【漣編】26:xx15年7月8日
六限目が終わるチャイムが鳴る。
担当の教師はそれと同時に教科書を閉じて、日直に授業終了の合図を促した。
日直の号令で起立、挨拶をして授業は終わった。
「乃亜ー、今の最後のところ分かった?」
「あ、はい、一応……」
前の席に座るクラスメイトが疲れた顔で振り向く。
途端、隣に座る女子生徒もこちらを見た。
「お願いっ、ちょっと放課後教えて!
マジで後半頭こんがらかっちゃってさ……」
「アンタそれいっつもじゃん!
来週から試験なのにだいじょぶそ?」
「だいじょーぶじゃありませーんっ!
ねー乃亜おねがいーー」
周囲の友達は楽しげに笑う。
乃亜も机に項垂れる彼女に対して、口元に手を当てて小さく笑う。
しかし残念ながら今日は難しい。
乃亜は眉を八の字に下げ、申し訳ない気持ちで告げた。
「ごめんなさい……今日は予定がある日なので……」
「っあ!今日水曜?!水曜だね?!」
「はい……」
「乃亜、気にしないでへーきだよ?
甘やかさないほうがいいって!」
「そうそう!あんたこないだの数学でも同じこと言ってたでしょー?」
「うう……だって乃亜の教え方わかりやすいんだもん……」
頼りにしてくれるのは嬉しい話だ。
乃亜としても友人の力になれるのなら協力したい。
だが、水曜日はヴァイオリン教室がある日のため、
どうしてもはやく家に帰る必要があった。
が、困っている友人の力になったほうがいいだろうか。
ヴァイオリン教室は土曜日にもある。
もうすぐ試験もあるのだから早いうちに疑問は解決したほうがいいかもしれない。
そんな、普段の乃亜であれば考えもしない思いが浮かんでいると、
隣の席の友人がからからと笑った。
「乃亜にだって都合はあるんだからさ、無理言わないの!」
「わーかってまーす!
乃亜ごめんねぇ……なんとか自分でがんばる……」
友人たちの気遣いに乃亜はいよいよ申し訳ない気持ちになるが
そこまで言ってくれていて、後には引けなくなった。
「あの、よければノート、お貸ししましょうか?
参考になるかは分からないですが……」
「えっ、いいの?」
「はい。明日、返してもらえれば」
「ありがとう!助かる!!」
前の席の友人は差し出したノートを、
まるで表彰状を受け取るかのように大仰に両手で取った。
それに苦笑いを浮かべていると、担任の教師が教室に入ってきた。
帰りのHRが始まる。
友人はもう一度礼をいい、前を向きなおした。
帰りのHRを受けながら、乃亜はふと、先ほどの自分の思考を思い返す。
今まではずっと、ヴァイオリンを優先し続けていた。
当たり前だったからだ。
けれど今は友人の希望のほうを優先しかけた。
その理由を、乃亜は把握している。
初めて、どこかヴァイオリン教室へ行く足が重いのだ。
一度帰宅して着替えをし、空いた隙間時間に宿題を出来るところまで進める。
そして時間になったらヴァイオリンと荷物をもって外出。
これが水曜日の乃亜の行動パターンだ。
いつもと同じように動いて、いつもと同じように出かける。
そのうごきに違いはないが、どこか足が重く感じてしまっている。
トートバックの中に入ったままのチラシのせいだった。
コンクールに出てみないか、と前回のレッスンの日に、水野に言われた。
それに対して、まだ乃亜の中で答えが見いだせない。
あの輝く場所への興味はある。
その向こうの世界にも手を伸ばしてみたい、見てみたいという好奇心も。
しかし、それに手を伸ばそうとすると恐怖が襲い掛かって来る。
その恐怖を打倒すほどの情熱があるかと言われれば、否だ。
しかし一方で、諦められるかと言われても、否なのだ。
そういった葛藤をずっと抱え続けてこの数日は過ごしていた。
幸い顔には出ていないようで、日常生活に問題はない。
しかし、ましろは鋭く気づいたようだったけれど。
やりたいことをやってもいい。
そう優しい肯定をくれたが、
そもそもコンクールに出たいなど、自分のような拙い演奏で
本当に考えていいものなのだろうか。
いや、そもそも自分は本当にそんな気持ちを抱いているのだろか。
それを、考えてもいいのだろうか。
ぞくりと背中が寒くなり、深い思考が現実に引き戻される。
気付けばバスの中だ。
