【漣編】28:xx15年8月14日
コンクールに出る、そう告げた日。
水野は乃亜がコンクールに挑戦することを大変に喜び、早速というように選曲に入った。
乃亜としては正直どんな曲を選んでいいのか分からない。
「今度のコンクールは、予備選考、予選、本選、というように進むの。
予選と本選は別の曲を演奏する必要があって、
予備選考については予選や本選で演奏する曲でも構わないわ。
あとは、もし本選で入賞したときに備えたガラコンサート用の曲ね」
今回のコンクールは、イベントの一プログラムという側面が強い。
イベントは3日間行われ、1日目に予選、2日目に本選、
そして3日目にガラコンサートが行われるらしく、
イベント自体も3日目が最も盛り上がりを毎年見せているらしい。
乃亜としては入賞などと夢のまた夢、とてもあり得ないと考えている。
そう水野に言えば、そこは変わらないわねぇ、と苦笑いされた。
「でももしもって場合を考えて練習しておかないとダメ。
だから最低3曲、選んでおかないとね」
いまひとつ腑に落ちないものの、そういわれては頷くほかない。
戸惑いながらも頷いた乃亜を見て、水野は満足げに続けた。
「ガラコンサートについては、よりイベントとしての色が強いの。
だから、キャッチ―な曲のほうをお勧めするわ。
もちろん、クラシックでもいいけれど、どうせなら
洋楽やポップスのカバーなんかもいいと思う。
去年なんて、アニメソングのカバーしてきた人もいたわよ」
イベントの一環として、多くの人に受け入れられる曲の方が良いというのは分かる。
乃亜はそれを聞いて、ガラコンサートについては水野に一任したい旨を伝えた。
「分かったわ。
それじゃ、まずは予選と本選の曲を考えましょう。
そのどちらかを予備選考用に録画して送ることにしましょうか」
そうしてその日はレッスンもそこそこに選曲に注力した。
結果、【ラフマニノフ : ヴォカリーズ】【フォーレ:夢のあとに】の2曲に決まった。
予備選考にはヴォカリーズの方を使うことにし、
申し込みは8月の最初のレッスンで録画し水野が進めるとのことだ。
ガラコンサートに向けた曲の選曲はもう少し時間が欲しいというのでその場ではお開きになり
乃亜はその二曲、特に予備選考でも演奏するヴォカリーズを重点的に練習することになった。
そして、その夜。
乃亜は静にも、コンクールに申し込むことにした旨を話した。
いつものようにソファに並んで座って話すと、
静はそれをきき、見たことないほどに柔らかく目元を細め、乃亜の髪を撫でた。
「そうか、分かった。
お前がやりたいと言って決めたなら、俺は応援する。
今までよりも練習に時間を割くだろうし、
家のことは無理してやる必要はないからな」
そういわれて、乃亜ははっとした。
今現在、家事の多くは乃亜が対応していた。
ひとえに兄の負担を減らし、卒業論文に注力して欲しいがためだ。
乃亜は首を振り、兄の誤解を解こうと声を上げた。
「いえ、おうちのことは、別にそんな大変じゃありませんし、
引き続きやっていくつもりです」
「だが、夏休みは夏期講習も行くつもりなんだろう?」
「う……」
痛いところをつかれた。
乃亜は言葉を詰まらせ瞳をぐるりと回す。
乃亜は今中学3年生。つまり高校受験を控えているのである。
受験生ということで中間テストのあとに進路についての面談があった。
乃亜としてはまだ将来のことなど何も考えられない。
進学する高校についても、自分の学力の範囲の公立高校。
それくらいしか希望はなかった。
兄は学費などは気にするなと言っているが、
それでも無用な支出をする必要がないと考えている乃亜は公立高校を選ぶつもりだった。
進路相談で、両親がおらず、
兄と二人で暮らしているということを把握していた担任は、
ひとつの選択肢として、と提示してきたのは、ある高校の特待生制度だった。
非常に優秀な学校成績を収めている生徒を学校として推薦することで利用できるその制度。
実際、乃亜の学業成績は非常に優秀である。素行についてもなんら問題なく模範的。
もちろんこれから授業は一層難しくなっていくため、
それにちゃんと追いつき、つねに優秀な成績をキープしなければならない。
だが、もし特待生制度を利用できれば学費は全面免除とされる。
その話を聞き、乃亜はそれを利用できないかと考えていた。
勉強はさほど苦に感じたことはない。
そして当面はそれを目標にすることにしたのである。
当然、夏休みも学力に注力するつもりだった。
その矢先、6月ごろにクラスメイトから夏期講習に行かないかと誘われた。
進学先や特待生制度、夏期講習などについても兄に相談。
二人で話し合い、進学先についてはひとまず、という形で進め、
夏期講習も行くことを決めた。
もっとも、静は俺が教えられたらよかったんだがと最後まで苦く笑っていた。
ともあれそういった経緯にて、
乃亜はこの夏休み、週に二回、夏期講習に行く予定だった。
そこに沸いたコンクールの出場である。
はやくも出場について迷いが湧き出してきた。
「……その、私、やっぱり」
「乃亜」
それ以上は言わせない、というように少し鋭い声で静にさえぎられた。
乃亜は気づけば下がっていた視線を上げた。
静はいつも通りの、穏やかな笑顔だった。
「俺は嬉しいんだ。
お前がそうして、やりたいことを見つけてくれたのがな」
「……兄さん」
その言葉に偽りはないように見える。
細められた目元からは感慨深ささえにじみ出ていた。
「それに言っただろう?
