半ばに入ったころにそれが決まり、
二人で安堵してささやかながら祝いの席を設けた。
一方で自分も、卒業論文の発表をつい先日終えたばかりだ。
思い返せばかなり慌ただしかった三年間だったが
幸い予定通りに事が進み、春からは自分は修士課程へと入る。
パソコンを休止モードにして席を立ち、ダイニングへ向かった。
ダイニングテーブルには湯気を揺らす鉢がそれぞれ置かれている。
黒に白いラインが二本描かれたそれらの中身は蕎麦だった。
あたたかな蕎麦の上には山菜が乗せられている。
「いつも悪いな」
「いえ、当番通りですよ」
キッチンでお茶を入れる乃亜に声をかけると
乃亜はなにも気にした様子なく、いつも通り穏やかな笑みを浮かべて言った。
昨年、乃亜がヴァイオリンコンクールに出ることになった際、
どちらが家事をするのかという、ささやかな争いがあった。
しかしこれは、どちらに押し付けるのか、ということではなく、
むしろ逆。
静は乃亜に負担をかけたくないため率先してやっていたし、
それを見て乃亜もまた、先んじて家事をこなそうとしていた。
その話を聞いたましろに「不毛」と一刀両断され、当番表を作れと促されたのである。
その当番表はいまだ継続しており、
定期的に二人で話し合い、
なるべく平等になるように振り分けるようになっていた。
気付けば乃亜も随分と家事が得意になっており、
静はいつまでも子ども扱いしすぎていたと少し反省したものだった。
二人はテーブルについて蕎麦をいただく。
あたたかな蕎麦は冬の寒さには大変にありがたい。
家事が上達した乃亜だったが、中でも料理はかなり腕を上げている。
「随分料理が上手くなったな」
「兄さんに言ってもらえるのは嬉しいですが……、
まだまだ兄さんには敵う気がしないです」
「謙遜だろう」
「さすがにこれは謙遜ではなくて事実だと思います……」
静は首をかしげる。
乃亜は苦笑いを浮かべて蕎麦をすする。
静としては乃亜の料理は十分すぎるほどに美味しいと感じている。
多少、妹贔屓がないとは言わないが。
その後も食事を続けて終えたところで、
静はふと忘れていたことに気が付いた。
「乃亜、このあと少しいいか?」
「え、はい、特に問題ないですが、どうしました?」
残っていたお茶を飲み切った乃亜が小首をかしげた。
「さっき煉矢から連絡があってな。
少し俺、というか、お前に相談があるそうだ」
「え……っ」
少し妹の声が上ずった。
「どうした?」
「え、あ、いえ……、えっと、兄さん、ではなく、私に、ですか……?」
「らしい。俺も詳しくは聞いてない。
このあとWeb通話するから、同席してくれ」
「は、はい、分かりました……」
乃亜は目をさまよわせつつ、
食器を片付けるといって食べ終えた麺鉢をもってキッチンへ向かった。
その様子をいささか訝し気に見つめ、静もまた片づけに立ち上がった。
後片付けは静の仕事だ。
あとで声をかけると言われ、乃亜は自室へと一足先に戻った。
ドアを閉めて、ふらりとベッドに腰かける。
ぽすん、とスプリングがきしむ音をききつつ、
乃亜は頬を両手で包み込んだ。
顔の赤みが静にバレていないことを切に祈るほかない。
昨年の晩秋。
乃亜にとっては大きな出来事が重なった時期だ。
ひとつはコンクールへの挑戦。
記念受験ではないが、半歩だけ、自分のやりたいことをしてみる程度の心地だった。
だがその結果は審査員特別賞の受賞。
当時はかなり悩みもしたし、葛藤も、戸惑いもあった。
だが静やましろ、水野、なにより、煉矢からの祝いの言葉が、
なんとか自分の心を保たせてくれた。
それと同時に深く自覚したのだ。
自分は煉矢を一人の男性として、強く意識している。
好きだと言う気持ちを知ってしまった。
ヴァイオリンコンクールで意図せず賞を受賞したこと。
まるで自分でない自分がいるかのような感覚。
そして煉矢への恋心。
つい少し前までの自分ではなくなったかのような感情の高ぶり。
戸惑いも葛藤も、不安も、苦しささえあった。
けれど、煉矢への恋心も含めて、認めざるを得なくなった。
そんな思いのまま。ガラコンサートで弾いた曲は、
自分のそんな弱弱しい思いとは裏腹に、これが私、と訴える曲。
自分ではない自分を評されていたような不安や怯えにいた時、
誰でもない乃亜自身に対してのメッセージをくれたかの人へ
