第九十二話 天球
異形は微動だにしない。俺の身体だけが、重たい時間の中を流れるように移動する。
――――断ち切れる。
剣を握る手に力を込める。敵を両断する喜びを表すように、右手の紋章が仄かに光る。
人に似た形態をとっていた異形の腹部に剣が触れる。
それを振り抜こうとした瞬間だった。
天球を前にしているような感覚を味わう。今自分が相対しているものは、人間の理解の範疇を超えた存在なのだと暴力的に理解させられる。
腕を動かすことができない。物理的に動かせないわけではない。この異形の身体は流動性のあるゼリー状物質で構成されていて、剣を振り抜くこと自体は容易だ。
しかし――――脳の片隅がスパークするように赤熱する。鋭い痛みが幾度もこの身を貫く。警鐘を鳴らすように。重く鈍い音が脳内に響き渡る。
振り抜くことを断念し、後方に跳躍する。
蔦が這ってくるような感覚だ。足首を誰かに掴まれ、そこにずるずると蠢く蔦が伸びていく。数分もすれば存在ごと呑み込まれるのではないか――――そんな恐怖がずっと付き纏っていた。
異形の怪物は、剣を構えた俺を見据えて右脚を後ろに引いた。見れば、人体の構造を模した形態に体型が固定されている。
そのまま腰を軽くひねり、左脚に重心を傾けて――――。
――――まずい。どうして直前まで気づけなかったんだ。
あれは物体を蹴る動作に決まっている。
しかし避けることはできない。俺の後方にはレティシアが居るのだから。
衝撃の余波すら致命傷に足る威力を持っていることは容易に想像できる。
「【呼び声に応え、守護せよ】――――」
シルヴィアから授かった、最上級の防御魔法を発動する。花の咲くように水色の障壁が展開される。
その瞬間、異形の怪物が右脚を振り抜いた。
砲弾を撃ち込まれたかのような負荷が腕にかかる。左手で右手を支え、なんとか魔法の維持に成功した――――そう思った時。
障壁のすぐ向こうで、怪物の左脚が持ち上がるのが見えた。
「――――ッ」
障壁がばらばらに打ち砕かれ、相殺できなかった衝撃が俺を後方に吹き飛ばした。
「ユキヤっ!」
床に強く打ち付けられた俺に向かって、レティシアが駆け寄ってこようとする。
駄目だ。逃げてくれ、レティシア。
声が出ない。喉に力が入らない。視界が霜に覆われたように滲んでいる。手が動かない。来ないでくれ。来てしまったら……また俺は、君を――――。
死なせてしまうかもしれない。
「ユキヤ、大丈夫?」
君の声が遠くで聞こえる。
意識が遠のいているのが分かる。
やめろ。動いてくれ。
意思は燃えているだろう。心が求めているだろう。ならば唱えろ。お前にできるのはそれだけなのだから。
喉が燃えるように痛む。
レティシアの背後に怪物が移動してくるのが見える。
「【巡る流れは……この手の中に……】」
怪物が脚を振り上げるのが見えた。
俺たちを踏み潰そうしているのだろうか。
「――――【飛べ】」
魔方陣が俺とレティシアを抱き締めるように広がり――――世界は白色に包まれた。




