3-6 期待外れ
今朝、寮を出る時に寮監から手紙を渡されたクラールはこの時間になるのを心待ちにしていた。
ケレス村の人がクラールに手紙を出そうなどと思うはずもなく、唯一手紙のやり取りをしていたオーリ街の店主ともポーションの発注ぐらいなので帝国産のポーションを卸してもらえることになった今クラールに手紙を出すことはないだろう。
では誰からの手紙なのか、そう思いながら手紙の差出人の名前を見るとロイ・ベルターと書かれていた。
手紙の内容は昼休みが終わったら迎えを寄越すから校舎の入口で待っていてほしいこと、午後の授業を抜けることは担任のキース先生には既に連絡済みだということ、そして自分が手紙の差出人だとまた良からぬ目立ち方をするかもしれないからロイの名前を借りたことが書かれていた。
(アスラさん……)
名前がなくても書いたのがアスラだとすぐにわかった。見学の後、配慮が足りなかったと申し訳なさそうにしていたアスラの気遣いを手紙から感じる。
編入してからしばらく経っているが、アスラに会うのは久しぶりである。クラールは昼食を食べた後一度教室に戻って鞄を取りすぐに校舎の入口に向かっていた。
貴族の令嬢達は優雅にゆったりと歩くものなので、クラールが急いで歩く姿は品がなく写り目障りだと言わんばかりにまたヒソヒソと何かを囁き合っている。
いつもならその空気が気になって俯いてしまっていたが、この後のことを考えると気にならない。
廊下の先の角を曲がればあとは階段を降りるだけだとクラールが思った時、足元に違和感があった。それに気づいた時にはバランスを崩していた。
「わっ…!」
クラールは盛大に転んでいた。咄嗟に手をついたが、床は濡れていてさらに滑ってしまう。
慎重に体を起こすと床に触れたところはびっしょりと濡れていて、鞄は手元を離れてクラールが転んだ少し先に落ちている。
「痛……っ」
鞄を取るために立ちあがろうとすると床にぶつけた膝が痛くて上手く立てなかった。
急いでいてよく見ていなかったがどうしてこんなところに水溜りがあるのか、そう思っているとクスクスと笑い声が聞こえた。
「まぁ……びしょびしょに濡れてまるでドブネズミだわ」
「そんなところに膝をついて、庶民は本当にみっともないわね」
「あのびしょ濡れで校舎を歩かないでほしいですわ」
扇子で口元を隠した令嬢たちは、転んだクラールを嘲笑っていた。クラールはびっしょりと濡れた制服に手を当ててみる。
(……この水、魔力が篭ってる)
誰かが魔法を使ってここに水溜りを使ったのだとすぐに理解するが、誰の魔法なのかはわからない。クラールを嘲笑した令嬢達の誰かか、それとも周囲にいる他の誰かか。
クラールには水溜りを作った人物を特定することなどできない。それよりもアスラに会うのにびしょ濡れの制服でどうしようかと心配だった。
魔力が篭っている水なのでクラールの魔法でもなんとかなりそうだが、人目のあるここで使うわけにはいかないだろう。床の水はどうするべきかと滴った水滴が床の水溜りにポタポタと落ちていくのを見て考えていると、クラールの前に一人の女子生徒が近づいてくる。
「あなたが編入生?」
「……え?」
座り込んでいたクラールはその声の主を見る。
漆黒の長い髪を揺らしてクラールを見下ろしている女子生徒はとても美しい顔立ちで迫力があった。
思いっきり眉を顰め睨みつけているその目には怒りが宿っているようだ。
「……全然大したことないじゃない。殿下が選んだって言うからどれほどの女かと思ったのに。その髪、シュロン国の人間ね?卑しい身分だと髪を売って生活するって本当なのね」
クラールの髪が短いのは自分で切ったからで、その髪は帝国に来る前に捨ててしまった。シュロン国特有の色素の薄い髪は、鬘として需要があるため、貧民が髪を売って金にすることはままあるのだ。人口の少ないシュロン国人の髪は貴重とされるが、貧民の髪などどれだけ洗って綺麗に見せたところで大した金にはならない。二束三文で買い取られたその髪は綺麗に染めてどこかに売られているのだが、鬘を買うのは貴族ぐらいなので貧民から買い取った価格からは想像もつかないほど高価な物になっている。
人身売買されて死ぬまで髪を伸ばすためだけに飼われる奴隷にされることもあるのだから、黒く長い髪が美しいとされる帝国の常識で生きている貴族令嬢からすればクラールがそう見えるのは仕方のないことだ。
彼女の言葉を否定した所で実際クラールの髪は今短いのだからどうしようもなかった。
「あなたみたいな庶民がどうして殿下に推薦されたの?」
そう言われてクラールは考え込んだ。アカデミーに来たのは女子寮に入る為で、推薦に関しては学費の免除のためだろうか?しかし、アスラはクラールが学費のことを口にするよりも前に推薦を決めていたようだった。
(そういえばどうして推薦されたんだろう?アスラさんの気まぐれ……とか?)
しばらく待ってもクラールが沈黙していたので答える気がないと捉えた彼女は怒気を孕んだ目でクラールを睨め付けた。どう答えようかと迷っていた時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「もういいわ。下女のように這いつくばってそこを拭いておきなさいね」
そう言い残して彼女は立ち去り、その様子を見ていた周囲の者達もそれぞれ教室に向かった。
一人残されたクラールは、水溜りに手をついて魔力を込める。あまりこういう使い方はしたことがなかったが魔法で生み出された水なら魔力石にできるはずだ。クラールの想像通り床に溜まった水は魔力石にできたので、ついでに制服についた水も同じように取り出した。
「普通の水じゃなくて良かった……」
普通の水ならどこかで雑巾を借りて来なくてはいけなかった。魔力石を握りしめて誰もいない廊下で呟いたクラールは、早く校舎の入口に向かわなければと慌てて鞄を拾って階段を降りた。