次がヴァイオリン教室のあるバス停だ。
乃亜は少し焦って降車ボタンを押した。
少し重い足取りでヴァイオリン教室へ向かう。
だがそれを表に出すわけにはいかない。乃亜は慣れた道々の途中、
それを胸の奥に押し込めて、インターホンを押した。
「はい」
「こんにちわ、乃亜です」
「いらっしゃい、いま開けるわね」
鍵が解除される音がした。
ここに通い始めて知ったが、遠隔で開錠できるシステムになっている。
もう慣れた動作で室内に入り、靴を履き替えて室内へ。
防音された室内へ入ると、水野が穏やかな笑顔で出迎えてくれた。
「こんにちわ、乃亜さん。今日もよろしくね」
「はい、よろしくお願いします、水野先生」
そこからはいつものルーティーンだ。
ヴァイオリンを取り出し、音のチューニングを行う。
いつも乃亜は自分の耳でそれを行う。
最初こそ水野も驚いていたが、次第に慣れたようで
乃亜がそれを終えた後に、水野も機材を使いながら音程を確認をする。
ほぼ修正なくそれらを終えて、
ヴァイオリンの構え方、立ち姿、弓の角度などの動作について確認を行う。
最初の半年くらいの間で、乃亜にとって苦労したのはここだった。
何分、独学で学んでいたところも多い。
水野に矯正してもらい、本来のそれになってから、
ヴァイオリンの弾きやすさが格段に変わったのだから驚きだ。
そして今の乃亜の課題。
課題と言うよりも、注力すべきと水野が指定しているのはビブラート。
基本といえばその通りだが、乃亜のヴァイオリンには
その深みこそが向いていると水野は考えている。
教本をベースにそれを重点的に繰り返す。
乃亜は一度教えると驚くくらいの深みでそれを吸収していく。
水野としてはある意味では教え甲斐がない。
けれど楽しくもあった。
美しいヴァイオリンのビブラートはまさに歌のそれのようだ。
言葉のないビブラートは深く心にしみわたるほどに美しい。
乃亜は目を閉じ、流れるように弓を引き、細い指先が弦を揺らしている。
まるで本当に歌っているかのように聞こえる。
水野はひそかに鳥肌を感じた。
「さて、それじゃあ課題曲の練習に入りましょうか」
「はい」
『ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ』。
前回と同じようにまずはヴァイオリンのみで奏で、細かな修正を入れる。
乃亜がヴァイオリンを改めて構える。
そしてひとつ息を吸い、弓を弦にあてがった。
そうして奏でられ始めたそれに、水野は驚愕した。
先週から今日に至るまでにいったい何があったのだ。
前回も十分に美しい演奏だった。
しかし今日の演奏は、過去のそれを大きく凌駕している。
こんなにも胸に迫ることは早々にない。
まるで心の深い部分にある、自分でも忘れていた感情が
噴水のように湧きあがってきたかのようだ。
流れる風はどこか切ない。
まだ陽射しはどこかあたたかいのに、吹き付ける風は冷たさを感じる。
枯れた葉や土といった匂いを含んだ冷たい風。
冬を連れてこようとしている秋の風は、
なにか過去を振り返りたくなるような切なさ、郷愁を感じさせる。
手を伸ばしても届かない、過ぎ去った何かを求めるような。
乃亜はヴァイオリンを奏でている。
その姿は普段の気弱な様子はなく、ただヴァイオリンに集中している。
表情はなく、ただまっすぐ、自分の奏でるヴァイオリンだけを見ている。
あんなにも感情を感じないのに、
音色から感じられる多様で複雑な感情に驚く。
乃亜の演奏はいつもそうだ。
表情からは殆どなにも感じられないのに、
その音色はあまりにも雄弁で強い。
堂々と、ヴァイオリンの音色を使い、高らかに歌い上げている。
やがて曲が終わったところで、乃亜は目を開けた。
それにはっとして水野はにこりと笑った。
「自分で弾いていて、気になったところはある?」
本来であれば、自分こそそれを指摘しなければならないのだ。
しかし水野は乃亜の驚異的な聴力、音を聞き分ける能力を過小評価していない。
その点では自分よりはるかに乃亜は高い領域にいる。
実際、乃亜は演奏を終えた後、納得ができないような様子を度々見せている。
それを疑うのではなく、乃亜自身の評価を尋ねるようにしていた。
