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70.不思議な人


「不幸なことがあったからと言って、ずっと不幸でいる必要はないんだよ」


 まるで小さい子供に言い聞かせるように、お爺さんは優しい声で言う。

 温かいスープを飲んだ時の様にじんわりと、お爺さんの言葉が私の中に広がっていくキカに「信じる物は自分で決めて良い」と教えて貰った時の様な強い衝撃ではなく、それでもしっかりと私の中に響いて。

 幸せとか、不幸とか。どういう状態がそういうのかはわからないけど、少し心の中の重いものが軽くなった気がした。


 背の高い本棚が並んだ本屋さんは、王都の中でも殊更切り取られた空間の様に感じる。まるで違う世界に迷い込んだみたいな、不思議な感じ。

 本が山ほどあるのに埃っぽい匂いはせず、古い紙の独特な匂いが広がる中でお爺さんは穏やかな表情で私を見ていた。


「不幸な出来事を乗り越えるためにはどうすればいいのか、その模範的な答えはない。それは自分で考えないといけない」


 低く優しい声。愚図ついた子供を宥めすかせるような口調。優しくて、甘い言葉。けれどどこか諦めや寂しさを感じる。その諦めは、向き合うことからの逃避の様に思えた。

 向き合わなければ乗り越えられない。神様は乗り越えられない試練をお与えにならないはず。なら諦めや逃避を進めるこの優しそうなお爺さんは悪魔の化身とでも言うのかしら。


「人に話せば気持ちの整理が出来るかもしれないし、何かに没頭することで一時的に楽になれるかもしれない」


 答えはきっと簡単には出ない。このお爺さんが何者でも答えは自分で考えないといけない。話して見える物もあるというけれど、誰にどう話せばいいんだろう。

 お婆ちゃんのことは、アレックス元帥やライナー様たちと約束したし言えない。瘴気についてはあの場にいた人たちだけの秘密で、お婆ちゃんは聖女様らしく皆を守るために命を落としたとされている。

 ずっと一緒に暮らしていたお婆ちゃんが死んでしまったこともそうだけど、一番、上手く呑み込めていないのはお婆ちゃんが多くの人には言えない様な事件を引き起こした事実だ。


「好きなだけここにいるといい。話さなくてもいいし、全く関係のない話をしてもいい」


 お婆ちゃんはきっと苦しんでいた。ずっと一人で悩んで、その結果瘴気を生み出した。何も教えて貰えなかったのが寂しくて、少しもお婆ちゃんの気持ちを理解できていなかったのが申し訳ない。

 この状態が不幸というのなら、お婆ちゃんはもっと辛かったんじゃないのか。それでも、私は不幸じゃなくてもいいのか。


「案外、時間が解決してくれる、なんてこともあるかもしれないからね」


 幸せとか、不幸とか。どうすればその状態を抜け出せるのかとか。

 そういうのは全然わからないんだけど、ただお爺さんの声が優しくて。どうしてそんな言葉をかけてくれるんだろうとか、そういう疑問は置いておいて、向けられる笑顔になんだか許された気がして。


