【星と太陽編1】14:xx14年7月9日
4月にましろが倒れ、狭心症と診断を受けてから2か月が経過した。
その間、ましろからは「ありがとう。心配しすぎないようにね」と短い返事があっただけだった。
本当に大丈夫なのか、それとも強がりなのか、それをどう問うていいのかもわからず、
そしてそれをしっかりと考える時間を、静の周囲は与えてくれなかった。
教授から強く勧められた学会での発表。
事前に申し込み、提出する予稿の作成はなんとか締め切り前に完成し提出を果たせた。
だがそれで終わりではなく、むしろそこからが本番。
実際の発表は8月の半ば。
それまでに発表の準備を整えなければならず、と同時に研究も進めなければならず
一層の忙しさをもって静の生活を圧迫した。
睡眠時間を削りつつ、大学への移動、電車の中でそれをまかなう。
それでも負けじと日々、こなしているのである。
「兄さん、あの、本当に無理していませんか?」
朝食の時間、乃亜が心底心配そうな顔でこちらに顔を向けていた。
昨年の冬にかかるような時期から、乃亜は自分で弁当をこしらえ始めた。
元々器用なのか、瞬く間に妹は料理の腕を上げていった。
今では弁当をこしらえ終えた妹は、
一緒に朝食の支度にまで手を貸してくれるようになっていた。
「多少は忙しいが、無理をしている程じゃない」
「……でも、兄さん、最近あまり寝てないんじゃないですか?
クマできてます……」
「そうか?」
あまり意識していなかった。
確かに以前より少し睡眠時間は減っている。
それでも顔にでるほどとは思っていなかった。
乃亜は眉を寄せ、立ち上がって静の横に歩み寄った。
「兄さんがどんなことでも頑張る、人並み以上に出来る人だと言うことは分かっています。
でも、兄さんの身体はひとつなんですから」
「乃亜……」
「家のことは私がやります。
兄さんほど上手くは、出来ないと思いますが……」
不安そうに瞳を揺らしている。
妹の心遣いは嬉しい。正直、感動さえ覚える。
だが、どうしてもそれに素直に頷けなかった。
乃亜は簡単に自分の優先順位を下げることを知っていたからだ。
もしここで頷いてしまえば、
乃亜自身が苦しくなっても、それを放り出すことはしなくなる。
静はそう考えていた。
ぽん、と乃亜の頭に手を乗せ、撫でる。
「ありがとう。おまえの気持ちは嬉しい。だが、大丈夫だ」
「っ……兄さん……」
「どうしてもしんどくなったら、ちゃんと相談する。
俺はな、お前が健やかに、
楽しく日々を過ごしてくれることが、一番嬉しいし、薬になる。
俺のことを思ってくれるなら、笑って過ごしてくれ」
「……はい」
まだあまり納得はいっていないようだが、ひとまず頷いたようでほっとする。
そろそろ出かける時間だ。
「じゃあ俺は出る。今日お前も遅いんだったよな」
「あ、はい。水野先生が、たまには夕飯でも、とお誘い下さったので……」
「帰りが21時を過ぎそうなら、タクシー使うんだぞ。
俺も今日は煉矢と約束はあるが、お前とそう変わらない時間になると思う」
「わかりました」
そういって先に家を出る。
その時間は、以前より15分ほど早くなっていることに
静自身あまり気づいていなかった。
「留学……?!」
思わず、普段よりも少しばかり大きな声が出た。
幸い騒がしい時間帯の飲食店、それもボックス席だ。
さほど周囲が気に留めた様子はない。
大学での講義や研究に区切りをつけて、時刻は18時。
煉矢から少し話があると数日前に言われ、約束していたのが今日だ。
乃亜もヴァイオリン教室の先生から夕食に誘われているとあらかじめ聞いていたため
丁度良いと今日を指定したのは自分の方。
大学から少し離れ、自宅のある駅の隣駅を指定したのは煉矢の方だ。