「あ、はい、この……、この部分の、ビブラートが、あまり……。
少し、震えが弱いというか、綺麗じゃないように思えて」
乃亜は譜面台に置かれた楽譜の一節を指し示す。
水野はそれに頷きそれに適した指導を脳内で必死に検索し、
いくつかの教本をもとに指導を続ける。
おそらく乃亜は、もっと自分より高いヴァイオリン技術を持つ専門の指導を受けた方がいい。
けれどそれはあくまでヴァイオリンという一点のみでの話だ。
演奏していない時の彼女は、気弱とさえ感じるほどに自信のない少女である。
一流の音楽家は、中には我の強い人間もいる。
いきなりそういった部類の指導者の元に行き、
このあまりにも素晴らしい才能が潰されるのはたまったものではない。
水野はそう考え、もう少し乃亜に自信がつくまでは、自分が指導をしようと強く考えていた。
「では、次はピアノに合わせましょう」
「はい、お願いします」
そして自身の奏でるピアノと重なることで、一層の感情の広がりが見えてくる。
あまりにも切なく、瞳の奥が熱くなるようなヴァイオリンの音色。
水野はそれに当てられすぎないように、自身も集中して伴奏を続けた。
レッスンの時間が終わり、乃亜はヴァイオリンを片付け、帰り支度を進める。
前回よりは少しは上手く弾けたような気がするが、
やはりまだまだだと自分では思う。
指の抑えがまだ甘いし、弓の当て方もそうだ。
乃亜は自分の技巧のなさに肩を落としかけるが、
それも練習あるのみだなととりあえずは自分に言い聞かせた。
「さて、今度の土曜日のレッスンはおやすみね」
「あ、はい……テスト前なので」
中間テストや期末テストといった試験の直前のレッスンについては
いつも休みをいただいている。
これについては静とも相談してのことである。
水野は予定表を確認してやがてこちらをまっすぐ見た。
乃亜はその視線に、なにか緊張を覚えた。
「あまりこういった言い方は、私も普段しないのだけど……。
ただ、今日の演奏を聴いて、どうしても、と思ったの」
「はい……?」
「乃亜さん、やっぱり、コンクールに出て欲しいわ」
「え……」
その言葉に乃亜は瞳を丸くした。
水野がそう言った言い方をするのは初めてだ。
彼女は真剣なまなざしのまま続けた。
「あなたの演奏は本当に素晴らしいものよ。
技巧もさることながら、聴いている人の心や魂に直接語り掛けるような表現力。
私が何度、あなたの演奏をきいて、涙をこらえているか。
……あなたのヴァイオリンを、一人でも多くの人に聴かせたい。
これは、指導者としてというよりも、ひとりの音楽家としての願いよ」
「せ、先生、でも、私そんな、大それたことはしてなくて……っ」
何を言うのかと思わず否定の言葉を投げようとするが、
水野の眼差しにその言葉呑み込まれた。
乃亜は視線をさまよわせ、やがてその視線を落として口を噤む。
まるで叱られている子供のような様子に、
水野は少し申し訳ない気持ちになる。
とん、と両手で乃亜の肩に触れた。
「あなたは自分の演奏を、取るに足らないものと思っているかもしれない。
でも、実際はそんなことはないの。私が断言する。
とはいえ、決めるのはあなただから、本当にあなたが嫌なら、私も諦めるわ」
「先生……」
「こんなに勧めておいてと思うけれど、本当に嫌なら断ってね。
私の信条は音楽を楽しむということ。
やりたくもないことをやるなんて、それは対極だから」
「……はい」
水野の言葉に乃亜は小さく頷く。
その後、もう少し考えたいと告げてその場ではお開きとなった。
帰り道。
乃亜の水野の言葉を改めて思いなおす。
彼女は言葉にしている通り、音楽を楽しむということを信条にしている。
それは言葉だけではなく、この二年、通い続けても実感している。
そんな彼女が、コンクールに出てほしい、と告げた。
それだけで、どれだけの思いかと言うのは分かる。
きっと彼女なりに様々な考えあったのことだと、それは乃亜も理解できる。
しかしどうしても、自分などが出ていいのかという迷いがある。
それと同時に、過去の、強烈な記憶が邪魔をして、
そのたびに乃亜は唇の裏を噛んでいた。
やがてバスを降りて電車に乗り、自宅の最寄り駅に到着した。