確かに忙しいが、去年ほどじゃない。
早めに帰ってきて、夕食の支度くらい、どうとでもなるんだ」
「……でも、その分、夜、おやすみされるの、遅くなりますよね?」
「……言うじゃないか」
「だって……」
「とにかく、お前は自分のことに集中しろ。
去年、お前が率先して色々してくれたことで、俺はずいぶん助けられた。
今度は俺にお前を助けさせてくれ」
「それは、さすがに大げさです……。
本当に、大丈夫ですよ。週に2回は、なにもない日がありますし……」
「学校からの宿題や、夏期講習の課題、ヴァイオリンの練習、
それをどこにあてがう気なんだお前は」
「そ、それは……あ、実際に、行く日にあてがえば、たぶん……」
「たぶん」
「うう……」
言い負かされる。
乃亜は小さく縮こまるしかない。
静はくつくつと笑い、乃亜の髪をもう一度撫でた。
「まぁ、実際に夏休みに入ってからでないと何とも言えないな。
ともかく、俺から言えるのは、
無理に家のことまで手を回さなくていいということだ」
「………」
「……返事は?」
「……、はい……」
「ふ、ふふ、お前、意外と強情なところがあるよな」
「だって……兄さんに迷惑、かけたくないです……」
「迷惑じゃないと何回言えばわかるんだお前は」
呆れたような笑いと共に、乃亜の髪は大変にぐしゃぐしゃにされた。
その後、乃亜は予定通り夏休みに入った。
夏休みに入ってすぐに、恒例となっている三者面談では、当然ながら進路についての話が出た。
乃亜の第一志望は、以前進路相談で話していた学校。
担任は一学期の期末テストでも学年で5位以内の成績だったと大変に褒めてくれた。
この調子でいけば決して特待生制度も夢ではなく、
むしろ十分に射程内と言ってくれた。
それに乃亜は安堵しつつ、引き続き、学業に身を引き締める思いだった。
そして夏休みは去年と異なり、それなりに忙しいスケジュールになった。
夏期講習は月曜日と木曜日。
隣駅の駅ビルにある少人数制の塾が開催しており、13時から19時までみっちり行う。
当然宿題も出るわけで、それを空いている日にこなさなければならない。
英語は比較的得意だが数学はあまり得意でないらしく、
それについては必死に追いつくほかなかった。
また、水曜日と土曜日の夜はヴァイオリン教室があるのは変わらないが、
コンクールに出場することを決めたことで、水野の指導も熱が入るようになった。
もちろん厳しいことを言われるわけではないが、
今まで以上の細かいこと、弾き方、解釈、そういったことを話しあう時間が増えた。
思い切りヴァイオリンを弾けるのはその時だけなので、
指使いや水野と相談したことについては自宅の電子ヴァイオリンで反復練習は欠かせない。
空いている日は火曜日と金曜日の二日であるので
静に告げたようにこの日に夏期講習や学校からの宿題、
ヴァイオリン練習を集中しようと考えていた。
が、思ったよりも宿題の量は多い。
更に言うと、ヴァイオリンも納得できるまで弾いていると、瞬く間に時間が溶ける。
とはいえ家のこともお座なりにはしたくはない。
夏期講習とヴァイオリン教室のある日の夜はどうしても遅くなるため
夕食の支度は難しいと思っていたため、それ以外のものをちゃんとこなそうと考えていた。
そう思っていたのだが、掃除にしても洗濯にしても三食の支度についても、
気付いたらある程度こなされている気がしている。
兄にである。
掃除にしても火曜日や金曜日、もしくは各日の午前中にしようと考えていたのに
実際にやってもさほど汚れていないことに気付いた。
洗濯は夜に回されていて、朝起きてみればすでにたたまれていたり。
朝食はいつものように兄が起きて作っているし、
昼はさすがに乃亜が自分で用意するものの、
時と場合によっては弁当が用意されていることさえあった。
夜に関してはもうどうにもならない。
結果。
「それで静、寝不足になりかけてるの?」
「そうです……」
「あはははっ!」
この夏休みに入ってからの話を聞いて、ましろが腹を抱えて笑っている。
乃亜はがっくりと肩を落として溜息を吐いた。
夏休みも8月に入ったある日。
ましろが家に遊びに来た。
勿論、乃亜が勉強やヴァイオリンの練習で忙しいことは把握している。
しかし、かといってそればかりでは息も詰まるだろうと
土産を持参して、半ば強引に乃亜に休息日を作らせに来たのだ。
リビングテーブルに土産の水ようかんと冷たい緑茶を並べ
夏休みのあれこれを話しているうちに、
徐々に愚痴のような形になっていって、今である。
ましろは目じりにたまった涙を指先で拭い、はぁ、と息を吐いた。
「いやもう、なにしてんの。
お互いがお互いのサポートをどうにかして先んじてやってやろう!って
意地みたいになってるじゃん。
もうさぁ……ああ、おかしいったら」
「意地になってるのは兄さんの方です……」
「いや、乃亜だっていい勝負でしょ?