「どうしていいかわからなければここにおいで。たくさん話をしよう」


 時間が経てば、何かが変われば、こんな気持ちもなくなるのかな。

 それはそれで、寂しい気もする。


「一緒に悩んで、一緒に考えよう」


 不思議な人。穏やかで、優しくて。寂しい人だと思った。

 きっとお爺さんにも何かあったんだろう。だから気にかけてくれたんだ。確かに一人になったと言ったのは私だけど、そんなに落ち込んだ顔してたかな。


「あの、私自分で本を選んだことないんです」


 だから、おすすめの本とか教えてほしいなぁって。なんとなくいたたまれなくなって話題を変えてみる。少しわざとらしかったかもしれない。

 そんな私に気が付かないふりをしてなのか、ふむと考えた後、お爺さんは背後にあった本棚から一冊の本を差し出した。

 シンプルな装丁の本は若草色の表紙に金箔でタイトルと著者の名前が記されている。知らない名前だ。


「ではこれを。古いものなんだがね、何度も増版されて多くの人に愛された詩集だよ」


 詩集を読むのは初めてだ。今まで読んできた本ってアスターおじ様がくれた小説と村の教会に会った聖書くらいだし。この本の著者も有名なんだろうか。

 お使いの本と詩集を受け取って抱える。学術書の方はずっしりと重くて紙って意外と重いんだってびっくりした。村を出るために買った丈夫な鞄がこんなところで役に経つとは。


「ここで読んで行くかい? それとも……」

「お使いの途中なので」

「うん。その方がいいだろうね」


 肩にかけていた鞄に二冊の本を仕舞うと、今まで大人しくしていた犬が鞄の匂いを嗅いだ。え、何? 何か気になる匂いでもした?

 直接犬に聞きたいけど、流石にお爺さんに変な子を見る目で見られるのは嫌だし今はやめておく。


「また来てもいいですか?」

「もちろんだとも」


 にこにこ微笑みながら頷いてくれたお爺さんにお礼を言って本屋さんを出る。

 不思議と安心するお店だった。心無し体が軽い。お爺さんの言っていた話をして気持ちの整理が出来るかもってこういうこと?

 目を逸らすのって無責任な気がしていたし、何にも解決しないって思っていたけど。そうしたくなる気持ちもわかる。


 お婆ちゃんがいなくなってしまったのは悲しい。お婆ちゃんが抱えてきたものを、何も話してくれなかったのは寂しい。

 お婆ちゃんが引き起こしたことを知らずに、皆が私を通してお婆ちゃんをほめたたえるのは居心地が悪い。

 確かにお婆ちゃんはすごい人だった。らしい。でも瘴気を産みだして、多くの動物の命を奪ってのは事実。あのままもっとたくさん瘴気を生み出していたら、森の動物たちだけでは済まなかった。


 皆には告別式で森に発生した瘴気を払うためにお婆ちゃんは命を落としたと、アレックス元帥が説明したけど、実際は真逆だ。

 正しく。誠実であるべきだと教会の聖書には書いてあった。お婆ちゃんもそう教えてくれた。

 確かに私は清く正しく美しくとは程遠い性格かもしれないけどさ。それでも、ずっと隠したまま修道院で暮らしていくのは居心地が悪い。こういうのも、時間が解決してくれるのかな。


 隣を歩く犬の足取りも軽やかな気がする。

 お店の中ではちゃんと大人しくしてたの偉かったね。さっきはなんの反応も出来なかったから代わりに今撫でておく。尻尾思いっ切り振ってるなぁ。

 目が無かったり口が耳まで裂けていたり、光の加減で緑や紫にも見える黒い体。見た目はともかく動作が犬にしか見えない。

 そんなことを考えていたら犬の耳がピクリと反応したかと思うと突然走り出した。


「ちょ、ちょっと!」


 え、褒めたところなのに? テンション上がったとか?

 今までそんなことなかったのに。もしかしてでられたのが嬉しかった? 今まで全然撫でてなかったけどこれからは撫でた方がいいの?


 慌てて走り出そうかと思ったけど犬はさほど遠くには行っていなくて。

 石畳の少し先。少し傾いた日に照らされながら、誰か、知らない人と一緒に犬が居た。男の人だ。大きな荷物を持っていて、つい今しがた王都に付いたような恰好をしている。

 犬は、その人の足元を嬉しそうに回っていた。


 私と、ライナー様以外には見えていないはずだった。また犬が皆に見える様になったのか、それともこの人が見えるだけなのか。少なくとも本屋のお爺さんは犬のことを見えていなかったと思う。

 でもその男の人は、足元にまとわりつく犬のためにわざわざ膝をついて背中を撫でている。

 そうしてじゃれつく犬に一通り構った後、私を見て笑った。


「可愛い犬だな」


 いや、その犬を可愛いと言う感性は少しズレていると思う。


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