【星と太陽編1】23:xx14年11月17日~xx15年4月8日
【xx14年11月17日】
もはや通い慣れた道を車で走る。今日も今日とてよく晴れた青い空だ。
駐車場に車を停め、静は助手席に置いた紙袋を手にする。
時刻は13:00過ぎ。
予定通りであれば、午前中のうちに、ましろはICUから一般病棟に移ったはずだ。
先日、ましろは6時間半もの大手術から無事に生還した。
手術室からそのまま集中治療室、ICUへと入った。
ICUに入ったあとの面会時間は1日2回、
それも決まった時間のみ、さらに人数も二人までと制限されていた。
手術が終わったその日は、両親である八雲と椿に勧めた。
二人は少し静に申し訳ないような素振りも見せたが、
そんなことは気にしないでほしかった。
そして19:00からの15分間を譲ってくれた。
面会室といっても、ICUは無菌室と同様に分厚い透明な壁に阻まれ、
そこから室内を眺めるのみだった。
呼吸器や点滴など、いくつもの管に繋がれ、
バイタルチェック用のモニターなど、仰々しい機器が取り囲んでいる姿は
とても無事に手術を終えたと安堵はできなかった。
しかし容体は安定しているとのことで、その時はそれを信じる他なかった。
その日はその後帰宅した。
家に帰ったのは21時を過ぎていたが、乃亜が泣きそうな笑顔で迎えてくれた。
ただひたすらに安堵した様子に、こちらもようやく息を吐き出せた。
その安心からか、二人でその日はソファで気づけば寝ていた。
翌日は久しぶりに大きく寝坊した。
翌日である15日の昼頃。
ましろが意識を取り戻したという連絡を貰った。
しかしまだ意識は朦朧としており、うまく話すことはできないらしかった。
前日に見た、たくさんの管につながれた姿からしてみれば当然かもしれない。
翌々日、ましろの容態は安定しており、
予定通り一般病棟に移れそうだと、椿から連絡を貰った。
そして、手術から3日目。
ましろは午前中には、一般病棟へ移った。
昼前に椿からその旨も連絡を貰った。
一般入院棟の受付に出向く。
「こんにちわ。お見舞いでしたら、
患者さんのお名前をお願いします」
「雪見ましろさんです」
「……はい、今日ICUから移られた方ですね。
5階まで上がっていただいて、西側フロアの奥から二番目、502号室です」
「ありがとうございます」
受付表に名前を記入し、エレベータに向かう。
その道中だった。
「やぁ、こんにちわ」
気さくに声をかけてくれたのは、ましろの主治医でもある大島医師だった。
静は立ち止まり頭を下げる。
「こんにちわ。この度はありがとうございました」
「いやいや、私は医師として当然のことをしているだけですよ」
「いえ、それでも、御父上、教授にも、ご無理を申しまして」
学会で声をかけてもらったと言うだけで
かなり無理を頼んでしまったような気がしている。
勿論、繰り返し大島教授にも礼を述べたが、
それでも正直、まだまだ言い足りないほどの恩だ。
大島医師は、ふっと柔らかく笑った。
「父から相談を受けた時には少し驚きはしましたが、
それでも救える命を救えたのですから、医者としては本望ですよ。
それに、君の論文、私も先日拝見しました」
予稿として公開しているものだ。
学術誌掲載予定のものについてはまだ完成しきれていない。
「大変すばらしいもので、私も息を飲みましたよ。
もちろんまだ理論としても不確定なのでしょうが、私だけでなく、
多くの医療関係者があれに確かな可能性を見出しています。
ぜひ、引き続き研究を続けてください。
もしあれが実用化されるようになれば、様々な病気の早期発見につながります」
「はい、もちろんです。
大島教授にも、大島先生にも、大変にお世話になりましたから、
この御恩は、研究の成果をもってお返ししたいと考えてます」
「頼もしいです。
そう遠くない未来、共同研究として進められる日を楽しみにしています」
「ありがとうございます。その時はよろしくお願いします」
大島医師は頷き、背を向けて歩いていった。
わざわざ声をかけに来てくれたらしい。
どうやら親子いずれからも、はっぱをかけられているようだ。
そのようなことをせずとも、全力で取り組む次第である。
エレベータで5階へあがる。
