【漣編】29:xx15年9月19日
夏休みが終わり二学期が始まった。
夏期講習やコンクールの練習にと、昨年や一昨年に比べるとなかなかに忙しかったが
それでもある意味では充実した夏休みだったと思っている。
たまの息抜きとして、ましろが遊びに来てくれたり、
兄と出かけたりと言った時間がとれたことも大きい。
今日は土曜、ヴァイオリン教室の日である。
コンクールに出ることになり、演奏予定の二曲についての解釈を広げ
それに基づいた弾き方を模索する。
乃亜は水野との会話の中で、技巧というのは弾くためのツールだと改めて感じた。
水野は言った。
ヴァイオリニストは語り部なのだと。
譜面と言う無機質な音符の羅列を自分の中に取り込んで、
それを自分の思い、感情を、音色や旋律に乗せ、語るのだと。
素敵な話だと思った。
しかし、実のところ飲み込み切れていない気がしていた。
納得はできるし共感もできるが、出来るかと言われると難しい。
曲を感じて素敵だと思っても、それに対する思いは言葉にならない。
言葉に上手くできない。
上手くできない感情、思い、言葉を、音色や旋律に込めるなど無理ではないか。
毎回その葛藤を抱きながら演奏をしているのだが、
一方で、水野はひどく褒めてくれる。
なにか過剰評価されているのではいう気持ち悪さが消えない。
今日こそ、そのあたりが掴めればいいが。
乃亜はそれを考えながら、いつものようにヴァイオリン教室にたどり着いた。
インターホンを押して声をかけるとややあって開錠される。
中に入り靴を履き替え、練習室に入った。
「いらっしゃい、乃亜さん!」
「こ、こんにちわ、水野先生……」
なにかいつもよりテンションが高い気がする。
満面の笑みを浮かべて出迎える水野に少し戸惑いつつ挨拶をすると
彼女はふふ、と口元に手を当て、荷物もまた下ろしていない乃亜の手を取った。
「おめでとう!コンクールの予備選考、通ったわよ!」
「え……、え?!」
聞き間違いだろうか。
否、水野は頬を紅潮させながら笑みが絶えないでいる。
「うふふ、まぁ絶対大丈夫と思ってたけど、やっぱり嬉しいわ!」
「え、あの、水野先生……っ、え?
予備選考……通った、んですか?」
「そうよ?ああ、ごめんなさい、荷物下ろしちゃって」
「は、はい……」
頭が回らないまま、水野の言う通り荷物をいつものように置く。
予備選考が通った?あんな演奏で?まさか。
乃亜は今だに信じられないでいる。
しかし水野の浮かれようといい、冗談のようには見えない。
水野はピアノの上に置いてあった何枚か綴りの書類を持ち
こちらに差し出してきた。
そこには明朝体で、斉王 乃亜さま、と自分の名前がかかれ、
予備選考を通過したため、予選への出場を促す文面。
一度では信じられず、二度読み返しまさかと思い、さして三度読んで、
ようやく、本文を理解できた。
「……私、予選、出るんですか?」
「そうよ!今度は録画じゃない、本物のあなたの演奏を
審査員やお客さんに聴かせてあげられるの!」
「で、でも、私、全然……っ!せ、先生、私まだ……うまくできなくて……!」
いっそ顔色を悪くさえしながら乃亜は水野にすがるように言った。
水野はそれに少し驚いた様子を見せたが、
やがてにこりと、いつものあたたかみのある笑顔を見せて
乃亜の両肩に手を置いた。
「大丈夫。まだ日はあるわ。
上手くできないと思うなら練習すればいいの」
「そ、それは……そう、ですけど……でも……」
「あなたが自分の演奏に納得できていないのは分かってる。
でもね、それでも、私を含めた聴いている人はみんな、
きっとあなたの演奏に感動するわ」
「……そんな、こと……」
「あら、私の感性を疑っちゃう?」
「ち、違います、そんなこと!ただ、……っ」
少し悪戯めいたことを言った水野に乃亜は焦って声を上げた。
