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【漣編】31:xx15年11月1日

ざわざわと多くの人で賑わう都内某所。

まだ完成して間もないらしいその施設は、区民にとって行政施設という側面の他、

年間を通して多くのイベント会場としても解放されており

近隣住民にとっては親しみ深い場所となっているらしい。


秋も深まる11月の初日。

乾いた風が吹く中でも多くの来場客の賑わいによって寒さはほとんど感じない。

その入り口や、建物の正面の壁には同じデザインのポスターが連続して張られている。


 『Sound Pallet Fes'15』


広場にはすでに路上ライブとして自身のオリジナルソングを歌い上げるアーティストが人々に囲まれ、

その近くにあるガラス張りのカフェには簡易ドラムセットやエレキピアノ、

コントラバスが運び込まれて、いずれジャズが演奏されることを予感させる。

小ホールへの入り口には「楽器体験会」と明るい書体の看板が立てかけられ、

家族連れが吸い寄せられるように中へと入っていくのが見える。


そんなイベントの初日。

乃亜にとって生まれて初めてのヴァイオリンコンクールの日である。


 「乃亜、緊張してる?」

 「してます……」

 「顔からはあんまり感じないけど」

 「顔に出にくいだけです……」


同行してくれているましろがくすりと笑う。

その横で兄もまた苦笑いを浮かべていた。


 「まぁ初めてだし、無理もないな。

  水野先生とはどこで合流なんだ?」

 「あ、控室です。私以外にも、先生の教室から出場される方がいるので……」


水野は自分を含めた出場する生徒、

すべての伴奏を基本的に担当するらしい。

そのため現地で集合という話になっている。


乃亜は二人と共にコンクール出場者の受付へと目指す。

二人に話したように大変に緊張しているし、正直足がすくみそうだった。

予備選考に通ったことさえいまだに信じられないのに

気付けば当日になってしまった。

ヴァイオリンケースのストラップをぐっと握りしめていると、

隣で歩く兄がぽん、と肩に手を置いてくれた。


見上げるとちいさく頷く。

大丈夫、と言葉なく言ってくれているようだ。

それに少しほっとする。


時刻は12:00。

着替えなどを行う楽屋の広さの関係上、受付時間は細かく指定されていた。

本日行われる予選出場者は20名。

それが多いのか少ないのかは分からない。

今日選考に通れば、本選へと進むことになる。

乃亜としてはここまで来ただけでも大変に上出来すぎるので

本選のことはもうあまり考えていない。


受付で予選出場者の書類を提出すると女性のスタッフはにこやかにうなずいて、

楽屋までの順路を案内してくれた。


 「楽屋に入られたら中にお着替え用の更衣室がありますので、

  必要に応じてお着替えください。

  メイクやヘアセットなども楽屋内でやってもらって大丈夫です。

  貴重品などの管理だけ、自己管理になってしまうのでご注意くださいね」


楽屋までの順路はところどころに張り紙があり間違うことはなさそうだ。

乃亜は静たちと共に順路を進む。

真新しい廊下の向こう、紛った先にいくつもの椅子がならび、

既に着替えを終えたらしい出場者らしい人や付き添いの人などが座っている。


楽屋はふたつ用意があるようだが、一方に着替え用、

一方に待機用、と張り紙がされていた。

取り急ぎ着替えである。

乃亜は着替え用と書かれた部屋の扉を押した。


中には5つの更衣室が用意されていた。

また、壁際はメイクなどが行えるよう明るい照明のついた鏡が並んでいる。


 「乃亜、荷物持ってるから着替えておいで」

 「あ、はい……」


乃亜はましろにも促され、着替えをもって更衣室にはいる。

カーテンを閉めたところで、ひとりになり、乃亜は声なくため息を吐いた。


あの時のガラコンサートを見て、その景色の向こうを見てみたいと思って

コンクールに参加することにしたのは確かだ。決めたのも自分だ。

しかし、日々が過ぎていくにつれて、本番が迫っていくにつれて、