白いエレベータの中で上がっていく表記を見るたび
少し緊張を覚え始めた。
考えてみれば、ましろと直接、なんの隔たりもない中で会えるのは久しぶりだ。
先月末、公園を二人で散歩したとき以来か。
チン、という軽い音を立てて、到着した。
エレベータホールから出て廊下、左右それぞれに西・東の方向が書かれていた。
西と書かれた左側の通路をいく。
奥から二番目と言っていた。
502号室。
その下に「雪見ましろ」と手書きで書かれたプレート。
ノックするが、特に返事はなかった。
静かにスライド式の扉を開ける。
一人用の部屋、目の前には布の衝立、室内に入り、衝立の向こうにゆっくりと歩く。
アイボリーの壁と、オフホワイトの床の上にあるベッドの上、
白い掛け布団の上に置かれた両腕。
片腕からは点滴につながる管。
ましろは瞳を閉ざして静かに寝息を立てているようだった。
顔色はまだ完全にいいとは言えない。
いつかよりも少しやせたようにさえ見える。
それでも、無菌室やICUで見ていた姿ではなく、
長い黒髪を片側に緩く編んで、呼吸器もマスクもない。
その姿に、目の奥が熱くなってくる。
誤魔化すように、見舞いの品を袋から取り出してベッドサイドに飾る。
黄色い薔薇のプリザードフラワーを使ったリースだ。
プラスチックのケースに入れられているため、
こうして飾っても問題ないはず。
ベッドサイドの椅子に腰かけ、彼女を見つめる。
安らかに静かに眠って、はやく回復に努めてほしいと思う気持ちと
目を覚まして、こちらを見てほしいという気持ちの間で揺れながら。
ただいずれにしても、静の表情はひたすらに穏やかだった。
静かな空間。
世界に2人しかいないような、心地よい静寂の中、
ぴくりと瞼が揺れた。
薄く開かれていく。
瞼とまつ毛の向こう、光を内包した琥珀色の瞳が見えてくる。
眩し気に、少しだけ眉を寄せて、一度、二度と瞬きしたのち
ゆっくりとこちらに視線が向けられた。
静の姿をとらえ、ましろは驚いたように目を大きくする。
「おはよう、ましろ」
そう告げると、やがてましろの瞳が潤む。
眉をよせ、けれど口角が上がり、泣きそうに笑う。
「……おはよう、静……」
少し掠れた声。
しかし、間違いなく、ましろの声だ。
スピーカー越しではない、確かな声。
それだけでこちらも泣きそうになってくる。
ベッドの上に置かれた手をふとんの上で移動させようとしていることに気付く。
だが痛みがあるのか、うまくまだ動かせないらしい。
静はその手の下に、痛みがないよう、自分の手を滑り込ませた。
力なく、ましろの指が折られ、握ろうとしてくる。
たまらずこちらから握り返した。
その間も、ましろの顔からは目を離さない。
ましろもまた、こちらから、目を離そうとはしていないからだ。
「ただいま……」
「……ああ、おかえり」
もうそれだけで、今日までのすべてが、報われた気がした。
【xx14年11月24日】
病室の扉がノックされる音に気付いてましろは顔を上げ、返事をした。
「こんにちわ」
その声に自然と表情がほころぶ。
衝立の向こうから顔を出したのは、久しぶりに会う友人の姿だ。
「乃亜、来てくれたんだ」
「はい。お久しぶりです」
乃亜は控えめながらも穏やかに微笑んでいる。
最後に会ったのは無菌室でのわずかな時間だけ。
こうして直接会うのは本当に久しくなかった。
ましろは手元に置いた参考書を棚に戻した。
「お勉強中でしたか?」
「まぁね、一応、受験生だから。大変だよもう」
「言葉のわりに、嬉しそうです」
「ふふ、命あっての物種ってやつだよ」
乃亜は小さく笑い、ベッドサイドの椅子に腰かけた。
「これ、お見舞いです」
乃亜は少し光沢のある紙袋を差し出した。
それを受け取り中を確認すると、淡いグリーンのブランケットだった。
大きな葉が白い色で型抜きされているようなデザインはシンプルだが可愛い。
さらにふわりとした触り心地に思わず頬が緩む。
広げてみるとスナップボタンがついており、
肩に羽織りポンチョのようにもできるようだった。
「少し寒くなってきたので……病院内は平気だと思うんですが、
兄さんから、もう少ししたらリハビリが始まると聞きましたから」
「ありがとう、すごい助かる……!
