第八十七話 最大純度
乳白色の液体の中に浮かんでいるような感覚だ。
世界の狭間のような場所で、意識だけがゆらゆらと漂っている。
誰かが語りかけてくる。
声は聞こえるのに、言葉を解することはできない。
でもその声音の柔らかさだけは判る。魂を包むような慈しみを持った声。
引力を感じる。ずっと遠くから引っ張られているような感覚が、意識を刺激する。
呼ばれているのか?
ふと、そんなことを思った。春の木漏れ日のようなこの声は、俺を呼んでいるのではないか。
それに思い至った途端、肉体の感覚が蘇った。見下ろせば、自分の身体が雲上に浮かんでいるような光景が見えた。
ここはどこだろう。
どうにも記憶が判然としない。俺は直前までどこ、に――――。
瞬間。暗闇で突然明かりを投げかけられたような感覚が走る。茫漠としてつかみ所のなかった記憶が、鮮烈に脳裏を駆けていった。
そう、だ――――。
俺は、皆を助けるって誓ったんだ。
こんな場所で足踏みしてるわけにはいかない。
動け。呼び声が聞こえたのだから。
気を抜くと沈んでいきそうになる意識を繋ぎ止め、手を上に伸ばす。
灯火のような光が頭上に浮かんでいる。
太陽のような激しい明るさじゃない。月のような艶やかな明るさでもない。
けれど確かにその光は、向かうべき場所を指し示しているように見えた。
濡れるような光のただ中で、楔の紋章が輝きを増していく。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
開けた視界に映ったのは、瀟洒なレースのように可憐に揺れる純白。
瞬きを繰り返す内に、それが少女の髪の毛であることが分かる。心配そうな表情で、俺の顔を覗き込んでいるようだ。
「え……っと……?」
一度目はこんな反応だった気がする。
俺が恐る恐る声を出すと、眼前の少女はほっと胸をなで下ろした。
「目を覚まされたのですね。よかったぁ……」
混じりけのない最大純度の笑顔が向けられた。
その笑みに、痛いほどのノスタルジーを覚える。
「ここはどこなんだ……あと、君は……?」
あのときと同じ反応をなぞる。従う道理はないけれど――――始まりくらいは間違えたくないから。
俺が奪った君の名を、どうかもう一度聞かせてほしい。
俺の言葉に、君は楚々とした仕草でスカートの裾を摘まんで頭を下げる。
髪の毛が揺れる。
初雪が降るように。
「私はイリエス王国の王女――――レティシア」
そして顔を上げ、宝石の輝きを秘めた碧眼で俺を見て言うのだ。
「あなたをこの世界に召喚した咎人です」




