88.なりたいものの形
「よく笑う様になった、というより。視線が上に向くようになったわよね」
唐突に、目の前で銀食器を磨くマルチダはこちらを見ながら言った。
え、ごめん何? 全然話が見えない。
「視線?」
「手、動かす」
「はい」
指摘されて慌てて手を動かす。使い古しのカトラリーも柔らかい布で磨き直せば傷の合間にきらりと光を反射する。
食堂で黙々と磨いていたから手伝いを申し出たんだけど、私が磨くのよりもマルチダはずっと手際よくカトラリーをピカピカにしていく。案外こういう単純作業が好きなのかもしれない。
マルチダはとしはそう変わらないはずなのに、いつも一緒にいる四人の中ではまとめ役になることが多い。よく人を見ているし、物知りさんだしで、面倒見のいいお姉さん気質なのかもしれない。
「無意識なのか、ずっと人の顔色疑ってたじゃない」
「そんなつもりなかったんだけど」
「そう? 少なくとも私には、言いたいことの殆どは飲み込んで嫌われないようにしているように見えたわ」
そんなにかな。止まりそうになる手を動かして、中の銀食器触感を布越しに確かめる。
……確かに言わなくてもいいか、ってなるのは多いかもしれない。でも嫌われたくないから言わないとかそういうのではない、と思う。まぁ、可能な限り人に嫌われたくないとは思うわね。
「別に悪いとは言わないけどね、健全ではないと思ってたわ」
磨く手を止めずにマルチダは呟いた。なんと返したらいいんだろう。上手く言葉が出てこず一先ず黙って手を動かす。
確かにマルチダの言う通り、なのかもしれない。途中で黙るのも、顔色を窺っていると取られても仕方ないし。言いたいことを言えない関係が、あまりいい結果にならないのは身をもって知っている。
食器が触れ合う軽い音がカチャリと鳴った。
「最近は他人なんか気にしてられないって感じがする」
「それって駄目なんじゃない?」
「過剰に気にし過ぎるよりはいいじゃない」
簡単に言い捨てたマルチダに何とも言えない気分になる。
いやいや、私としてはちゃんと人の気持ちに向き合っていきたいと思っているんだけどなぁ。
色んな人に助けられて今の私があるんだから、その分どんな人の事情も受け止められるようになりたいと言いますか。マルチダの言う通りなら、なんて言うか押しつけがましいだけの人になっちゃいそうだ。
「何か、自分の中に芯になるものが出来て、誰かの機嫌に振り回されなくなったのね」
私を見つめてマルチダが笑う。なんだかとっても優しそうな顔をしていてちょっと気恥ずかしくなった。
私ってそんなにわかりやすかったかな? 心境の変化と言えばいいのか、やりたいことやなりたいものが見つかって、問題が解決したわけではないが気持ちが楽になったのはある。
よく笑うようになったとか、視線が上がっているのと関係があるかはわからないけど。
「マルチダはすごいね。色々見えてて」
「あら、ありがとう。でも私だって何から何までわかっているわけじゃないわよ」
あらかた磨き終わった銀の食器を籠に移して、マルチダは布巾で軽く手を拭った。
カトラリーのつるりとした面に細かな傷と、光の反射が移り込む。手際がいいなぁ。
「マルチダでもわかんないことあるんだ」
「あるわよ。特に馬鹿な男の考えることなんかわかりたくもないもの」
「男の人が嫌いなの?」
「そういうわけではないけど。でも金品や利益に目が眩む連中は嫌いね」
多分そういう人は皆苦手だと思うな。
というか、前にも言い寄ってくる男の人が嫌だと言っていたけど、この人本当に何があったの?
「ああ、言ってなかったわね。私子爵令嬢なのよ」
ぱちぱちと瞬きをする。お貴族様だったの?
皆色んな理由があって修道院に身を寄せていて、場合によっては貴族令嬢が隠れるためにも使われるとは聞いていたけど、身近にいるとは思わなかった。
でもそれなら、色々大変だったんじゃないだろうか。令嬢として暮らすのと修道院での暮らし全然違うだろうし。マルチダは私が来た時にはとっくにこの生活にも慣れていてわからなかった。今だってピカピカにカトラリーを磨いてたし。
「お父様が事業に成功した途端、目の色を変えて言い寄ってくる連中が出て来てね。全部面倒になって家出して来たの」
「それで家出って、よかったの?」
家族とか、それまでの暮らしとか。そういうものも全部、自分の意志で置いて来たの? いくらいざとなれば修道院から元の暮らしに戻れるとは言え、思い切りが良すぎるような。
いや、これくらい思い切りが良くないとお貴族様にはなれないのかしら? そういえばキカもアーサーさんも思い切った行動をとる人だったわ。
「むしろ良かったのよ。私が修道院に入ったと知った途端、実家に押しかけてくる連中もいなくなったらしいし」
このまま学徒の道に進もうかしら。なんて笑うマルチダになんだかなぁと、もやもやした気持ちを押し込める。
家にそういう人たちが来なくなって、基本的に未婚を貫くと決めた女性が入る修道院にそういう人たちが来ないということは。
マルチダの言う通り本当にお金とかマルチダのお父さんのお仕事が目的の人たちで。目の前で笑う人はそういう人のために両親との生活を追われた人で。
可哀そう、とは違うのかもしれないけれど。本人はなんてことない顔してるけどもうちょっと何か方法、無かったのかな。
「貴族って大変ね」
「世の中なんてままならないものよ。エリセ、手」
「はーい」
ルーナたちのなりたいもの、やりたいことの話を聞いた。彼女らには彼女らの幸せがあって皆何かを抱えてる。
私にもそういうのがある。どう在りたいか、やっと見えてきたところ。
「なりたいものが出来たの」
「あら、いいじゃない。応援するわ」
「ただすごく曖昧な目標でさ。立派な人間になりたい。みたいな」
「随分抽象的ね」
「うん。だから頑張ろうとは思うんだけど、何をどう頑張ればいいのかも悩んでる」
ルーナたちのなりたいものを聞いた。皆形を持った夢だった。
それに対して、私のなりたいものは曖昧で、どうすればそうなれるのかは未だわかっていない。ただ漠然と私のことを大切に思ってくれた人たちに恩を返していきたいと思っただけで、何をどう、というのが全く伴っていない。
形のない贈り物はどういう風に返していけばいいのだろう。優しい人たちにお礼をするには、何をすればいいのだろう。
「ふーん。まぁ、気負い過ぎない程度に頑張ればいいんじゃない?」
磨いていた最後の銀食器を置くと、マルチダが布巾を差し出して来た。
それを有難く受け取って軽く手を拭う。ちょっと疲れた。
「曖昧な願いなら自分で好きに形を与えてしまえばいいのよ」
曖昧な願いに形を与える。
ああ、そうか。いいんだ。曖昧で形がなくて、ただ漠然と思い込んでいたけど、そういうことをしてもいいんだ。
与えられたものは形のないもの。それでも何かを返したい。優しくしてもらって嬉しかったから。温かい気持ちを、大切にしていきたい。誰かのため、そして自分のために。
多分その願いはきっと、お婆ちゃんの在り方にとても近いものだ。もちろん私は聖女じゃないし聖女にはなれない。
特定の誰かを思った時点で、自分も救われたいと思った時点でそういうものには決してなれない。でも、願いの在り方はきっとお婆ちゃんも一緒だったのだと思う。
「片付けて私たちも休みましょうか」
「うん、待っててくれてありがと」
「こちらこそ。手伝ってくれてありがとう」
私も、いつかのお婆ちゃんの様に。




