86.本を閉じて
日記を読み進めた。
何度も止まりかけた手を動かして、ページを捲る。そこには私の知らないお婆ちゃんがいて。ずっと一緒に暮らしていたのに、知らない面ばかりが書き記されていてなんだか変な感じ。
色んな気持ちが綴られた日記は、お婆ちゃんが死ぬ数日前で終わっていた。
私が、一方的にもういいと言って教会を飛び出したあの日よりも前。あの時お婆ちゃんが何を思ったのかはこの日記を以ってしてもわからない。
瘴気。というか、村の周りで生き物が死んでいたのはもう少し前からで、あの時の私の行動が直接的な原因ではないのかもしれない。だけど、最後に背中を押した一因だったのかな、なんて思ってる。
村を出たいって、外の世界に憧れなければお婆ちゃんはあんな風に思い悩んで、瘴気を生み出すまでにならなかった? 勇者ギルバートが私をお婆ちゃんに預けなければ。
わからない。お婆ちゃんは私にも誰にも、自分の考えを話さなかった。この日記にだって書いていないことの一つや二つあるのかもしれない。
日記の始まり。村にお婆ちゃんが来たばかりの頃は落ち着いていた筆跡も、最後のページは力なく、少し乱れている。
お婆ちゃんは、私が村の外への憧れを捨てて、静かに暮らしていくことを望んでいたんだろう。それは私をお婆ちゃんに託した勇者ギルバートの遺言でもあり、いつかの後悔を繰り返さないための願いだったのかもしれない。
理由はどうであれ、きっかけが何であれ。ちゃんと、大事にはして貰っていたと思う。願っていた形とは、ちょっと違ったけど。
お婆ちゃんが精霊様に頼んだって言う加護もその現れなんだろうなぁ。
良くないものだとわかっていながらも縋るしかなかった。それぐらいに切羽詰まっていた。守ろうと、思ってくれていた。
もし、瘴気を生み出していた理由も、私を村に押し留めるための物だったなら。村の外に出て、魔王に成り代わられてしまうくらいなら。そんな気持ちが一欠けらでもあったのなら。
勇者ギルバートの遺言を守れないかもしれない葛藤とか、救えるはずだったヴァイオレット救えなかった後悔とか。色んな物がごちゃ混ぜになった、けして綺麗な思いばかりではないその気持ちを私は受け入れたいと思った。
どんな感情が混じっていようと、結局私はお婆ちゃんが好きで、それでいいと思った。
これは全部私が都合のいいように解釈しているだけだ。お婆ちゃんの本当の気持ちはもう永遠にわからない。
それでも。私だって、そんなにいい人間じゃないから。そうだったらいいと思い込んで、嫌なことは見ないふりして、楽になりたいだけ。
「エリセ、少しいいかしら」
不意に聞こえたノックに、読み終ったのに開きっぱなしにしていた日記を閉じて立ち上がる。
あの声は多分ヨハンナさんだ。
「遅くにごめんなさいね。ご寄進の分配に来たの」
「いえ、こちらこそ遅くまでありがとうございます」
部屋の扉を開ければヨハンナさんと台車を押した先輩修道女がいて。
ご寄進の分配、なんて言っているけど、要はお給金の話だ。よくわけてもらうお菓子や物は他の先輩修道女が分配していて、金品については修道院の経営にかかわっている偉い先輩か院長であるヨハンナさんによって渡される。
とはいえ、ご寄進として受け取った金品から修道院の運営費を抜いた分を皆で分けるとなると、私たちに渡るのはお小遣い程度だ。皆これをやりくりして街の雑貨屋さんや、ケーキ屋さんに行ったりしている。
「何かしていた?」
「読み物を少し」
「そうだったの、書架にある本は自由に借りて良いからね?」
お婆ちゃんの日記は余り人に話せる内容ではないので伏せておく。こうして隠しごとが増えていくのか。あんまりよくないよなぁ。
可能な限り誠実でいたいとは思うけど、つい言わなくてもいいかとか。とかいう理由で口を噤んでそのまま、なんてことがままある。
「もちろん本屋さんで気に入ったものを買うのもいいことだと思うわ」
そう、本屋さん! あのお爺さんのところで何かいい本がないか相談しようと思っていたの。前回伺った時は手持ちがなくて諦めたんだけど、今なら一冊くらい買えるんじゃないかな。
以前お爺さんがくれた詩集はすごく面白かったし、可能ならまた一冊選んでほしいなって思っていたり。
「この間お使いで行った本屋のお爺さんが素敵な方で、あそこで本を買おうと思ってたんです」
「いいわね。あの方は前任の頃からお世話になっているの、きっとあなたに合う本を見付けてくれるわ」
された小袋を受け取りつつ応えれば、ヨハンナさんが優しく笑う。前任って確か旅に出る前のお婆ちゃんを知っていた院長さんだよね? ずっとお世話になって来たんだなぁ。
お爺さんは多分いい人だ。会ったばかりの私にも優しくしてくれたし助言めいたことも話してくれた。
それが人柄なのか、年の功なのかは私にはわからないけど、お爺さんの言葉で気持ちが楽になったのも確か。お爺さんと話してなかったらキカの言葉も素直に聞けなかったかもしれない。
とは言え、頭の中には何も解決していない問題がたくさんある。考えても仕方がなかったり、形に成すには私自身がまだまだ未熟だったりと解決には時間が掛かることばかり。
でも、私は温かいものを知っている。優しい気持ちがあった。悲しいことや辛いことばかりではないとを知っている。それだけでずっと気分が軽くなった。
「ここに来た時よりも表情が明るくなったわね」
「そう、見えますか? もしそうなら、きっと色んな人のおかげです」
たくさんのものを多くの人に貰ってきた。今まで気付いていなかったものもたくさんあった。それを受け取って、返していきたいと思った。もう、返せない人もいるけど、その分も他の誰かに。
別に私に大したことが出来るとは思わない。
それでも。誰かのために祈るのは決して悪いことじゃない。痛みや、悲しみを知って、その心の迷いを許せる存在になりたい。私は、まだまだ未熟だけれど、見習いでも修道女だから。教え、導く者だから。
多くの人は私を、聖女だったお婆ちゃんの孫として見ているけれど、自分は聖女ではないし、聖女にはなれない。
世界のために祈り続けられるほどできた人間ではないし、そんなものになれる器でもない。ただ、与えられたものを返したいだけ。与えてほしくて、先に何かを与えようとしているだけ。打算しかない。
「あなたは本当に謙虚ね。もっと胸を張ってもいいと思うけれど」
そうヨハンナさんが困った子供を見るように言う。謙虚、なのかな。むしろ我儘で傲慢な気もするけれど。
他の皆の部屋に向かうヨハンナさんたちを見送って扉を閉じる。振り返った先には机の上に残されたお婆ちゃんの日記があって。
多分、私はこれから何度もこの日記を開くだろう。
お婆ちゃんを忘れないためにも。ずっと一緒にいても何も知らないことがあるのだと戒めるためにも。痛みも、悲しみも、全部呑み込むためにも。
ゆっくりと近づいて、日記を撫でる。引き出しの中に仕舞おうかと思ったけど、やめておいた。すぐ開けるところにあった方がきっといい。
さて、今日はもう休もう。ベッドの上は犬に占領されているけど、上に乗ったって唸られるくらいで噛まれない程度には仲良くなれたし。すっかり慣れた寝息と温もりを感じながら今は眠りたい。
吹き消したロウソクの煙はまだゆらゆらと立ち昇っている。少し煙たいけれど、甘いだけじゃない夢を見るには丁度いいのかもしてない。




