7.狼の遠吠え
結論から言うと精霊様の泉に魔物はいなかった。
目の前には森の中に湧く泉。木々が開けていせいか差し込む日差しが反射していて神秘的な雰囲気が漂っている。
今までこんなに近くまで来たことなかったけど水も澄んでいて綺麗。本当にこの森に魔物がいるのか疑いたくなるくらい静かで、風が葉を揺らす音しかしない。
生物は皆水がないと生きられないし、魔物も水辺に帰ってくるんじゃないかとここまで来たものの、辺りを見渡してもそれらしい生き物はいない。というか、生き物全般がいない。
いつもなら何かしらの動物が休んでるのにどうしたんだろう。
「ここが精霊様の泉なんですが……」
「何もいないな」
隣を歩いていた騎士様の呟きに頷く。
なんで何にもいないんだろう。いつも賑やかってわけじゃない。でもこんなに静かなのは初めてかもしれない。
やっぱり精霊様が散歩に出てるからかな。精霊様が泉にいない時は森の動物も自由行動になってるとか、さすがにないか。
ライナー様たちが周囲を警戒しながら泉の周りを調べるのに習って私も周りを見回してみる。うん、何にもわかんない。
野生の動物がいないっていうのはともかく、それ以外は特に何もおかしくはないように見える。
「えっと、いつもはもっと動物がいるんですよ?」
「そのようだね。ほらここ、野生動物のフンがある。乾燥しているから時間は立っているが、動物が生息しているのは間違いなさそうだ」
そういうのもわかるんだ。
さっき山育ちだって教えてくれた騎士様曰く、見つけたのは草食動物のフンらしい。確かに鹿も見たことあるかも。
でも今見つけたいのは魔物が森にいる証拠なんだけどな。
「そういえば、森に逃げ込んだ魔物ってどんなのだったんです?」
「ああ、狼に似たやつだよ」
狼。と、野犬の違いって何だろう。大きさ?
もしかして今まで私が野犬だと思ってた犬っぽい動物が狼だった可能性もある? 私何なら普通の動物と魔物の違いも今一わかってない。
それにしても本当に何もいないなぁ。泉に近づく時もできるだけこっそり来たけどすでに何もいなかった。どこに行ったんだろう。
魔物がいて皆隠れてる? だとしたらどうして精霊様はのんびり散歩してたんだろう。
魔物も精霊様は襲わないとか? 聖なるが苦手らしいしあり得るかも。
「隊長、血の跡がありました」
騎士様が声を上げた。
血の跡。確か魔物はライナー様が怪我を負わせたんだったっけ。じゃあその時の血かな。もしそうなら半日この森で休んで、夜の内に村の羊たちを襲ったってことでいいの?
他所に行く足跡はなかったというし、また森に帰って来てるならまだ近くにいるのかな。
なんて考えていたら何かがすれる音がした。多分、泉とは反対の方だ。
「どうした? 嬢ちゃん」
「いえ、今音がしたような気がして」
なんだろう。砂がすれるような音だった気がする。例えるなら足音って言うより、ちょっと体制を崩しかけて踏ん張ってる時みたいな。
辺りを見回しても特に何もなくて、空耳かもと思った時だった。
さっきよりも大きな音がして、何かが茂みの中から飛び出してくる。それは私の方じゃなくて、泉の方を見ていたライナー様の方へ。
「ライナー様!」
危ない! という声が喉から出るより早くライナー様が剣を抜く。
最初は何が飛んできたのかわからなかったけど、ライナー様が剣でそれを受け止めたことでやっとわかった。
魔物だ。
前に伸びた鼻と口、大きな耳。ライナー様の剣で降り払われて離れたその魔物は、狼みたいな特徴をしているのに器用に後ろ脚で二足歩行をしている。
狼であり人型、まるで以前アスターおじ様が話してくれた怖い話に出てくる狼男みたい。
「なんだこの魔物」
「体制を立て直せ」
昨日ライナー様たちが戦った魔物だと勝手に思っていたけど違うみたい。
騎士様たちが声を掛け合いながら剣を抜いた。私も邪魔にならない程度に下がっておく。でもどういうわけか飛び出して来た魔物は私や他の騎士様には目もくれず執拗にライナー様を狙っている。
知らない魔物なのよね? 羊を襲ったのも恐らくこの魔物で。ならどうしてライナー様ばっかり狙ってるの?