帰りやすいようにと配慮されているのは気づいている。
こうして時間をとり、煉矢と食事をするのは久しぶりだ。
自分はもちろん、煉矢もなにこれと忙しくしていたと思う。
少し報告がある、などというから何事かと思っていたが
食事もそこそこに話された内容は、予想の斜め上からの報告だった。
その友人は特に変わった様子なく、炭酸水を傾けていた。
「ああ、なんとか交換留学の選考に通ってな」
「……お前、もっとはやく言うタイミングもあっただろう」
ため息交じりにそう言いながら、注文したカプレーゼを口にした。
同じ大学に通い、専攻こそ異なるが度々講義が被ることもあり
いまだに付き合いの続いているこの友人とはそれなりに話す機会も多い。
なにより記憶が正しければ交換留学の申し込みは去年の秋ごろのはず。
そして結果については春先だ。
それから今日にいたるまで、煉矢がそれをにおわせていたことなどない。
「お前が論文のことで多忙を極めるこの状況で言えるか」
つまりはこちらの気を散らせないための気遣いだったわけだ。
そういわれてはぐうの音も出ない。
今日こそ久方ぶりに誘われたためこうしてのんびりとしているが、
もしこの誘いがなければ、いつものように研究室にギリギリまでこもり
自宅に戻ってからは日付を軽く過ぎてからの就寝になっていたはずだ。
静は深くため息を吐いた。
この煉矢という男は昔から、そういった気遣いを見せるところがある。
「……で、どこに行くんだ?」
「アメリカの提携大学だ」
「ウチの提携先でアメリカとなると、カルハイツか?」
カルハイツ大学。
アメリカのカリフォルニア州にある世界的に有名な大学のひとつだ。
煉矢の専攻は統計学だったはず。確かにそれを学ぶにあたり最高の場所に違いない。
だがその分、専攻に選ばれるというのは生半可な話ではない。
「相変わらず優秀だな」
「お前に言われてもな。
学会での発表が上手くいけば、早期卒業制度、使えそうなんだろう?」
「上手くいけばな。まぁ、なんとか乗り越えて見せるさ」
以前から煉矢には少し話をしていたが、
大学には早期卒業、つまり3年で卒業できる制度が存在している。
静が目指しているのはそれだ。
幸い今のところは予定通りに進んでいる。
学会での発表がある程度成功すれば、その制度を使い3年で卒業、
更に学士取得と進み、1年早く修士課程へ進むことができる。
そうなれば、研究プロジェクトへの参加や大学の授業補佐などについて収入が期待できる。
勿論研究を続けていくという期待もあるし継続したいが
経済的な基盤は多ければ多いほどいい。
「向こうではどこか家を借りるのか?
大学でも補助はあったと思ったが」
「いや、幸い、親父の今の住まいがその近くだ。
もう話は通しているし、客間がいくつかあるから好きに使っていいと言われてる」
そういえばその話でも似たようなことがあったなと思い返す。
高校進学の時期だった。
あの頃、自分は妹のことで手いっぱいだった。
劣悪な施設にいた妹がそこから逃げ、偶然とはいえ保護したのは
他でもないこの男だった。
信頼できる施設に妹を預けられ、自分はちょくちょく足を運んでいた。
また、高校の付属大学、つまり
今、自分が通う大学が管理している学生マンションにて一人暮らしも始めた。
初めての一人暮らしに、妹のことに、と様々なことが重なっていたあの時期、
思い返せば正直かなり余裕はなかった。
そんな中さりげなく助けてくれていたのは、
妹のことも含めた家庭の事情をすべて把握してくれていた煉矢だった。
授業のことや学校のことを素知らぬ顔でフォローしてくれていたように思う。
そんな彼が、実は自分と同じく高校から一人暮らしを始めているなど知ったのは、
夏休みが始まった頃のことだった。