実際病室の外、冷えるみたいで……」
一応病院から貸し出されているガウンはある。
しかしあくまで備品としての貸し出しだ。
こういった可愛らしいものを身に着けられるのは嬉しい。
先日から少しずつだがリハビリが始まっている。
勿論まだ本格的なことはしていない。
ベッドの上で出来る範囲で少しずつである。
実際に、まだ手術でできた傷が痛いのだ。
痛み止めは処方されているが、なるべく使わずにいられるのであればそうしたい。
そのなかで、足を曲げたり、座るような体勢に慣れたりといった
本当に基本的な動きを始めているところである。
そんなようなことを説明すると、乃亜は心配そうに少し眉を下げた。
「大手術でしたから、仕方ないとはいえ、
リハビリも大変そうですね」
「まぁね。でも、一日でも早く退院できるように頑張るよ」
「ふふ、ましろらしいです」
「ところで乃亜、一人できたの?」
「ああ、いえ、兄さんも一緒です。
ただ、さっき急ぎの連絡があったようで。たぶんもうすぐ来ると思います」
「そっか」
その急ぎの連絡とやらが、大学の論文関連であれば申し訳ない。
本当に今年の夏以降、ずっとつきっきりになってもらっている気がする。
「ねぇ、乃亜、実際、静、大丈夫……?」
「はい?」
「論文。学術誌に掲載するからって話だったでしょう?」
乃亜は頷くが、彼女の表情に陰りはない。
「大丈夫だと思います。
私は詳しい話は聞いてないですが、年度内には間に合うと言っていましたから」
「ならいいんだけど……」
「ましろが変に気負うことのないようにすると思いますよ」
「……静らしいね」
少し頬が熱くなる。
静は本当に、自分のことを思ってくれている。
自分の為にできることを、誠実にしてくれている。
そんな彼にできることは何だろうか。
ましろはふっと笑った。
だが今はそれよりも、乃亜が来てくれたのだ。
ましろはずっと言いたかったことを告げようと顔を上げた。
「ところで、ヴァイオリン、聞かせてくれてありがとうね」
「あ……、いえ、少しでも、慰みになったなら、いいんですが……」
「なったよ、それはもう」
嘘偽りなくそう思う。
スピーカー越しだったが、それでもあの音色は忘れられない。
穏やかな木漏れ日の情景でさえ、よく覚えている。
「乃亜のヴァイオリンは初めて聞いたけど、本当に素敵だった。
私はクラシックは全然分からないけど、G線上のアリアって、名前だけ知ってた。
ああいう曲なんだね。
まるで、祈りの曲みたいだったよ」
「……そう、聞こえていたなら、良かったです。
まだまだつたないと思うので、聞き苦しかったらどうしようかと思ってました」
「拙い?あれで?」
「まだまだですから」
乃亜は照れているのか、少し苦笑いを浮かべながら謙遜を繰り返している。
しかしそれにましろは今一つ納得ができない。
あの時、自分は確かに、あの曲に大きく慰められた。
「……無菌室にいた時、私との会話って、マイクとスピーカーを使ってたでしょ?」
「はい」