本当に自分なんかが出ていいのかという考えがどうしても頭をもたげる。

やりたいことをやっていい、というましろの言葉。

応援すると言ってくれた兄の言葉。

あのころとは違う、と言ってくれた煉矢の言葉。

それに背を押されて、支えられて、なんとか震えそうな足を押さえつけているだけだ。


ふと煉矢の言葉を思い返して、瞼が下がる。

彼に恋をしていると言われて、ただひたすらに戸惑ったし、

正直いまだに認められない。

ただそれでも、彼の声、言葉、微笑み、それを思い出すととくんと小さく胸が鳴る。


乃亜は首を振って思考を切り替える。はやく着替えをしなければ。


いつか購入してもらったラベンダー色のドレス。

ノースリーブタイプのワンピースで、膝より少し長い丈。

腰の白いリボンで上下が区切られ、上半身は白い刺繍が全面に広がり

スカート部分は模様などはないもののシルクのような光沢がある。

あまりお洒落やファッションに興味のない自分でも綺麗だと思う衣装だ。


乃亜は手早くそれに着替えたところで、背中のホックが止めきれないことに気付いた。


 「乃亜、背中大丈夫?」

 「あ、いえ、その、一番上まで届かなくて……」

 「だよね。ちょっと失礼」


ましろがカーテンの向こうから顔だけ出した。

手の届かない背中を確認してくれているようだ。


 「うん、それくらいなら大丈夫だよ。

  出ておいで。こっちで留めてあげるから」

 「あ、ありがとうございます……」


乃亜はそれに従い、脱いだ服を手荷物にまとめて更衣室を出る。

兄は満足そうに微笑んでいる。


 「やっぱりよく似合うな」

 「……ありがとうございます」


恥ずかしさに頬を染めていると、

ましろが後ろのホックを一番上まで上げてくれていた。

その後、ドレッサーのようになっている壁際で、簡単に髪型を整える。

もっとも整えるのは兄が以前と同様にセットしてくれるらしい。

シンプルな銀色のバレッタを取り出す。

ショートボブの乃亜の髪は癖のないストレートだが細い。

それをもう心得ているらしく、両脇の髪を取り上げてねじり、

透明な髪ゴムで結び、仕上げにバレッタでそれを留める。

全体の形を整えるように少し調整してと瞬く間に髪型が出来てしまった。

それを横で見ていたましろは唖然としていたが、

やがて乾いた笑いを浮かべた。


 「静、本当、なんでもできるよね……」

 「ご希望とあらばお前もやってやる」

 「嬉しいけど、やってもらうよりやり方が知りたい」

 「構わないが自己流だぞ」

 「いいよ、なんか動画とか参考にするよりよさそう」

 「なんだそれは」


軽快な会話をききつつ、乃亜は苦笑いを浮かべる。

普段すとんと下ろしたままの髪は整えられて、

普段着ないような大人びたデザインのドレスを纏った自分の顔はどうみても浮かない。

完全に気後れしていると自分でもわかる。


 「乃亜、大丈夫」

 「ましろ……」

 「鏡、見てみなよ」


ましろに促され、もう一度鏡の自分をみる。

浮かない様子の表情は普段の自分と変わらない。

ただ変わっているのは、髪型や装いだけだ。

ましろは両肩に手を乗せてきた。あたたかい手。

素肌を通して感じるのは、少しかさつきがあるということ。

だがそれは手入れを怠っているのではなく、彼女が日々、竹刀を握り

前に進んでいるための証である。


 「私もね、剣道の試合に出る時、道着を着て面をつけるでしょ。

  あれは剣道家の戦闘服。

  あれを着て、試合に立つと、普段の自分とは違う自分になるんだ。

  まるで心の深いところに潜んでいた、剣道家の自分が顔を出すみたいにね」

 「……深いところにいた、自分?」

 「そう。このドレスや髪型は、乃亜にとっての戦闘服。

  ステージに立った時、きっと、普段の自分とは違う、

  深いところにいる自分が出て、きっと今日までの努力を花開かせる。

  ヴァイオリニストの、斉王乃亜がね」

 「……ヴァイオリニストの、私……」


鏡の向こうの自分を見る。

どこか不安そうな自分の顔。

その向こう、瞳の向こうに、そんな自分が本当にいるのだろうか。


   "ヴァイオリンを弾いてる今のお前は、あのころにはいなかった"