父子家庭だった彼は、父親と二人で暮らしていたが、
高校進学と同時に父親が海外転勤となったと。
それを夏休みになって初めて聞かされて心の底からたまげた。
なぜもっと早くに言わなかったのかと尋ねれば、
妹のことで手一杯のお前にこんなこと言えるか、とさらりと言われた。
まったく今回と同様ではないか。
「お前、本当に昔からそういうところ変わらないな……」
「どういう意味だ?」
「色々気を使いすぎだという話だ……!」
なにかこちらばかり気を使われている気がして面白くない。
間が数年空いたとはいえ、幼い頃からの、いわば幼馴染のような関係だ。
にも拘わらず、なにかとこちらばかりが気遣われ、
一向に貸しがなくならない気がする。
「別段、俺の方はさほど困った事態じゃない。
状況からすればお前の方が手一杯だろうが」
「……俺がお前に借りを返しきれるのはいつになるんだか」
「俺はお前に貸しを作ったとは思ってないんだがな」
「お前はそうだろうが俺としては納得がいかん」
正直、妹の件だけで言っても煉矢には返しきれないほどの恩があると考えている。
あの時、煉矢が乃亜に気付かなければ、
あの時共にいてくれなければ、今どうなっていたかは分からない。
静は溜息を吐き出して、ウーロン茶を一口飲んだ。
「留学の話に戻るが、期間はどれくらいなんだ?」
「約2年だな。9月から向こうに通う。
戻って来るのは2年後の5月だ」
「その間の単位は、問題ないのか?」
「ああ。卒業分の単位は向こうでとれば補填される」
「聞くまでもないが、英語、いや英会話か。問題ないのか?」
「交換留学の選考必要だったからな。
必要な資格は取ったのと、日常会話はおそらく問題ない。
大学の授業についていけるかは、正直、未知数ではある」
自分もそうだが専門的な文言となると日常会話では足りない。
学術書などは英語で書かれているものも多く、
それについては自分も読むことがあるのである程度は理解できるが
リスニングともなれば話は変わる。
煉矢は一つ息を吐いた。
「まぁ、なんとか食らいつくしかない」
「……お前のことだ、問題ないとは思うがな。
9月ならもう間近だろう。出立は?」
「8月入ってすぐを予定している。
先ほども言ったが、親父のところに住むからな。
環境になれるという意味ではもっと後でもいいんだが、
8月半ば近くなると飛行機がひどく混む」
日本では言わずもがな、8月は全国的に夏季休暇の時期だ。
半ばともなれば盆休みとして企業も長期休みにはいることが多く、
おそらく1年で最も空港や飛行機が混む時期のひとつである。
チケットの入手さえ厳しいかもしれないそれをずらしたい気持ちはよくわかった。
「だとすると、もうあと2週間程度か」
「そういうことだ」
なにか少しだけさみしさを感じるが、それはさすがに表に出さないように努める。
今更十代の子供でもない。
注文していた刺身を口にして間をごまかした。
「そういえば最近、乃亜の様子はどうだ?」
「……」
ピタリ、とグラスを置く手が止まった。
それに敏感に感づかれたような気がしたが、それは気のせいではなかった。
「何かあったのか」
「……いや、何もない、といえば何もない」
「なんだそれは」
乃亜のことについては大学の他の、ある程度親しいと思われる友人にも話してはいない。
妹がいるくらいのことは知っているが、
深い事情について把握しているのは、大学では煉矢だけだ。
そういう意味では、つい自分も油断してしまうのは仕方がないのかもしれない。
「なんというか、俺に気を使ってくれている気がしてな」
共に暮らすようになってはもう一年が過ぎた。
妹はあのような目に遭っていたとは思えないほどに健全に育ち続けている。
今朝もそうだ。