「私が話して、相手が話して、また私が話してって、
会話しているように見えるけど、なんかズレがあったんだ。
だから、目の前に相手がいるのに、どこか、違う世界にお互い居るみたいな、
妙なちぐはぐさがあったんだよ。
でも、乃亜のヴァイオリンを、静と一緒に聞いてた時、
私たち、間違いなく、同じ世界にいるって感じられたの。
私がそれに、どれだけ慰められたか。
私は音楽の素人だから、技巧については分からないけれど、
それでも、乃亜のヴァイオリンは、私たちを同じ世界に連れていってくれてた。
明るい、木漏れ日の中に」
「……ましろ」
「だから、そんなに謙遜することないよ。乃亜のヴァイオリンは、とても素敵だった。
きっと、静も同じことを言うよ」
ましろの言葉に、乃亜は少し驚いたようだが、
ややあって、小さく微笑んだ。
残念ながら、納得したような様子は見せてくれなかった。
ましろはそれに苦笑いを浮かべ、肩で息を吐いた。
【xx14年12月13日】
カラカラと点滴をつるすスタンドを滑らせながら、
ましろは院内をゆっくりと歩いていた。
以前より格段に遅いものの、最初に比べればまだマシだ。
歩行訓練が始まり、最初は本当にエレベーターホールまでさえ歩くのがつらかった。
身体も痛い上に少し歩いただけで膝が笑う。
こんなにも自分の足腰は弱くなったのかとショックを受けたものだ。
しかしそれも毎日出来る範囲で繰り返していくことで、
ようやく階段の上り下りまでできるようになってきた。
今日は点滴があるので階段は使えないものの、
5階のフロアを数往復するくらいならばできる。
肩に以前乃亜から貰ったブランケットをかけながら歩き、
自室に戻るに際して、エレベーターホールに差し掛かった。
「あ、ましろいた!」
病院に似つかわしくない明るい声に顔を向ける。
「隼人?と、翔?」
「ああ、ましろ。久しぶりだ。
隼人もう少し声量を下げろ」
「あ、ごめんっ」
エレベータから降りてきたのは馴染みの二人である。
なんだか懐かしさすら感じた。
「見舞いに来るのが遅くなって悪かったな」
「いや、来てくれるだけで嬉しいよ。
部屋に戻るところだから、一緒に行こう」
「つか、思ったより元気そうじゃん」
「これでも身体痛いんだぞ」
軽口を叩ける間柄は、多少話す時間がなかったとしても変わらないらしい。
二人を伴い自室へと戻る。
ベッドに腰かけゆっくりとした動きで横になった。
背もたれを起こして上半身を起き上がらせると、ましろはやっと息を吐いた。
「リハビリは順調か?」
「うん、いいペースだって。
このままいけば、年内ギリギリだけど退院できそう」
「それは何よりだ。
本当に大変な手術だったようだし、思ったより回復が早いんだな」
「そうみたいだね」
「まぁ、ましろだしな」
「どういう意味だよ」
「言葉のまんま!」
隼人は窓際に背をつけながら両手を頭の後ろで組んでいる。
その明るい笑顔に、ましろは肩をすくめて笑った。
「あっ、そうだ!聞いて驚け、ましろ!
