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89.世界を変えたかった


 改めてちゃんと、とは思っていたけど、機会は案外早く来た。

 ぐっすりと寝ていた犬を部屋に残して頼まれ物の備品を修道院裏の倉へ運ぶ。大きい荷物の運搬係が板について来たなぁ。最近では鍵を忘れてなくなってきたし、修道院での暮らしにもすっかり慣れてきたと思う。

 そんなことを考えながら倉の鍵を閉めていると、いつも通りのお仕事の最中のマレーさんが修道院の裏口に荷台を止めていて。いつもの様に炭酸水の入った小瓶を二つ揺らしながらマレーさんが笑った。


「少し、話したいな」


 気まずいような、気を使い過ぎたくないような。建物を背に、二人並んで段差に腰かける。いつもの光景、だと思う。

 貰って蓋を開けたはいいものの、なんとなく口をつけがたくて、小瓶の中で泡が弾けるのを眺める。ぱちぱちと小さな音が手の中でして、これを一気に飲み干せば爽やかな気分になるのかな、なんて。


 何から話し始めればいいのか。

 マレーさんとは私なりに考えてもう一度話そうと思ってた。あの人なりに私のことを考えてくれていたのに、私の我儘で断った様なものだから。

 なりたいものと、なりたい形を見付けた。それに近付くためには、多分ここにいるのが一番いいんだと思う。マレーさんに断った時にはまだちゃんとした答えは出ていなかったけれど、それでもあの時も投げ出したいわけじゃなかった。


 逃げ出さず、向き合いたいと思った。私はたくさんの人に守られてきたのだと知ったから。その分を、誰かに返せる人になりたいと。

 聖女ではなくとも、お婆ちゃんの様に。大切な人のために、自分を救ってくれた人のために。皆には届かなくても、たった一人にしか返せなくても。誰かのために何かを出来るような人になりたいと思った。


「もしかして、まだ俺のこと考えてくれてる?」

「うん。ずっと考えてる」

「でも一緒に来てくれないんだ?」

「ごめんね」


 怒ったり責めたりもしないで、マレーさんは淡々と投げかける。

 マレーさんは自由になれると言った。私は縛られているように見えると。マルチダにも顔色を伺っているように見えたと言われた。きっとそう見えたのなら、私自身がそうでなければいけないと振舞っていたんじゃないか。

 知らないことの方が多い癖に、それが全てで、そうあるべきだと、思い込んでいたのかもしれない。


 ずっと村から出たいと思っていたけど、村から出て王都に来てどうだろう。

 知り合いも友人も増えた。知らなかったことも増えた。考え方も、なりたいものも少し変わった。


 特別になりたかった。なれなかった。

 でも今は、特別じゃなくて良いと思っている。ただ、与えられたものを返したいと。優しい人に報いたいと。

 自分でも随分極端な方向転換だと思う。あの森での出来事は、お婆ちゃんやヴァイオレットの別れは私にとって大きなものだったんだ。それから少しずつ、私の知らなかったあの人たちの一面を知って、ずっと守られていたと気が付いた。


「あなたも私に優しくしてくれた。一緒にどこかに行くことは出来ないけど、それでも私はお礼がしたいと思ってる」


 あの人たちがそうしてくれた様にそうありたいと。私は、本当に貰ってばかりなんだ。

 マレーさんの顔を見れば、口元だけは笑っているのにまるで泣き出しそうな表情で。堪え切れなかった何かが溢れてしまったかのように見えた。


「何でこんなにも違うんだろうね」


 握ったままの小瓶の中で炭酸水が弾ける。それはマレーさんの声と同じように、震えて聞こえた。

 腕が伸びて来て私の肩を掴む。何か気に障ることを言ってしまったんだろうか。

 ちょっと痛くて、それよりどうしてマレーさんが泣きそうなのかが気になって。何か言わなきゃと思うのに、やっぱり私の口は思ったように動いてくれない。


「君はまだ知らないだけなんだ。可哀そうに誰も教えてくれなかったんだね、俺たちが本当に信じるべき神様を」


 明確に何かが変わった気がした。先ほどと同じように苦しそうな顔で私を見ているのに、私以外の誰かを見ているようで。

 不意に、ずるりと、犬が地面から這い出して来た。え、待って何がどうなってるの? どこから出てきたの? 今わけわかんないことしないで、お願い。一度に色々起こり過ぎてちょっと理解が追いつかない。

 突然現れた犬に驚いたのかマレーさんが手を離して後ろに仰け反る。犬が見えてる?


「ああ、そうだ。やっぱり、俺たちは同じなんだよ」


 犬が私とマレーさんの間に体を潜り込ませ唸っている。

 もう何が何だか。マレーさんもマレーさんでよくわからないことを言っているし。犬もいきなり変なところから出てきたり、マレーさんにも見える様になっているしで、わけがわからない。


「場所は違えど、同じミゼーア様を讃える村で生まれた」


 犬を見ながらマレーさんが言った。知らない人の名前出して話を進めないでほしい。一人で話してないで帰って来て。

 相変わらず視線の合わないマレーさんは苦しいのか泣きたいのか、喜んでいるのかもわからない表情をしている。

 マルチダが様子がおかしいと言っていたけど、本当に何かに巻き込まれているのかもしれない。少なくとも、今までこんなマレーさんを見たことがない。


「君さえいれば世界が変えられる」


 世界って何。

 なんの話をしてるの?


「君は、俺たちの希望なんだ。父さんも、母さんも。村の皆も。やっと救われる。ミゼーア様が今一度生れ落ちれば、皆を殺したアイツにも復讐できる」


 等々と語り始めたマレーさんはまるで人が変わった様に、唸り声を上げる犬に怯むこともなく、それが素晴らしいと、まるで歌う様に言葉を紡ぐ。あの優しい提案を投げかけてくれた時とは本当に別人見たいだ。

 マレーさんは孤児で教会に保護されたと言っていた。殺されたってなんで? 復讐って何をしようとしてるの? ミゼーア様って、生れ落ちればって、どういうこと?

 それと私が何の関係があるの?


「もう、俺たちの神様を魔王なんて呼ばせない」


 ぐちゃぐちゃになっていた疑問が、たった一言で繋がっていく。

 魔王。復讐。生れ落ちる。


「頼むよエリセ。皆のためにも、一緒に来てくれ」


 泣きそうな顔でマレーさんが呟いた。

 ああ。この人も私と同じ。魔王の復活を望む村に生まれた。そしてその村の人たちを、勇者ギルバートに殺されたのだろう。

 そしてその復讐のために、私を連れて行こうとしている。魔王が封印されている、約束の地へ。そこで私を使って魔王を復活させようとしている。

 誰かのために。その思いはきっと綺麗なもののはずなのに、どうして。その願いは。


「強引に迫るのもどうかと思うけど、泣き落としってってのはちょっと違うんじゃねぇの?」


 不意に投げかけられた声は、マレーさんの背後、裏門からこちらを伺っている人の物で。しかもそれは私が良く知っている人で。

 ちょっと草臥れた立ち姿で、今までライナー様以外に唯一犬の姿が言えた人で、へらりとしたいつもの笑顔じゃなくちょっとだけ真剣な顔で、アーサーさんがそこに立っていた。



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