こちらが忙しいことに気付いて、
家のことを自分でやると言い出した。
気持ちはとても嬉しい。それは本当だ。
しかし、静としてはそれを安易に受け入れにくかった。
「それはお前が多忙を極めているからだろう」
「そこまでじゃない。
忙しいのは確かだがな」
「……静、お前自分の顔をちゃんと鏡で見てるか?」
「そんなにひどいか?」
「寝不足なのは俺でもわかる。……乃亜が気にするはずだ」
確かに多忙ではある。
あと一か月と少しで学会の発表がある。
それまでに発表の原稿作成だけではなく、
研究自体ももっと深化させたいと考えているし、
発表のためのスライドの用意もある。
勿論、通常の大学の講義も忘れてはいない。
それだけでなく、乃亜と過ごす時間とて大切にしたい。
どれほど大学のことが重要でも、自分にとって今一番重要なのは乃亜だ。
今朝本人に話したように、乃亜が健やかに、
日常というものを謳歌できるように整えるのは自分の役目だ。
「俺に気を遣う、というより、
乃亜がなにかを我慢しないかが気がかりなんだ。
あいつはひどく我慢強いし、自己肯定感が低い。
……あのころの経験のせいだと思うが」
「……ああ」
それを言えば煉矢も納得せざるを得ないようで、低く同意を示した。
「今は良くても、明日はわからん。
あいつになにかあっても、俺が多忙だったり、俺の代わりになにかをしていたら、
おそらく乃亜はそれを口にはしない。
もうあいつには、なにも我慢させたくない」
「……それでお前が倒れたら元も子もないだろう」
「倒れるほどじゃない。自分の限界くらいは分かる」
「なら、いいが」
煉矢は溜息を呑み込むように残っていただし巻き卵を口にする。
さすがに長い付き合いだ。
静は煉矢がなにかをいわんとしてやめたことを気づいた。
それがなにかは分からないが、こちらとしても意見を変える気はない。
自分も残っている焼き鳥串をほおばった。
タクシーが通り過ぎていく中、自宅のマンションの前にたどり着いた。
乃亜はエレベータで上がる中、スマートフォンで現在時刻を確認する。
21:30。
少し遅くなってしまったが、無事に帰宅出来て少しほっとする。
ヴァイオリン教室の講師である水野に夕食に誘われて頂いていたのだ。
水野は単身者だが、こうしてごくたまに夕食を誘ってくれることがあった。
去年は殆ど受けることはなかったが、
静も忙しくしている。
夕食づくりから解放する良い機会だとも思って承諾した。
水野とは去年の夏からの教えを乞うているが、
こちらの技量や様子を見て的確にいろんなことを教えてくれる。
乃亜にとってヴァイオリン教室はとても過ごしやすい場所になっていた。
「……コンクール、か」
エレベータの中で独り言ちた。
水野から、生徒全員に一応声をかけている、もちろん興味があればで構わない、という
前置きを受けた上で話しをきいた。
その話を聞いたとき、1月に兄と一緒に行ったガラコンサートを思い出した。
この上ないほどの煌びやかで、明るく、眩しい、そして遠い世界だと思った。
あの場所に自分が、そう思うと、足がすくむ。
まるでそこに行くこと自体が、悪いことのように思えてしまって
乃亜はエレベータが付いたと同時に溜息を吐き、気持ちを切り替えた。
角部屋にたどり着き鍵を開ける。
既に兄は戻っているだろうかと思い、ドアを開けた。
「ただいま帰りました」
「おかえり」
聞きなれた返事はあったが、その声は兄ではない。
だが見知らぬものでもない。
乃亜は兄の部屋からちょうど姿を見せたその人物に目を丸くした。
「え、煉矢さん……?」
「邪魔をしている」
目元を少し緩めて笑いかけてくれたその人に驚く。
たしかに兄は今日、煉矢と約束があると言っていた。
だが、なぜ?