ふいに、煉矢の言葉を思い出す。

ぽっと、胸の中があたたかくなり、頬が染まる。

鏡の向こうの自分の顔色が少し明るくなり、

その想いに促されるように、煉矢の言葉を噛みしめる。


ヴァイオリンを弾いている自分は、あのころにはいない。

昔の自分と、大きく大きく、隔てるもの。

もしましろのいうような自分がいるとすれば、

それはきっと、あのころにいた自分ではない。


乃亜はぎゅっと手を握った。


鏡の向こうのましろと目が合う。

彼女はにこりと笑う。

乃亜もそれに控えめながら、微笑み返した。


二人の様子をほほえましそうに見つめていた静は、

ふと他の出演者が着替えのために入ってきたことに気付く。


 「そろそろ出るぞ。乃亜、大丈夫か?」


それに乃亜は頷く。

少なくとも支度は問題ないはずだ。


荷物をもって外に出る。廊下にまばらに並んだ椅子の一つに腰かけた。

荷物に関しては静たちが預かってくれることになっている。

着替えを椅子の下にまとめていると、

馴染みのある声がかかった。


 「乃亜さん!」

 「水野先生」


彼女もまた今日はドレスを身に着けていた。

黒いドレスに髪をアップにしている彼女は、静の存在にも気づき頭を下げた。


 「ご無沙汰しています、斉王さん」

 「こちらこそ。いつも妹がお世話になっています」

 「とんでもない。素敵な生徒さんですもの。

  いつも楽しく過ごさせていただいてます」

 「恐縮です」


互いに挨拶を済ませる中、静が腕時計で時間を確認する。

時刻は間もなく13:00になるところだ。


 「乃亜、俺たちは客席で見ているからな」

 「兄さん……」


やはり少し心細さを感じてしまったらしく

声が少し弱弱しかった。

静は乃亜に視線を合わせるように膝をつき、乃亜の両ひざの上の手を取った。


 「失敗してもいい、間違ったっていい。

  どんなお前でも、今日たどり着けただけで立派だ。

  だから、何も気負わず、やってくるんだぞ」

 「……はい」


不安は消えないものの、それでも小さく口元に笑みを浮かべて頷く。

静はそれに頷いて立ち上がり、水野に会釈をして、

ましろと共に客席のほうへと向かって行った。

ひとり残された乃亜は、その後ろ姿を見送り、

静に握ってもらった手に自分の手を重ねる。


その様子を見ていた水野がぽん、肩に触れた。


 「乃亜さん、いよいよね」

 「先生……はい」

 「不安?」

 「……」


俯き、沈黙で肯定すると、水野は肩に触れた手に力を込めた。


 「大丈夫、あなたのヴァイオリンは、必ず多くの人の心に響くわ」

 「……先生、でも、私、まだよくわかってないんです」

 「分かっていない?」

 「先生がおっしゃっていた、ヴァイオリニストは、語り部だということ。

  ……私には、そんな、こと」


幾度も考えたけれど、どうしていいのか分からない。

だが水野は、ちいさく笑ったようで、驚いて顔を上げる。


 「いつも通りでいいのよ」

 「え……?」

 「今日弾くのは、ヴォカリーズ。

  それを、いつも教室で奏でているみたいに、あなたの思うように奏でればいいの」

 「……でも、それじゃ」

 「大丈夫。今は分からなくても、いずれ分かるわ。

  そもそもね、あなたの言ってるそれが自在に出来たら、

  それはもうプロの領域よ」

 「あ……」

 「もちろん、心構えとして私は伝えているわ。

  だけど、まだちゃんとヴァイオリンを習って2年くらいのあなたが、

  それを自在にできなくて当たり前なの。

  だから、普段通りに、あたなが普段弾いているように弾けばいい」


水野はそう乃亜に言い聞かせる。

乃亜はそれに、多少は納得したのか、小さく頷く。


水野は言葉ではそう伝えたが、実際は異なる。

乃亜が上手くできない、と言っている、それ。

だが普段、ヴァイオリン教室で聴いている彼女のヴァイオリンには

確かな思いが重なっているのだ。

何故、彼女ができていない、と考えているのか、それは水野にはわからない。

推測として、以前乃亜にも伝えたように、

あまりにも大きな才能に、技巧も心も追いついていないことが要因としている。

それに関しては時間をかけて磨いていくほかない。

だからこそ、水野は言葉で彼女の揺れを安定させるほかない。

すべては乃亜の、並大抵ではない才能を導くために。


そして、時刻は13:00となった。




客席へと移動した静とましろは、コンクールの開始の挨拶を客席で聞いていた。

出場者は全部で20名。乃亜の出演は8番目だ。

1曲あたり10分までの短い曲が指定されていることもあり、

とんとんと順番は進んでいく。


またイベントの一環と言うこともあり、クラシックばかりが選ばれているわけではないようで