聴いてほしいと連絡したのは、情けなくも、
自分がいることを伝えたかったからかもしれない。
煉矢への恋心を自覚してから、三か月が経過していた。
その中で以前のようなかき乱されるようなことはいくらか落ち着いた。
しかしそれでも、ふとした瞬間に会いたくて仕方なくなる。
今とてそうだ。
久しく姿を見ていない。
「……あと、三か月は、会えないと思ってたのに」
ぽつりとつぶやきでこぼれた想い。
短期留学中の彼は、予定では五月にはその期間を終えると言っていた。
だからあと三か月、指折りその日を楽しみにしていたのだ。
けれどWeb通話とはいえ、姿を見ることができる。
乃亜はこらえきれない思いのまま、口元に笑みを浮かべる。
こんこん、と部屋がノックされ、乃亜は顔を上げた。
「乃亜、いいか?」
「あ、はい!」
ドア越しに声をかけられ、乃亜は飛び上がるように立ち上がった。
やや緊張を覚えながらドアを開けると、
兄がノートパソコンをリビングに運び込んできていた。
既に通話は始まっているらしく、
画面の向こうに、懐かしい姿があった。
どうか顔が赤くなっていませんようにと祈りながら
乃亜は静に続いてソファに腰かけた。
「こんにちわ、煉矢さん……」
『ああ、こんにちわ。久しぶりだな』
「はい、お久しぶりです」
こうして姿を見ると、本当に少し泣きそうだ。
隣に兄がいるため必死にこらえる。
すこしアッシュグレーのかかった黒髪に、優しい赤い瞳。
目元を細めてこちらを見ている。
泣きそうになるのをこらえて微笑み返した。
静は乃亜の心境に気付くことなく、画面の向こうの煉矢に言った。
「それで、どうしたんだ?
俺というより、乃亜に相談があると言っていたが」
『ああ、そうだな。
乃亜、春休みにこちらに来ないか?』
「え………」
「は?」
唖然としたのは自分だけではない。
兄もまた同様だったらしく、普段より高い声が出ていた。
おそらくそっくりな顔をしていたのだろう。
画面の向こうで彼は口元に手を当てて笑った。
『実はこちらの大学で、3月末にイベントがある。
日本文化をテーマに、音楽やダンス、伝統的な文化を体験できるようなブースを出店し、
文化交流を活性化させる、というのが目的な学生主催のイベントだ』
「……それで、そこにどうして乃亜が関わる?」
『俺の友人が主催側にいるんだが、
日本人にも音楽ステージに立ってほしいということらしくてな。
……これは俺にも少し責任があるんだが、
先のコンクールあっただろう?
あれのガラコンサートの動画を見せていたんだ』
「え……」
『まぁ、きっかけとしては偶然なんだが、
いたく気に入ったようでな。是非に、と』
確かにその時の動画の情報は煉矢にメッセージで案内していた。
だが、それだけでは解せない。
兄も険しい顔をして言った。
「だがそっちにも日本人や日系人は多くいるだろう。
なにかしら楽器ができるやつなど、いくらでも……」
『ピアノ程度ならいくらでもいるんだが、ヴァイオリンともなると厳しいそうだ。
渡航費については主催側で負担すると言ってる』
「ならピアノでもいいだろう。ヴァイオリンにこだわるのは?」
『ヴァイオリンというよりも他の枠が埋まっている。
ピアノも歌もダンスもすでにいるんだ』
「乃亜はまだ15歳になったばかりだぞ。
ひとりで海外に渡航させるというのはさすがに看過できん」
『もしこちらに来てくれるなら、終始俺がフォローする。
こちらのイベント関係者以外とは接触させないし、
当のイベント関係者もおかしな奴らはいない』
それは正直嬉しいと思ってしまった。
そんなことを考えている場合ではないと言うのに。
乃亜は自分を戒めながら、隣で渋い顔をしている兄をちらと見た。
兄が煉矢を心から信頼していることは知っている。
そんな友人が常にフォローしてくれるというのは、
兄にとってそれ以上ないほどの安心感を抱かせるものだったろう。
「宿泊についてはどうする。慣れない環境で、なにかあれば」
『うちを使っていい。客間なら空いている。
そうすれば、常に一緒に行動もできるしな』
「お前……いくら妹のようなヤツだとしてもな」
『本当に安全かもわからないようなホテルに
一人で泊めることの方が不安だろうが』
「く……」
返す言葉もないというのはこのことだ。
静は黙り込んでしまった。
『乃亜はどう思う?