「どうしたんですか?」
「静と食事をしてたんだが、途中、眠気が襲ってきたようでな」
ちらと兄の部屋に目を向ける。
乃亜は少し急ぎめに靴を脱いで、彼の隣、室内を覗き込んだ。
ベッドの上でうつ伏せで静かに眠る兄の姿があった。
あんな姿を見るのは初めてで、ただ驚き一色だ。
どういうことだ、と煉矢に目を向けると、
彼は肩をすくめ、静かにドアを閉めた。
「単に、疲労と睡眠不足だろうから、
そう心配しなくても大丈夫だ」
確かに体調の問題ではないのならいい。
だがそれとは別に、ここしばらく気になっていた懸念が
当たっていたとも示していると乃亜は気づいた。
毎日随分遅くまで起きていることは乃亜も察していた。
しかしそれでも翌朝になると、ごく変わらぬ様子で
朝食を用意するために早くに姿をみせるのだから驚きだ。
乃亜は溜息を吐き出した。
やはり、兄は無理をしすぎているような気がして。
「どうした?」
「あ、……いえ……、その」
何でもない、としようかと思ったが、
ある意味でちょうどよい機会かもしれない。
乃亜は少し迷いながら、顔を上げた。
「あの、大学では、兄さん、どんな様子でしょうか」
「どういう意味だ?」
「根詰めていると言うか……無理を、しているんじゃないかと」
煉矢はその言葉にひどい既視感を覚えた。
つい先ほども同じようなことを話していた気がする。
壁際に背をつけて目を伏せた。
「まぁ、多忙には違いないな。
論文の発表まで、あと一か月だ」
乃亜はそれを聞いて、また溜息を吐いた。
反対側の壁に同じように背をつける。
「兄さん、遅くまで起きているようで……。
なのに、翌朝は朝食の支度までしていますし、
お休みの日は、家事もしてくれるんですよ。
私が代ろうとしても、ヴァイオリンのレッスンや、
学校の勉強があるだろうと言って。
そうでなければ、買い物や友達と遊びに行けばいいって」
それを聞いて煉矢は頭を抱えたい衝動に陥るがなんとか耐えた。
先ほどの話では、乃亜が静に気を使っている、ということだったが、
気を使っているのはどちらだ、というのが正直な感想だ。
それに逆に乃亜の方が困っているではないか。
事情をしるだけに分からないでもないが、それにしても。
「私……兄さんと一緒に暮らせて、本当に、幸せだと思ってるんです」
溜息のあとに、ぽつり、とつぶやきが落ちた。
視線を向ければ、どこか苦し気に眉を寄せていた。
「本当に、兄さんにも、あなたにも、感謝しかなくて……。
でも、だからと言って、それに甘んじるようなことはしたくないんです。
……あの地獄を知ってるから、今の日々を当然のものなんて思えません」
地獄と表現したその時期。
煉矢もまたそれに眉を寄せる。
ぎゅっと握られた手はもうあのころよりも健康的だが、
それでも少し震えているのが分かる。
「私はまだ子供で、兄さんにとって、守る対象だというのは、分かってるつもりです。
でも、だからと言って、私がいることで、兄さんの負荷を大きくしたくないです。
出来ることで……兄さんを支えたいのに」
「……そのことを、静には言ったのか?」
「言いました……。でも、大丈夫だと言って、笑って……」
成程、と煉矢は諸々把握した。
静は幼いころの乃亜をよくしるからこそ、
思い切り普通の生活を謳歌して欲しいと考えている。
けれど乃亜にとっては今の生活はもう十分すぎていて、
逆に与えられるものによって兄の負荷が大きいのではと不安になっている。
静のほうは正直もうあれは筋金入りだ。
妹を支え、守ることを当然としているし、
むしろ可愛くて仕方ない、何より優先したいと考えている。
分からないでもないが、それでも結果気を遣わせてしまっていたら本末転倒だ。
なにより、無理をしていると懸念を抱く乃亜の気持ちは、よくわかる。
「ヤツは心底、お前を可愛がっているからな。
負担など微塵も思っていないだろうし、それに嘘はないだろう」
「……それは、そう、なのかも、しれませんが……」
自分で言うのもおかしい、と思っているのだろう。
乃亜は少し恥ずかしそうに身をよじった。
「お前は兄の、外目から見ての負荷を減らしたいんだろう。
なら、少し強引にしてしまえばいい」
「強引に、ですか?」
「家事にしても、なににしてもな。
それで自分がやるから、と言われたら、これは我儘だと言って押し通してしまえ」
「あ……」
「そう言えば、お前が可愛くて仕方ないあの兄は口を噤む」