時刻は19:30過ぎ。いつもと同じくらいの時間だ。
マンションに到着して自室へ。
蒸し暑さを感じながら自宅のドアを開けた。
「ただいま帰りました」
「おかえり」
室内から兄の声。
エアコンの利いた室内にほっと息を吐きだした。
「おかえり、乃亜」
「ただいま帰りました、兄さん」
既に帰っていた兄は夕飯の支度を進めてくれていた。
普段兄が忙しい時期は自分が夕食を作ったりと言ったことをしているが
今日のようにヴァイオリン教室がある日についてはさすがに兄に任せている。
今日の夕飯は冷麺らしい。
すっきりとしたものは大変にありがたい。
すぐに夕飯になるらしいので乃亜は断りを入れて自室へと戻り荷物を急ぎ片づける。
ダイニングに戻ると食事がテーブルに並べられているところだった。
竹で編まれた涼しげなランチョンマットの上、ガラスの器に盛られた冷麺があった。
夏が始まって間もないというのにすでに蒸し暑さは本格化しており
冷たい食事と言うのはありがたい。
麦茶と副菜らしいほうれん草と人参のナムルがカウンターに乗ったので
それを受け取り配膳を手伝い、やがて食卓が完成し
二人は一緒に席についた。
いただきます、と言葉を重ねて食事を始める。
さっぱりとした出汁のきいた冷麺は、
濃い味ではないのに豊かな風味を感じさせる。
胡瓜やトマトといった具も食べやすい。
「そういえば月末にまた三者面談があったと思うが、
日付は決まってるか?」
「あ、いえ、たぶん、来週になると思います」
「そうか。まぁ、調整はできるようにしてるから
決まったら早いうちに教えてくれ」
「はい。……いつもごめんなさい。兄さんも忙しいのに」
夏の三者面談は毎年の恒例行事だ。
だいたいの時期は決まっているものの、
毎年その時期、兄は多忙な時期である。
去年もそうだったが今年も決して暇ではない。
乃亜が申し訳ない気持ちを抱くが、静は首を振った。
「気にするな。保護者として当然だ。
それに、俺としては結構楽しみにしてる」
「え?」
「お前が褒められるのを聞きに行くようなものだからな」
「……それは、ちょっと、恥ずかしいです」
実際、三者面談で叱られたり注意を受けたことはないし
確かに褒められることのほうが多い。
しかし、それは乃亜としてはなんとも恥ずかしいものがある。
いたたまれない様子でナムルを口にする乃亜に、静はくつくつと笑う。
「でも、兄さん、今年も夏は忙しいですよね」
「まぁ、否定はできないな。
9月末に卒研の中間報告があるし、
そのための準備や研究をまとめないといけない。
家で出来ることも限られる」
乃亜はふとヴァイオリン教室で言われた水野からの提案を思い出す。
もし自分がコンクールに出るとなったら、兄の負担が大きくなることはないだろうか。
今は忙しい兄の代わりに家事をこなしている。
しかしコンクールに出る場合、それを満足にできるだろうか。
兄がどれだけ自分のために時間を割いてくれているか知っているし、
きっと応援もしてくれるだろうことは察せる。
せっかく少しは兄の負荷を減らせているかもと感じているのに
これではまた元に戻るのではないだろうか。
そう思うと、乃亜はコンクールのことを兄に言い出せる気がしなかった。
だが残念ながら、乃亜が思っている以上に
静は乃亜のことを察していた。
「なにか俺に相談事でもあるか?」
「……え」
少し心配そうな、けれど静かな笑みでこちらを見ている。
乃亜は自分が、気付けば食事をする手を止めていたことに気付いた。
「言っていいんだぞ、俺に構わず」
「………」
その眼差しに、乃亜は視線をさまよわせてしまう。
しかしそうなってはもう遅いのだ。
乃亜は箸をおいて、両手を膝に乗せた。
「……その、水野先生から、コンクールに、出ないか……と言われて」
「水野先生から?……それは、お前が出たいと言ったわけではなくか?」
「はい……」
「意外だな……。あの先生はそういったことを言う人ではなかったと思うが」
「あ、えっと、それは、そうなんです。
ご本人も、普段なら言わないと仰ってましたし、
今回だけのことで、今まではそんな風には、全く……!」
自分の言い方のせいで水野が悪く思われるのは大変に良くない。