水野を疑うなどそんなことは欠片も考えていない。
ただ自分の演奏が、そんな大それたものだと心底思えないのである。
水野は乃亜の両肩をポンポンとたたき笑う。
「分かってる、あなたは決してそんな風には考えないわ。
でも、過ぎた謙遜はそういう風にも捉えられてしまうことがあるの」
「は、はい……」
「あなたの才能に、あなたの技量も心もまだ追いついていないのよ。
このコンクールで認められれば、きっと少しは自信になるわ」
「………」
「さて、それじゃレッスンの前に、少しコンクールのこと、話しましょうね」
「……はい」
才能。
そんなもの、本当に自分にあるのだろうか。
何も特別なことをしていない。
優れた技巧があるわけでもない。
ただ、本当にただ、ヴァイオリンを弾いているだけだ。
勿論練習はしている。
それでもコンクールで評価されるほどの努力をしていただろうか。
まるで自分が、自分でないような気がする。
自分ではない何かを見て、周囲がそれを讃えているような。
乃亜は初めて、ヴァイオリンを弾くことに対して、怖さを感じた。
「ただいま帰りました……」
自宅のドアを開けてそう口にする。
声色が暗い。
自分でもわかるそれに、乃亜はぐっと唇を噛んだ。
「おかえり、乃亜」
「っ、あ、ましろ……来ていたんですね」
「うん、今日はデートの日だったから」
ましろがいるなら、尚のことだ。
乃亜は暗い気持ちを奥の方へとおしやり、
デートの日だったという言葉に笑みをこしらえた。
「どうかした?」
「いえ、ちょっと報告というか……」
ぎくりとする気持ちは誤魔化せただろうか。
話を逸らしつつ、靴を脱いで室内へ入る。
小首をかしげるましろと共にリビングへ向かうと、
いつものように、兄がキッチンに立っていた。
「おかえり、乃亜」
「ただいま帰りました、兄さん」
兄の姿に少しほっとする。
二人に断って荷物を置きに自室へと入る。
暗い部屋に入って電気をつけ、後ろ手にドアを閉めたところで、
音なく、深く息を吐き出した。
二人がいるなら、報告しないといけない。
先ほどもそう告げた。
けれど、なんの憂いもなく口にできる気がしない。
心配をかけたり、気遣わせたりしないだろうか。
どこか惰性的に荷物を部屋に置く。
荷物の中からスマートフォンだけを取り出して、充電器に差し込んだ。
それを少し眺め、ややあって、CORDアプリを立ち上げる。
相談させてもらったのだから、結果は報告するべきだ。
そう思い、煉矢の名前をタップしてチャットを開く。
『コンクールの予備選考、通りました』
乃亜はそれだけ送りロックする。
報告は静とましろにもして、それだけではない。
予選についても、静には知らせておかなければならないと気付く。
少し重い身体を引きずり、トートバックの中に入っている予選についての書類をもって
リビングへと戻った。
ダイニングの向こうのキッチンでは、
静とましろが話をしながら料理をしている。
相変わらずの仲睦まじさを感じ、乃亜は小さく笑うことができた。
「あの、兄さん」
「ん?」
カウンター越しに声をかける。
ましろは皿を用意しながら首だけでこちらを見た。
「その……予備選考、通りました……」
「は?」
「えっ」
「こ、コンクールの……だからその、予選……出ることに」
「本当か?!」
「え、乃亜すごい!!」
思った以上に2人の反応が大きく、乃亜は思わずのけぞった。
ましろがキッチンから飛び出してきた。
乃亜ののけぞった身体を抱きしめる。目を見開いた。
「やったじゃないか!!おめでとう!!」
「えっ、あの、ましろ」
「予選ってことは、あれでしょ、舞台に立って弾くんでしょ?!」
「は、はい、その、そうです……」
「やった!!私、絶対行くから!
乃亜の演奏、生で聴いたことなかったから聴きたかった!!」
「え、でも、あの、そんな巧い演奏じゃ……っ」
「関係ないの!