俺、推薦とれた!」
「えっ?!」
まさか、と驚愕を顔に張り付けて隼人を見れば
心底得意げにピースサインを向けてきた。
「へっへーん!おっさきー!」
「えぇ……隼人に越されるのか……」
「ふふ、まぁ、夏の大会の優勝が効いたな」
「あー……ね」
隼人は先の夏の剣道全国大会の個人戦で優勝を果たしていた。
それ以前の大会でもそれなりの成績を残している。
その結果を考えれば決しておかしな話ではない。
と、いうことは頭では理解しているが、どうにも悔しい。
「……ちょっと明日から本格的に勉強進めるわ」
「おー?ましろ、俺に先越されて悔しー?」
「うるっさいな、先行って待ってろ、絶対追いつくから!」
「とーぜん!待ってるって約束だったからな!」
「下手こいて内定取り消されるようなことしたら指さして笑ってやるからな!」
「ンな馬鹿なことしねーよ!」
二人の軽快な言い争いは久しぶりだ。
普段ならは呆れて止める翔であるが、今日ばかりはその言い争いが心地よく、
しばらく二人の、じゃれ合いのような口喧嘩に耳を傾けていた。
【xx14年12月30日】
「ましろ、着替えは済んだか?」
「うん、大丈夫」
衝立の向こうで母の声がする。
返事をすると、椿がこちらを、どこか感慨深げに見てきた。
長くなった髪を梳き、黒と白の太いボーダーのセーターを着こむ。
以前より少しサイズが大きく感じるが、これはこれから鍛え直さないといけなさそうだ。
ましろはそれをどこか楽しみにかんじながら、椿に笑いかけた。
年末に差し掛かった今日、ましろは退院を迎えていた。
入院のために持ってきていた荷物は母がすでに車へ運んでいったようだ。
ましろの荷物はスマートフォンのみ。
二人は並んで歩きだし、長く過ごした部屋を出た。
その足並みは以前と変わらない。
少なくとも、歩行を含めた基本的な日常生活は問題ない。
エレベーターホールに差し掛かると、主治医の大島医師と
よく気にかけてくれていた看護師が待ってくれていた。
「大島先生、大変お世話になりました」
母が深く礼をすると同時にましろも同様に頭を下げた。
「いいえ、とんでもないです。
ましろさん、今日まで本当によく頑張りましたね」
「先生や病院の皆さんのおかげです」
「あなたの頑張りあってこそです。
もちろん、しばらくは定期通院が続きますが、
この調子で頑張れば、予定より早く、剣道も再開できるはずです。
引き続き、私たちもサポートしていきますから、
もう少し頑張っていきましょうね」
「はい。よろしくお願いします」
エレベータが到着する。
二人はそれに乗り込んだ。
「では私たちはここで。
また年明けの通院でお会いしましょう」
「はい。ありがとうございました」
「よいお年をお迎えください」
「先生方も」
エレベータが閉まる。
本当に最初から最後まで、穏やかな笑みで対応してくれた医師だった。
勿論これで最後ではないし、引き続きお世話になるが
それでも全幅の信頼を置いて治療を受けられる医師に出会えたのは本当に幸運だった。
「いい先生だな、本当に」
椿も同じことをおもっていたらしい。
「本当。静に感謝だね」
「まったくだ。
……さて、帰ろう。久しぶりの我が家にね」
「うん、楽しみ」
10月の末からここにいたのだから、丸二か月は家に帰っていない。
病院の外に出ると、ぶわりと冷たい空気が身体中に襲い掛かった。
「うっわ、寒い!」
「まぁ、お前が入院し始めたのは10月末だからな。
季節が一気にとんだ感覚になったもおかしくはない」
「本当ソレ!」
椿が笑いながら駐車場に向かい、車に乗る。
ましろもそのあとに続いて車に乗り込んだ。
軽い浦島太郎のような感覚だ。
車が発進し、やがて病院が後ろに小さくなっていく。
それをサイドミラーで確認しながら、ましろは初めてここに訪れた時のことを思い出した。
初めてここにきたのは、まだ自分の病気がなにか分かっていないとき。
静が繋いでくれた希望を信じて、すがる思いで訪れた。
そこにあったのは希望、けれどごく僅かであっても、不安はあった。
ここでも分からなかったら。
分かっても治療できないようなものだったら。
治療できても、それまでに心臓が止まったら。
そういった恐怖があった。
けれどそれらはすべて、ただの杞憂で終えられた。