乃亜は内心青ざめつつ、その誤解をとこうと顔を上げ、必死に言葉を取り繕った。
静はそれに頷く。
「ああ、あの先生は無理なことをさせるような人じゃないというのは、
俺も分かってる。大丈夫だから、続けてくれ」
「……その、私も、自分では、よくわからないんです。
ただ、私のヴァイオリンを、多くの人に、聴いてほしい……って」
静は箸を持った手を口元にあてる。
どういう意味か考えているようだ。
乃亜は目を伏せ、眉を八の字に落とした。
「私はそんな大した技巧もありませんし、
水野先生がどういった気持ちでそうおっしゃってるのか分からないです。
……でも、先生は普段そういったことを言う方ではないので、
なにか意味はあると、思うんですが……」
そう、きっとなにか意味がある。
自分には理解できていないことが。
水野は自分のヴァイオリンをひどく評価してくれている。
けれど、それを疑うわけではないのだが、
どうしても自分のことなのに得心を得ない。
そんな特別なことをしているつもりはないし、
技巧とて大仰に褒められるようなものでは決してない。
乃亜は自分の技術をそう評価している。
「それで、お前はどう思ってるんだ?」
「どう、というのは……?」
「コンクールに出たいかどうかだ」
核心に違いないその問いに、乃亜は目を伏せる。
所在なく膝の上で指先を絡めながら、言葉が上手く出ない。
知らずうちに、また、唇の裏を噛んだ。
静は言葉の出ない乃亜に対し、ふ、と小さく笑う。
持ったままだつた箸をおいて、少し行儀が悪いが頬杖をついた。
「……以前、お前とコンクールのガラコンサートに行っただろう?」
「あ、はい……」
「あの時、お前は気づいてないかもしれないが、
演奏を聴きながら、指先が動いていたんだぞ」
「……はい……?」
全く予想外のことを言われたとばかりに、乃亜の瞳が丸くなる。
まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔だ。
静はくすりとそれに笑った。
「ステージを食い入るように見つめながら、
自分ではどう弾くのかを考えているかのように、
指先で弦を押さえるような動作をずっとしてた」
「え……」
「あれを見て、俺はお前が、本当に音楽に傾倒していると思ったんだ。
だから、いつかお前がコンクールに出たいと言い出しても、
なんらおかしくないと思っていたぞ」
そんな風に思われているとは思わなかった。
乃亜はなにか気恥ずかしくなり頬が熱くなる。
そもそも先のガラコンサートで、そんなことをしていたなど、
全く自覚もなかったし気づきもしなかった。
静は微笑ましそうに眼を細くしながらつづけた。
「お前のことだから、俺に負担がかかるとか、迷惑になるとか、
そういったことまで考えているんじゃないかと思うんだが」
「……」
図星だ。
いよいよ居心地が悪い。
「先んじて答えさせてもらうと全く気にする必要はないぞ。
確かに俺も夏から秋にかけて忙しいが、それでも去年ほどじゃない。
お前も家事を随分こなしてくれている。
ちゃんと分ければどうということもないんだ。
だから、乃亜、まずお前がどう思ってるのか、それだけを考えろ」
「……私が、ですか?」
「そうだ。コンクールに出たいのか、出たくないのか。
自分の技術が足りないとか、水野先生の考えとか、
俺の負担が増えるとか、そういったことは全部いったん脇に置いて、
やりたいかどうかだけを考えてみてくれ」
「……はい」
乃亜は頷く。
だが、どうしても、やりたいのかどうかもよくわからないという、
その根本的で、一番不明瞭な部分については、最後まで口にすることはできなかった。
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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★
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★アルファポリスでも連載中★
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