夕飯の下ごしらえとか、キッチン周りの片づけとか、
お風呂の支度とか、水回りの掃除とか、
なんか気づけば色々してるって静が言ってたけど?」
「う……」
「くくくっ、もう、ほんっと、なにしてんの二人して……!」
ましろは再び笑い出した。
意地になってる。分からないわけではない。
乃亜から言わせれば兄のほうがよほど大変なはずだ。
ただでさえ、一般ではない、一年早くの卒業に加えて、
昨年学会で発表した研究も各分野から相変わらず注目を浴びているらしく
そちらの研究も粛々と進めて、
結果や成果を出さなければならないプレッシャーとてあるはずだ。
それになにより、去年あれほど大変な日々を乗り越えて、
ようやく愛する人と手を取り会える関係になれたのだ。
二人で仲を深めるような時間だってとってほしい。
欲しいのに、その恋人は、今自分と過ごしてくれているわけだが。
乃亜はからからと笑うましろに対して若干頬を膨らませつつ、
じとりと視線を向けた。
「ましろこそ、いいんですか、私に構っていて」
「んー?」
「兄さんと、その、デート、したりとか……」
「ああ、そういう日はもう夏休み前に決めてるから。それ以外はいいの」
「はい?」
どんなスケジュール管理だ。
乃亜は首を傾げた。
ましろは笑いながら、水ようかんにフォークを埋めながら言う。
「静が忙しいのは分かってたからね。あらかじめ、二人で過ごす日を決めてるの。
その日にあわせてお互い調整してるんだよ」
「……それは、あんまり、会えないんじゃ」
「まあ回数は多くないけど。
でも静も頑張ってるんだし、応援したいじゃないか。
なにより、数年もお互いに両片思いで過ごしてたんだよ?
この程度、大したことじゃない」
強い。
なにひとつ偽りない様子で言いきるましろに乃亜は感嘆しかできない。
そんな横で、ましろは水ようかんを口に放り込む。
乃亜もまたそれに倣って一口サイズに切り分け、口に入れた。
甘いながらも程よい塩気が口に広がり目を丸くした。
思わず口元に手を当てる。
「美味しいですね、これ……」
「でしょう?あそこの和菓子屋さん、本当に美味しいんだから。
今度また来るときに買ってくるよ」
「それは、嬉しいですけど……」
そんな繰り返し来てもらうのもなにか申し訳ない気もする。
そもそもここ最近は大変に暑い。
去年あんなことがあって、熱中症にでもなって倒れては大変だ。
乃亜の危惧していることを察したのか、ましろはにこりと笑った。
「家にいても暇なところあるんだよ。
竹刀で素振りはできるようになったけど、本格的な稽古はまだできないし。
かといって家でダラダラしてても仕方ないし。
だったら、涼しいうちにこっちに遊びに来て、
宿題したり、乃亜と一緒に料理したりしてるほうがはるかにマシ。
心配しなくても、ちゃんと暑さ対策はしてくるから」
「……なら、いいんですけど」
「もちろん、乃亜の邪魔にはならないようにするからさ」
「邪魔なんて、そんなこと考えたこともないです」
「ならよかった」
微笑むましろに乃亜も笑いかける。
実際、ましろが来てくれると嬉しいというのが本当のところだ。
最初に会った時から、彼女の明るさや人柄は接していて落ち着く。
乃亜はもう一口、水ようかんを口にした。
「実際のところ、乃亜は平気?