私は、巧い演奏を聴きたいんじゃなくて、乃亜の演奏を聴きたいの!!」
「え、ええ……?」
ましろはぎゅうっともう一度抱きしめてそして身体を離した。
興奮しているのか頬を赤くして満面に笑みを浮かべている。
「巧い演奏が聴きたいだけなら別にプロの演奏聴きに行くよ。
そうじゃなくて、私は、乃亜だから、聴きたいの」
「ま、ましろ、でも……」
「ましろの言う通りだぞ、乃亜」
静が大きな手で頭を撫でる。
乃亜はそれに目を閉じ、手が離れたタイミングで顔を上げた。
「俺たちはコンクールがどうじゃなくて、
お前のことだから喜んでるんだからな」
「に、兄さん……でも、私、そんな大したことはできなくて……。
その、コンクールに出たい、とは思いましたけど、
でも、まさか、通るなんて思わなくて……
本当に通ったなんて、今でも信じられなくて……」
「乃亜」
彷徨う乃亜の視線をとらえるように、静は少し屈んで視線を合わせる。
乃亜は自分と同じ色の青緑の瞳を見つめ返した。
同じ色なのに、それはとても暖かくて、強く優しい眼差しだ。
それに戸惑う心が少し落ち着いていく。
「今すぐ全部を受け入れろ、とは言わない。
謙遜したくなるのは分かるし、信じられないかもしれない。
ただな、事実として、お前は予備選考を通過して、予選に出る。
……あのガラコンサートの舞台に、一歩近づいたんだ」
「あ……」
それに目を大きくする。
兄とともにいったあのコンサートの舞台。
そのステージの向こう側を見てみたい、と思った。
それがコンクールに出たいと思ったそもそもの理由だ。
確かにそれに一歩近づいたと言える。
先ほどまで不安と葛藤、戸惑いに震えていた身体が少し落ち着いていく。
代わりに、なにか、明るくあたたかいものが、わずかに胸に灯る。
「だから、お前にとっても、きっと、喜ばしいことのはずだ。
……そうだろう?」
喜ばしい、こと。
乃亜は胸に灯るあたたかなものに触れるように、
書類を持っていない右手で、胸元に手を当てる。
ふわふわと浮かんでくるそれは、確かに。
乃亜はようやく、わずかながらも、口元に笑みを浮かべた。
「……はい」
それに静はもう一度乃亜の髪を撫でた。
「ところでさ、ヴァイオリンコンクールって、服装ってどうするの?
なんかテレビとか動画とか見てると、クラシックの場合、
ドレスというか、綺麗な恰好してるよね?」
乃亜がまとう空気が落ち着いたと判断したのか、
ましろが明るく話題転換をした。
乃亜はそれに手元の書類をちらと見た。
「あ、水野先生からも、正装が基本だと言われました……。
中学生だからドレスとまでは言わないけれど、
結婚式とかに呼ばれた時のような、正装にしなさいと……」
「ふむ、なら、今度買いに行かないとな」
「え、いえ、あの、前に兄さんとコンサート行った時の、あれでいいかなって……」
「アレか……、まぁ、アレはアレで似合っていたが……」
乃亜が言っているのは以前、ガラコンサートに行くにあたり購入したワンピースだ。
ドレスというわけではないが、とてもシックで品のいいワンピースだった。
フォーマルとは言わないまでも、冠婚葬祭のような場に着ていけないとも思えない。
第一、また新しく購入してもらうなんて、と考えている。
が、そこに待ったがかけられた。
「いやー、買うべきでしょ。
せっかくの乃亜の晴れ舞台なんだし、それ、去年の1月でしょ?
乃亜だって身長伸びてるだろうしさ」
「いえ、その、身長は、2cmくらいは伸びてますがそれくらいで……」
「ダメダメ、折角乃亜に可愛い服買える機会なんだよ、見逃さないから」
「全面的に同意する。乃亜、明日か来週の日曜か、隣駅行くからな」
「ちょ、に、兄さんまで、乗らないでください……!」
完全に買う気満々の二人に乃亜が勝てるわけもなく、
乃亜は結局、翌日隣駅へと連行されていくのであった。
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