お前自身がどうしてもいやなら、俺は断るつもりでいる。
それで残りの留学に支障が出ることはないから安心して答えてくれ』
「……でも、その、私はそんな、大した腕でもないですし……」
『イベントといっても、コンクールやオーケストラのような格式高いような場所じゃない。
学内の野外ステージだ。
そうだな……どちらかといえば、大学の学祭に近いかもしれないな。
なにより、お前のヴァイオリンは、お前以外のヤツの評価は高いぞ』
「……そう、かもしれませんが」
『それに、いい経験になると思う』
迷うこちらを見る彼の視線はあたたかい。
乃亜は言葉を呑み込んだ。
『渡航経験、というだけではなく、こちらの学生主催のイベントに参加というのは
きっとお前にとって得難いものになる』
「……煉矢さん」
きっと彼は、自分にとっても利点があると感じて
こうして相談と称して話を持ってきてくれたのだろう。
そうでなければ、彼はけんもほろろに断っているはずだ。
自分の為を思って。
それに胸がジンと熱くなった。
「……えと、ちなみに、期間は?」
『イベント当日はこちらの時間の、3/30だ。
だからその一週間くらい前から、翌日までというのが最短だろうな。
もう少しのんびりもできないわけじゃないだろうが、
乃亜も来月から高校が始まるだろう?
それを加味すれば、それが妥当だと思ってる』
「そうですね……」
海外に初めての渡航。
そもそも飛行機さえも乗ったことがないのに、一人でだ。
現地では大学のイベントに参加するという。
いったいどんなものなのか想像もできない。
あまりにも未知の世界すぎる話である。
だが、向かう先には、ずっと会いたいと願っていた人がいる。
その人が、自分に対して与えてくれた機会。
断ってもかれは構わないと言った。
しかしなにかしら、確執が生まれるかもしれない。
困ったことになるのかもしれない。
もし自分が、勇気を出すことで、それが防げるのなら。
ちらと煉矢の姿を見る。
ぽっと心の中に灯るあたたかいもの。
好きな人の、役に立てるかもしれない。
いつかましろが、メッセージで伝えてくれたことは本当だった。
" きっとその想いは、乃亜にとって、信じられないくらい大きな力になるよ "
膝の上にのせた両手をぎゅっと握った。
「……その、あまり自信はないですし、不安が大きいです」
静かに話し始めた乃亜の言葉を二人ともじっと黙って聞いてくれている。
けれど二人の沈黙は嫌ではない。
むしろ、ゆっくり話せばよいと安心感さえ感じさせてくれる。
「……でも、行き、たいです……」
「乃亜」
「……だめ、ですか」
ちらと兄を見れば、彼は少し葛藤しているのか眉を寄せている。
だが、ややあって息を吐いた。
呆れられただろうか。子供が何を言うのかと。
しかし静はいつもの穏やかな笑みになり、
頭を優しく撫でてくれた。
「ダメじゃない。妹が挑戦したいというなら、応援するのが兄の役目だ」
「兄さん……」
「だが、現地では絶対に一人で行動するな。
日本は治安が良すぎるからな。
煉矢の傍から離れないこと。これが絶対の条件だぞ」
「は、はい!」
その様子を見守っていた煉矢もふっと笑う。
二人は画面に再び視線を向けた。
「というわけだ。くれぐれも乃亜を頼んだからな」
『分かっている。詳しい日程はメールするが、
取り急ぎ、パスポートの申請だけ進めておいてくれ』
「はい。あの、色々ご迷惑もおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
『何を言う。迷惑をかけているのはどちらかといえばこっちだ』
「その通りだ。乃亜、滞在中は遠慮せずに煉矢を頼れ」
「兄さん、それは……」
『まぁその通りだし、遠慮せずに頼ってほしいのもそうなんだが、
お前が言うなと言いたいところなんだが?』
「間違っていないならいいだろう」
二人の軽口のたたき合いを耳にするのも久しい。
乃亜は思わずくすりと笑ってしまった。
『では、そのように主催には話しておく。
乃亜、こちらで会えるのを楽しみにしている』
「はい。……私も楽しみにしています」
『ああ。ではな』
それを最後に通話は切れた。
会えるのを楽しみにしている。
たとえ彼が自分のことを妹のようにしか感じていないとしても、
そう言ってくれたのは素直に嬉しかった。
その後、彼に会えると言うだけで、あらゆる不安が息をひそめ、
ただその日を、指折り数えて待つことになった。
新章開始。舞台はアメリカのカリフォルニアです。
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