「同じ個体なのか?」
誰かが言った。
確かにライナー様が魔物に致命傷になりえる怪我を負わせたって言っていた。
今ライナー様を襲っている魔物も顔のところからお腹の辺りにかけて毛が空けていて怪我をした跡があるようにも見える。
でも見たことない魔物なんでしょ? そんなことあるの?
魔物生態に詳しくないし知らないけど、一日二日で姿形が変わったりするもの?
この魔物が昨日ライナー様たちと戦った魔物なら、よほどライナー様に切られたのが腹に据えかねたのかしら。
狼のような、二足歩行の魔物が執拗に鋭い爪と牙でライナー様を狙う。
一人が私を庇うように立ってくれていて、他の騎士様がライナー様と一緒に魔物と戦っている。
気が付いたら首にかけたロザリオと、鞄の中に入れた聖書を上から無意識に握っていた。本当にこれが魔物に効くのかな。まあまあ分厚いし近くに来たら殴れるわね。でもその前に引っかかれそうだわ。
聖女として勇者様と一緒に魔王を倒す旅をしていたお婆ちゃんが言うんだもの、間違いはないと思う。ライナー様たちが勝つのを疑うわけでもないけど、ちょっと不安なのは秘密。
そんな中でふと、騎士様の鎧越しに魔物と目が合った。
ライナー様たちと戦ってボロボロになった狼男が息を吸い、月もないのに大きく吠える。
遠吠えだ。
どこかにいる仲間に呼びかけているのか。近くに仲間がいるのか。
天に向かって吠えていた魔物がゆっくりと私に視線を合わせ直す。
一瞬、時間が止まった気がした。
本当にそれは一瞬で、魔物が爪を構える前にライナー様の剣が狼の胸を貫いた。
なんて言えばいいのか、一瞬だったような、ものすごく長かったような。私は特に何もしてないのに、なんだかどっと疲れた。
騎士様たちがてきぱきと後片付けというか、安否確認と事後処理を行っている。
お仕事だし慣れているんだろうな。
「ごめんな、怖かったろ?」
「ちょっとだけ。でも大丈夫です」
ずっとそばにいてくれた騎士様に返事をして胸を撫で下ろす。
確かに怖かった。本当にちょっとだけ。
それよりもあの魔物の遠吠えが耳に残って離れない。
あれは何だったのか。何を言っていたんだろう。魔物の言葉なんてわからないしそんな才能は無いはずなんだけど、あの魔物の言葉に聞き覚えがある気がする。
狼の遠吠えなんてどれも同じような物と言われたらその通りかもしれない。
それでも。
「エリセ、大丈夫だったかい?」
「はい。ちょっとびっくりしたけど、大丈夫です」
一度こちらに手を指し述べかけて、何かに気が付いたみたいにライナー様は手を引っ込めた。
確かに魔物の血とかで汚れてたわね。私は別に気にしないのに。
さっきまで魔物がいたところをもう一度見てみる。片付けてくれたみたいでもう何もなかった。
魔物はライナー様たちが倒してくれたし、これで終わりでいいのかな。ピーターやロバートおじ様も納得してくれる? いなくなった羊たちは戻らない。でもこれで家畜が襲われないはずよね。
私は何もできなかったけど、それは事実だし気にしない。私の役目は森の生き返りの案内だし。
もうすっかりお昼は過ぎている。終わったんだと思ったらなんだかお腹空いてきちゃった。
ライナー様の提案で少し休んで森を出る。
素敵、とは言い難いけど、ちょっとした冒険をしたみたい。ライナー様が村に来なかったらこんな経験できなかったと思う。
お仕事だから仕方ないとは言え、森を出て皆に魔物の説明とかしたら王都に帰っちゃうのかな。もうちょっと一緒に入れたらいいのに。
……まぁ口には出さないけどね! 私もう十四なので! そんな子供みたいなこと言わないのです!
教会に帰ったら皆にちょっと遅めのお昼をご飯作ろう。
大したものは作れないけど、料理で村のピンチを救ってくれた騎士様たちをねぎらうのだ!