目からぽろぽろとうろこが落ちた様子だった。
ふ、と小さく笑う。
だがこの妹も、兄に似て頑張りすぎるきらいがある。
念のため、釘も刺しておかなければならない。
「とはいえ、お前自身に負荷がかかりすぎるのはダメだということは分かるな」
「それは……はい」
「お前自身もうまくバランスを取れ。
たった二人の兄妹だろう。話し合えばどうとでもなる」
「……はい」
少し肩の荷が下りた様子の乃亜に煉矢はそっと頭を撫でた。
友人の妹とはいえ、自分もどこか妹のように感じることがある。
手をどければ、彼女は少し頬を染めていた。
「ありがとうございます。
明日から、試してみます」
「ああ。俺が口添えしたことは言わないでいてくれると助かる。
色々文句を言われそうだ」
「ふふ、分かりました」
口元に手を当てて小さく笑う。
本当に、いつかの幼い子供が、随分と変わったものだと実感する。
腕につけた時計を確認すると、もう22時を回っていた。
「では、俺はそろそろ帰る」
「はい。遅くまで、ありがとうございました」
「いや。しばらく会えなくなる前に、お前とも会えてよかった」
「え?」
靴を履きながら正直な心地を口にすると、
乃亜が不思議そうな声を上げた。
「9月から留学する予定だ。8月に入ってすぐに立つ」
「そ……そう、なんですか……?」
「ああ。次に会えるのは2年後か。
だからこうして会えてよかった」
驚いているのか少し声が震えているのは気のせいか。
振り返ると、ひどく狼狽している様子が見て取れた。
「乃亜?」
「あ……っ、あ、いえ、すみません。
その、兄さんからも、聞いていなかったので……驚いて」
「あいつに言ったのも今日だ。
お前も知っての通り、多忙を極めていたからな。
余計な気をこっちに回されてもろくなことにならない」
「ああ、それは……」
乃亜はひとつ息を吐いて驚いた様子を内側に引っ込ませた。
にこりと笑うが、どこか少し表情はさみし気だ。
「寂しくなりますね」
「今の時代、Web通話で簡単に話せる。
なにかあれば、お前も連絡してくれ」
「時差もあるでしょう?」
「サマータイム中は16時間らしいな。真夜中に連絡さえなければ、構わない」
「……はい、ありがとうございます」
寂し気な笑顔は少し薄れて、いつもの穏やかな笑みに戻った。
少しそれに安堵して、もう一度頭を少し撫でてやる。
「ではな」
「はい、おやすみなさい」
静かに開閉したドアを見、足音も何も聞こえなくなると、
乃亜は溜息と共に、廊下の壁に背中を預けた。
突然の留学の話に心底驚いた。
もう一人の兄のように慕っていた人が、いきなり遠くに行ってしまう。
兄にとってもかけがえのない友人のはずだ。
だがそれ以上に、乃亜はなにか、胸が詰まる思いだった。
愚痴のようなってしまった相談に、嫌な顔一つせず乗ってくれた。
兄に言えないというわけではないが、
兄とは違う目線で相談に乗ってくれるのは今に始まったことではない。
以前から幾度もそういったことはあった。
なにより、あの地獄から自分を連れ出してくれた最初は、あの人だ。
今でも忘れられない。
手足が凍えるほどに冷たい、刺すような寒さの中で、
ただ恐怖に迫られどこへ行ったらいいかもわからず走っていた。
転んで、もう駄目だとさえ思った自分に駆け寄ってくれた。
あの時のことは、決して忘れられない。
凍える自分を抱きしめて、守ってくれた。
温めるように包んでくれて。
あの時の手は、随分大きくなって、今も変わらず、髪を撫でてくれた。
胸元に当てた手を力なく握る。
「……煉矢さん」
この胸のざわめきの正体を乃亜が知るのは、まだ先の話。
本作ヒーローは登場は遅いわ留学するわ。なんでやと思わなくもないですが。
次回より夏休み強化月間ということで、通常の更新間隔に加えて火曜日も11:30から公開となります。
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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★
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★アルファポリスでも連載中★
https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664