結構毎日忙しいんでしょ?」
「兄さんほどではないですよ」
「静と比較しないでいいから、乃亜基準で。
疲れてたりとかしてない?」
「特には……。もちろん、勉強は大変ですけど……」
夏期講習の内容は非常に濃密である。
約7時間、もちろん途中休憩などは挟まるが、
国数英理社といった主要五教科の受験対策としてしっかりと学ばなければならない。
学校の授業の比ではない。
さすがに終わるころにはぐったりとしてしまう。
進路については伝えており、
それを考慮したひとりひとり合わせた学習指導が続いている。
「静に聞いたけど、特待生狙ってるんでしょ。
学校はどこ?」
「ステラ・マリス女学院です。ここからだと、電車で45分くらいでしょうか」
「ああ、あそこか!高校紹介の冊子で見た。
名前が特徴的だったから覚えてる。昔からあるお嬢様学校だっけ」
「お嬢様学校というのはちょっと分からないですが……。
落ち着いた校風のとてもいい学校だと聞いてますね」
「確かウチより偏差値も高かったなぁ。
ミッション系でしょ、たしか」
「らしいです。まぁ、そうでない人ももちろん通ってるようですし、
宗教色は強くないらしいですよ」
まだホームページや冊子などでしか見ていないが、とても綺麗な学校という印象だ。
もちろん実際にいってみないと確かなことは分からない。
学校紹介や校風などを見ている範囲ではいい印象だった。
「女子高か、乃亜にはいいかもね」
「そうでしょうか。……特にそのあたりは気にしてなかったです」
「特待生制度が使えるから選んだ?」
「そうです。学費免除になりますし……」
「乃亜らしい理由だねぇ」
苦笑いとともに溜息を吐かれた。
小首をかしげる乃亜をよそに、ましろは水ようかんを食べきる。
緑茶でのどを潤し、続けた。
「ヴァイオリンの方は?もう申し込んだんでしょ?」
「はい。今月の頭に……緊張しました」
「ああ、録画が?」
「そうです……。本当にアレで大丈夫なのかとも思いますし……」
演奏のことである。
正直納得いっているかというとそうでもない。
ただ時間が許す範囲で録画を繰り返し、
二人で最も良いものを選び申し込みに進んだ。
「静が、乃亜がヴァイオリンの練習し始めると
本当に声かけないとずっとやり続けてるって言ったよ」
「……うまくいかなくて。つい、集中してしまって」
「してしまって、時間が溶けるんだ」
「……はい」
「……乃亜さ、ちょっと手かして」
「え?」
ましろは聊か眉を寄せて乃亜の左手を取った。
手の平や腕、二の腕を触られ、乃亜は驚くがましろの表情は真剣である。
「乃亜、ちゃんとストレッチしたほうがいいよ。
私はヴァイオリンは詳しくないけど、普通使わない筋力使うだろうし、
結構張ってるもの」
「あ、はい。それは、わかってます。一応してるんですが……」
「足りません。お風呂でも入念にね」
「はい……」
考えてみれば、以前より格段に練習時間が増えている。
今までのようなマッサージやストレッチでは足りないのだろう。
乃亜は素直に反省した。
「……さて、それじゃそろそろ、当番表でも作ろっか」
「え、はい?」
氷が解けかけている緑茶を飲み切る。
乃亜はましろの言葉に目を白黒させた。
「家事当番表。
聞いてる分にはそれはもう面白いんだけどさ、
どっちが先に家事やるか戦争なんて不毛なことしてないで、
ちゃんと明確に当番表作った方がいいでしょ」
「ああ……そういう手が……」
「頭いいのに、変なところ抜けてるんだから。
本当、兄妹だよねぇ」
「う……」
返す言葉もない。
「まぁ、静の場合は多少流動的なところもあるだろうけど、
そこはちゃんと貸し借りで清算するんだよ。
じゃなきゃ、まーたしょうもない不毛な戦争が始まるもの」
「不毛な戦争って……」
「間違ってないでしょ。協力し合うってのは、
いかに常に平等性を保つかなんだから。
一方が傾いたら即破綻するの。
ほら、それっぽい家事分担アプリ、探すよ」
「はい……」
こうしてましろの的確なアドバイスに基づき、
斉王兄妹の不毛な戦争は終わりを告げた。
夜、静もまったく同じようなことをましろにCORDで言われたらしく、
なんとも苦い笑みを浮かべながら承諾していた。
互いに週の家事分担について話し合い、次の日からそれは実行されることとなった。
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