それでも治療までの道のりは決して平坦ではなかった。
入院までの間は家族みんなで病院からの指示を徹底的に守った。
少しでも消毒を忘れないように徹底したし、
食事もバランスよく食べるために
食べたいものを食べられない、したいことが出来ないのはストレスだった。
入院してから無菌室での生活はただただ窮屈だった。
ありとあらゆるモノが管理され、孤独感に苛まれ、
薬の副作用での倦怠感や吐き気に悩まされもした。
それでも耐えられたのは毎日のように面会に誰かしら来てくれたからだ。
なにより、確実な治療のため。
どれだけ手術に恐怖をいだいても、それによって眠れない日があっても、
自棄になりそうな気持ちを必死に押し殺したのもだ。
手術を終えた後もそうだ。
全身の痛みに泣きそうになった。
実際最初の1日2日は痛みで夜寝付けないこともあった。
歩くことさえままならないことに絶望さえした。
本当にもとの生活に戻れるのかと叫びたくもなった。
それでも耐えて、一日も早く、退院の日を迎えたかったのは。
___約束まで、あと……。
その日を、迎えるためだ。
【xx15年4月8日】
ましろは走りたい気持ちを必死に抑え込みながら
昔から馴染みのある道を行く。
この道は家と図書館を繋ぐ道のひとつ。
どこからか飛んできたのか、
コンクリートの道の両端には桜の花びらが集まっている。
空は明るい薄青で、家々の木々は若い芽を芽吹かせ、
新しい季節の到来を歓迎しているかのようだ。
吹く風は冷たさをひそめ、春の陽射しに当てられ爽やかにあたたかい。
腰近くまで伸びた黒髪を揺らして、
目的の、約束をしていた公園が見えて、いよいよ足は速足になった。
通り過ぎる公園の入り口にビオラが並び
その向こうに、果たして彼はいた。
「静!」
声をかけるとあの時と似た優しい木漏れ日の中で
彼はこちらに顔を向け、立ち上がる。
木漏れ日に輝く髪が銀色に光って見えた。
それに頬が緩み、ついに、駆けだした。
「こら、走るな」
「今だけ!」
呆れたように笑う静の前に立つましろの姿は、
公立鈴乃宮高校のセーラー服だ。
退院したあと、必死になって勉強し、遅れを取り戻したましろは
なんとか第一志望の学校に合格を果たした。
合格通知を受け取った時の安堵と喜びは忘れられない。
「どう?」
ましろはくるりと制服を見せる。
上も下のスカートも基本的に黒一色、スカーフは白。
ただセーラー服らしい大きな襟には、黄色の細いラインが二本はいり、
左側の襟には、小さい鈴の刺繍が一つ入っている。
また、ひらりとゆれるスカートのすそにも、
同じく黄色の二本のラインが入っていた。
シンプルながらも、どこか可愛さのあるセーラー服に、静は微笑みを深くした。
「よく似合う」
「ありがとう!」
ましろは両手を背中に回し嬉しそうに明るく笑う。
だが嬉しいのは、制服を褒められたからというだけではない。
この一年を乗り越えられたから。
あの時から、二年半。
ようやく、今日を迎えられたからだ。
ましろはこらえられないように、静に飛びついた。
静もまた、分かっていたように、ましろをしっかりと受け取める。
「静、大好き!今までも、これからも、ずっと!」
「ああ、俺もだ、ましろ!」
明るい木漏れ日の中、二人は一度抱きしめあう。
あの夏の日から続いた道が、ようやく、一つに重なったのだと
二人は幸福に満ちた笑みで感じあっていた。
これにて星と太陽編1は完結となります。
ナンバリングタイトルになっている通り、この星と太陽編については静とましろ中心の物語として今後も時折差し込んでいきます。
次回より新章です。
本編において若干影の薄かった主人公に戻ってきてもらいます。
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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★
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★アルファポリスでも連載中★
https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664