あまりクラシックに詳しくないましろとしてもなかなかに楽しい。


 「でもちょっとクラシックも聴こうかな」


出場者と出場者の間、ましろはぽつりとつぶやいた。

静が首を向ける。


 「乃亜、今後もコンクールとか出るかもしれないでしょ。

  やっぱり知ってるほうが楽しめると思うし」

 「ああ、そういう話か。まぁ、そうだな……」


少し歯切れが悪い。

今度はましろが顔を向けた。


 「何か気になる?」

 「……今後も、コンクールに挑戦していけばいいと思ってな」

 「どういうこと?」

 「今回も、色々気にしていただろう、あいつ」


自分がコンクールに出ることになり、

他に迷惑をかけているのでは、というのは見て取れた。

乃亜はひどく、他者のことを気にする。

否、自分に対する優先度が低すぎる、低くすべきという考えが根底にある。

自分がなにかしていても、

他になにか影響があるなら、早々にそれを切り捨てることもいとわない。

それで自分が傷ついても、仕方ないこととして諦める。


だからこそ、静は乃亜が「やりたい」と言ったことは心底嬉しかった。

やっと自分の中で優先したいものが見つかったのかと。

しかしそれはひどく不安定なようだった。


 「今後も、同じように続けて、

  少しずつ、前を向いていってくれたらと思うんだが」

 「……そうだね」


さすがのましろも、それに大丈夫と強く肯定はできない。

ましろは乃亜の昔のことを、静から軽くしか聞いていない。

そしてあまり聞くつもりもない。

乃亜のそのことを深く知っているひとは、静と煉矢の二人だ。

二人は昔のことも知ったうえで乃亜に接している。

であれば、自分ひとりくらい、詳しく知らないままの人間がいてもいいはず。

ましろはそう考えている。

だからこそ、大切なことほど、簡単には肯定しない。


 「コンクールに出たいってなったら、また一緒に応援してあげよう?」

 「……ああ、そうだな」


きっとそれが、ゆっくりでも確実な道だ。

ましろの意見に賛同し、静はステージに目を向けなおした。


プログラムは続く。

そして7番目の出場者が終わった。

いよいよ次が、乃亜である。


ステージ横にあるモニターに、『No.8 斉王 乃亜』という表記が出る。

なにか見ている方もどきりとした。


ステージ袖から歩いてくる、乃亜と水野の姿。

どうやら震えていたりはしていない様子に静はほっと安堵する。


ステージ中央に立った乃亜、そしてその奥にあるピアノの前に立った水野が、

客席に向けて礼をした。 

まばらに拍手が広がる。観客席に座る人数はさほど多くないため仕方ない。

今日の予選に関しては、関係者や出場者の付き添いくらいらしい。

明日の本選は有料のチケット制、明後日のガラコンサートは無料で公開されることになっている。


乃亜は水野に視線を送る。彼女も準備はいいようで頷いている。

ヴァイオリンを構えた。

考えて見れば静もまた、乃亜のヴァイオリンを聴くのは久しぶりだ。

初めてヴァイオリン教室に行った時に聞いたとき以来。

楽しみと同時に、身内特有の不安を感じている中、始まった。


【ラフマニノフ:ヴォカリーズ】


ピアノのどこか物悲しい音、そしてそこに重なるヴァイオリン。

そのたった一音からひどくこちらの心が揺れた。

外から、耳から聞こえるのではない。

心の深い部分からその音は、旋律は、否、歌は、響いてくる。

どことも言えない、初めて訪れた場所であるはずなのに、古い記憶がうずいたかのように

吹き向けていく、風の匂いが、古い、もうとうの昔に忘れた記憶をおもいださせようだ。

それは優しい記憶だろうか。

それは悲しい記憶だろうか。

それはあたたかい記憶だろうか。

それは、地獄のような記憶だろうか。

いずれにしても、その時に感じたのは、心の激しい揺れ。

感情が入り乱れ、言葉という単純なものに抑えきれない。

それが音色となって、心の深いところから歌い上げられている。

言葉のない歌。

ただひたすらに、思い、感情、それだけ乗った、風の音。


静かに弓が下ろされたとき、ワンテンポ遅れ、誰かの拍手が響き、

静やましろも、それに追従するように、大きく拍手を鳴らした。




ステージ脇に下がったと同時に、膝が笑いだし、乃亜は転びかけた。

それを水野がそっと支える。

まだ声を出すわけにはいかないので、乃亜はそれに頭を下げて詫びる。


ステージ脇に置かれた棚から、ヴァイオリンケースや荷物を取り上げ、

楽屋の方へとゆっくり向かって行く。


やがて楽屋の前に戻ったところで、水野がこらえきれないように両手で乃亜を抱きしめた。


 「やったわね、見事だったわよ!」

 「せ、先生……っ、わ、わたし、だいじょうぶ、でしたか……?」

 「大丈夫!ばっちりよ!お客さんたちの顔、見なかったの?!

