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58.瘴気


 目の前に現れたのは黒い、どろどろとしたものだった。

 その黒い泥がぼたぼたと剥がれて落ち、動物の死骸が飲み込まれて行く。あまり気分のいい光景じゃなかった。あの泥は一体何なんだろう。とても嫌な感じがする。

 そして何より、その出来の悪い泥人形みたいなものの中から出てきた人物に、理解が追い付かなかった。


「お婆ちゃん?」


 返事はなかった。ぼたぼたと落ちて行く泥に呑まれた動物たちが、のそりと起き上がる。アンデットと呼ばれるものへと生まれ変わっていく。

 なんで、お婆ちゃんから剥がれ落ちた泥に飲み込まれた動物が、魔物に変わっているんだろう。なんでそんなものがお婆ちゃんにまとわりついているんだろう。


 まっすぐこちらを見ているはずなのに、どこか遠くを見ているような目をしている。きっとその目に、私が映ることはないんだろうと思った。

 だとしても、どうにかなってほしいわけじゃない。お婆ちゃんが何を考えているのかわからないけど、まだ話したことがある。教えてほしいことがある。

 受け止めきれなくて、受け入れたくなくて。まだ何か方法はあるんじゃないかって思ってしまう。例えばあの泥を全部剥がせば何か変わるんじゃないかって。そう願っても、私には何も出来ない。私には何の力もない。


「縛り付けなきゃ」


 お婆ちゃんの呟きに呼応して泥の中にいた動物がアンデットとして動き出す。

 騎士様たちが剣を抜いた。魔物と、戦うんだよね? お婆ちゃんが原因だとしても、何か方法が。


「これより、アンデットの殲滅と聖女ソフィリアの討伐を開始する」


 アレックス元帥の声が辺りに響いた。

 ダメなのか。もう、お婆ちゃんは助けられないのか。騎士様たちが各々の剣を振るって黒い泥から這い出して来たアンデットを次々に切っていく。アンデットの動きは緩慢で、でも騎士様が切るのと同じくらいどこからともなくアンデットが現れる。

 数が多い。どうなっているんだろう。まさか森中の動物がアンデットになってるの?


 知りたいと言ったのは私だった。知らないままでいるよりは、踏ん切りも付くだろうと言ってくれたのはアレックス元帥だった。きっとアレックス元帥は最初から全部わかっていたんだ。わかっていて、本当にいいのかと確認してくれた。

 多分、村に残っていたら納得できなかった。お婆ちゃんが、アンデットを生み出してるなんて信じられなかった。


「待ってろ、ソフィリア。今止めてやる」


 アスターおじ様が苦々し気に呟いた。アスターおじ様は、お婆ちゃんと一緒に旅をしていた。アレックス元帥とヴァイオレットもそうだけど、アスターおじ様は旅が終わった後も、度々村に足を運んでお婆ちゃんに会いに来ていた。

 アスターおじ様にとって、お婆ちゃんは大切な人だった。それはきっと、お婆ちゃんが勇者様に向けていたのと同じ想いだ。

 銃が抜かれた。耳慣れない音と共に火薬の匂いが広がる。魔物が倒れた。血の匂いがする。騎士様たちが、ライナー様が魔物と戦っている。


 幸いといっていいのかわからないけど、私の前ではヴァイオレットの犬が唸り声をあげて威嚇しているおかげで魔物が近寄って来ない。

 ヴァイオレットも少し離れたところでお婆ちゃんを見据えている。


 どろりとしたものがお婆ちゃんの足元で泥が次々に生まれてくる。

 嫌な感じがする。曇天の中でも澄んでいた精霊様の泉に黒い泥が流れ込み墨みたいに黒色が広がった。何でこんなことになっているんだろう。お婆ちゃんは聖女で、特別な聖なる力が仕えるはずなのに。今は全く逆のものをばらまいている。

 何で、とか。どうして、とか。答えてくれる人はいなくて。救いたいのに、そのための力も方法も思い付かなくて。ただ私は。


「お婆ちゃん」


 この声はきっと届かない。


「どこにも行かせない」


 かすれ声で、お婆ちゃんが呟いた。

 お婆ちゃんが何を考えているのかはわからない。何を望んだ結果こうなったのかも。譫言の様に吐き出されている言葉の意味も。私には理解できない。

 それでもただ私は!