  みんな唖然として、なかには泣いてる人もいたわ!」

 「え、そ、そんな、ひどかったですか……?」

 「逆よ!感動したの!もう、あなたったら!」


ぎゅっともう一度抱きしめてくる水野は興奮が冷めないようだった。

乃亜としては緊張であまり覚えていない。

失敗していないといいのだが、という心配だけだ。


 「とにかく、なにひとつ問題なかったわ!

  結果発表まで時間があるとおもうけど、ゆっくり休んでいてね」

 「は、はい……」

 「私はこのあと別の生徒さんの伴奏もあるから、いったん席を外すわね。

  本当にお疲れ様!」

 「ありがとうございました……」


水野はそういって別の生徒のほうへと向かって行く。

乃亜は深く息を吐き出して、廊下に並んだ席の上にヴァイオリンケースを置き、

その中にヴァイオリンを片付けてから腰かけた。


はやく着替えて、客席にいる兄たちと合流しなければならない。

結果発表は客席で聞くことになっているからだ。

ただ少しだけ休みたかった。


耳を澄ますと別の出演者の演奏が聞こえる。

自分の演奏と比較をしたくても、残念ながら覚えていない。


乃亜はまだ少し震える左手を見る。

どんな演奏をしていたかよく覚えていない。

覚えていないが、いつもより深いところまで沈んでいっていた気がする。

ましろが言っていたように、ヴァイオリニストとしての自分が出ていたのだろうか。

その自分は、うまく演奏できていたのだろうか。


心の中がざわついている。

そのざわつきの正体は分からない。

ただ、なぜかそのざわつきは、口元を吊り上げ、微笑まそうとしてくる。

その理由は、今の乃亜には分からなかった。




ざわざわと客席は会場内はざわついている。

すべての出場者の演奏が終わり、審査結果待ちの時間に入っているからだ。

乃亜は着替えを終えて、すでに兄たちと合流していた。

なにか落ち着かず、先ほどから両手をぎゅっと握ったり組んだりと忙しない。


 「乃亜、大丈夫か?」

 「……大丈夫、というか、大丈夫じゃない、というか……」


何とも言えない。

自分が本選に進めるかも、などという考えはない。

しかしそれでもなにか結果を待つと言う時間は落ち着かないのだ。

静はくすりと笑い、乃亜の頭を撫でた。


 「大丈夫だ、お前なら」

 「兄さん……あの、私、別に、本選に出られるとか思ってないです……。

  ただ、落ち着かないだけで……」

 「お前らしいな。だが、おそらく問題ないと思うぞ」

 「えぇ……」

 「そうそう、乃亜の演奏、すごかったもの」


両隣の二人はずっとこうだ。

乃亜はそれに曖昧に笑みを浮かべるしかない。


 「大変お待たせいたしました。

  間もなく、ヴァイオリンコンクールの予選通過者の発表を行います。

  出場者の方は大ホールへお集まりください」


アナウンスが流れ、どきりと心臓が高鳴った。

ホールの外に出ていた出場者や関係者が戻って来る。

数分間を置いて、ステージ上にスーツを着たスタッフらしい人物がマイクをもって現れる。


 「Sound Pallet Fes'15ヴァイオリンコンクールに

  ご参加いただきまして誠にありがとうございます。

  これより、予選通過者の発表を致します。

  若い番号順に発表し、通過者は8名となります」


スタッフらしい男性はポケットから一枚の書類を取り出し、

そしてマイクを構えた。


 「No.3 田中 浩紀さん、

  ……No.6 時任 詩織さん、

  ……No.8 斉王 乃亜さん」

 「?!!」


びくり、と身体が揺れた。

と、同時に隣のましろが抱き着いてきた。

また、静がましろごと肩を抱いてくる。


まさか。

まさか。


しかしそれを叫ぶことも出来ない。

客席のあちこちで声にならない感情が破裂している。


 「……No.20 泉 康太さん。

  以上8名の皆さま、おめでとうございます!

  明日の本選は17時からとなりますので、今呼ばれた皆様は、

  帰りに受付にて書類をお受け取りの上、ご帰宅ください。

  残念ながら通過できなかった皆様も、大変に素晴らしい時間をありがとうございました。

  ぜひ引き続き、本イベントをお楽しみいただければ幸いです。

  以上を持ちまして、予選会を終了いたします。

  本日はありがとうございました」


拍手が広がる。

隣でましろが喜んで笑っている。

隣で静が嬉しそうに髪を撫でてくれている。

そして乃亜は、ただ、唖然と、

信じられない気持ちで、誰もいなくなったステージを見ていた。


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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★

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★アルファポリスでも連載中★

https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664

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