「私、お婆ちゃんが好き」

「痛い、苦しい、憎い」

「あなたが私を愛していなくても」


 好きだった。大切だった。血の繋がりなんかなくても家族だって胸を張って言いたかった。

 でも、お婆ちゃんにとって私はそういうものじゃなかった。お婆ちゃんにとって私は娘なんかじゃなくて、だから私はいつだっていい子でいようとしてきた。本当は、なんとなくわかっていた。そうじゃないって思いたかった。

 好きな人に見てもらえないのって苦しいね。胸が痛くて、どうして私を見てくれないのって恨めしくなる。


「大好き」


 この声が届いてほしい。私はまだ、お婆ちゃんが好き。いなくなってほしくない。優しい、穏やかな目で私を見てほしかった。少し不器用な手つきで、また頭を撫でてほしかった。ただそばにいるだけで幸せだった。叶わなかったけど。

 お婆ちゃんは私を愛していない。多分きっとお婆ちゃんの好きな人は昔から変わらないんだろう。私はその人のことを何も知らないけど、きっと素敵な人だったんだろう。

 聖女としてたくさんの人を愛することを願われたお婆ちゃんの特別な人。ちょっとだけ恨めしいな。勇者ギルバートが。


 聖女として旅をして、この村に来て。精霊と話をしながら暮らして。

 何があったのか。何を想って過ごしていたのか。結局私にはわからない。何も教えてくれなかったって言うのもある。でも、私も。ちゃんとお婆ちゃんを見ようとしていなかった。

 アレックス元帥が剣を振るった。切られてよろめいたお婆ちゃんに、そのままアレックス元帥が剣を突き立てる。目を逸らしてはいけないと思った。これが、私が知りたかったことの結末だった。


「エリセ、下がりなさい」

「ここでいいです」


 ライナー様が傍に来る。気を使ってくれているんだろうとは思った。お婆ちゃんがその場に倒れ、魔物も、それに倣うように崩れていった。苦しかった。胸が詰まって、上手く息が吸えない。

 最後までお婆ちゃんとは目が合わなかったな。


「終わりにしよう」


 ヴァイオレットがそう言って歩き出した。それからお婆ちゃんの傍らにしゃがみ込み、ヴァイオレットが私を見つめた。

 なんとなく。ただ漠然と、お別れなんだなと思った。


「約束の地には行くな」

「約束?」

「大丈夫。お前はちゃんと幸せになれるよ」


 物語の終わりはいつだって呆気ない。まるで夢が覚める時みたいに。

 相変わらず私の理解できないことを言ってヴァイオレットが笑う。いつもの、からかうような笑顔ではなく、優しくて泣きたくなる様な笑顔。

 いやだな。でも、きっと聞き入れてはくれないんだろうな。


「なんたって誰よりも優しい男が幸せになってほしいと願った娘だからな」

「ヴァイオレットも、いなくなるの?」


 答えてはくれなかった。

 アスターおじ様が言っていた通りならヴァイオレットはもうずっと前に死んでいる。幽霊みたいなもの。幽霊が怪我をしたらどうなるんだろう。

 森で会うまでに随分と無理をしたみたいだった。さっきだって一人で歩くのもしんどそうだったから肩を貸していたわけだし。


「私が一緒に行くよ」


 そう言ってヴァイオレットはお婆ちゃんに笑いかけた。

 どんな、気持ちだったんだろう。一緒に旅をした仲間を置いて行った時も、今こうしてまた自分の意志でいなくなろうとしているのも。

 自分は納得しているのかもしれないけど、置いて行かれる方は堪ったものじゃない。きっとそう言うことがわからないんだ。だからヴァイオレットは平気でそんなことが言えるんだ。

 皆みんな、酷い人ばっかり。


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