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56.精霊の杜


 別に私は飛び切り頭がいいわけではない。

 誰もがうらやむ特別な力があるわけでも、誰にも言えない秘密があるわけでもない。剣が振るえるわけでも誰かに強く愛されているわけでもないなら、私には何があるんだろう。


 そんなことを考えながら進む精霊様の森はいつも私が見ていたものと同じなのに、なんとなく雰囲気が違う。

 道や風景は変わってないのに、いつもよりも薄暗くて重々しい感じがする。一歩進む度に気が重くなる。集中しなきゃな。

 二、三歩進む度に振り返りこちらを見上げる犬のような何かに少し安心を覚えている辺り、私もなんだか雰囲気に呑まれておかしくなっているのかもしれない。


 というか結局この犬は何なんだろう。

 形と動作が犬に似ているから犬と呼んでいるけど、実際にはこの動物が何なのか検討も付かない。動物、でいいのかな? 相変わらず動物と魔物の違いはよくわからない。魔道に落ちたものとか、悪い気を持っている物を魔物と呼ぶらしいが、この子はちょっと動作が犬すぎない?


 まず第一にこの犬は目がない。振り返って様子を確認する動作を繰り返しているけど本当に見えてるのかな。

 耳近くまで口が裂けてるのも気になる。でもそれ以外は普通の犬? みたいだし、この子と同じ耳がヴァイオレットにも付いてる。じゃあヴァイオレットと何か関係のある生き物なのよね?

 ……やっぱり、魔物なのかなぁ。ヴァイオレットも、この犬も。


 ヴァイオレットと合流した後もしばらく木々の間を進んでいくと、茂みの先で何かが反射した。

 精霊様の泉だ。木々の切れ間から広がる空は相変わらず曇天だけど、それでも微かな光を受けて水面が輝いている。


 ここにライナー様を案内するのは二回目だ。

 前は狼の魔物が出た時。森の中に逃げ込んだ魔物が見当たらず、精霊様に聞けばわかるかもしれないとここまで案内したんだった。

 あの時は動物もいなくて、何がどうなっているんだと考えている時に魔物が出てきたんだったか。


 今はどうだろう。

 泉の周りに動物はいる。いるけれど、皆ぐったりと地面に伏している。


「これは……」


 誰かが困惑気味に呟いた。顔をしかめたくなるのもわかる。あれは、多分死んでる。小鳥も、野兎も、シカだって。よくこの泉に水を飲みに来ていた生き物が、皆死んでる。

 村の周りにもたくさんの動物の死骸があったけど、森の中も合わせたら、いったいどれだけの命が失われたのだろう。

 今は動物たちで住んでいるけれど、これが人にまで及んだら? そう思うと急に怖くなった。


「一体ここで何が起こっているんだ」

「その答えを知ってるやつが来たぞ」


 ライナー様の疑問にヴァイオレットが正面を睨み付けながら返す。

 正面、には何もいない。それこそ、もう息を吹き返すことのない動物以外は。


 それでもヴァイオレットは視線を逸らさないし、私の前にいた犬みたいな何かもそちらを向いて低い唸り声を上げている。

 何かがそこにいる。私に見えない何か。もしかして、精霊様?

 ヴァイオレットも精霊様が見えるんだ。随分と不遜な言い方だったけど、ヴァイオレットは一体何を知っているんだろう。


「そんなものにはならない。ここで何が起きている?」

「答えろ。ソフィリアはどこにいる?」


 ヴァイオレットとライナー様が、恐らくそこにいるであろう精霊様に問いかけている。

 話している、というよりは随分と荒っぽい言い方をしているけれど、やっぱり二人も焦っているんだろうか。

 精霊様が見えるのはライナー様とヴァイオレットだけ。アスターおじ様とアレックス元帥たちも精霊様は見えていないみたいだし、精霊様がなんとおっしゃっているのかわからない。

 けれど、和やかな話し合いってわけではないのだけはわかった。


 ライナー様とヴァイオレットの表情が変わる。

 何か良くないことがあったのかな。


「聖女ソフィリアが望んだ、だと?」


 ライナー様もヴァイオレットもなんだか怒ってるみたい。やっぱり精霊様の回答があまり良くないものだったのかな。

 なんだかさっきから語気が強い。よくわかんないけど、良くないことが起こっていて、それを望んだのはお婆ちゃんなの? 可笑しくない? お婆ちゃんは聖女さまで皆の平和を願ってるんだよ? 誰かが傷ついたり苦しむことなんて願うわけがない。

 精霊様は一体何を言っているの? お婆ちゃんは今どこで何をしているの?


「聖女ソフィリアはどこだ」

「答えろ」


 ライナー様がはっきりとそう言った。

 まるで尋問みたいだ。ヴァイオレットはどこか冷静に見えたのに、ライナー様からは焦りや怒りで沸々とした熱が感じられる。


「待て!」

「捨て置け。どうせもう碌に話を聞かんだろう」


 掛け出そうとしたライナー様をヴァイオレットが止める。

 片方だけの言葉しか聞いていないけど、なんとなく不穏な空気なのだけはわかる。

 ヴァイオレットを見上げれば、大きくため息を吐いた。


「森の動物が死んでいるのも、アンデットが発生しているのも。ソフィリアが原因だ」

「望んだってそういうことを?」

「違う。でも結果的にこうなった」


 淡々としたらしくない口調で、ヴァイオレットが突き放すみたいに言う。なんで、どうして。皆の平和を願ってて、そのために頑張った人なのに。

 お婆ちゃんは何を望んだの? どうしてこんなことになっているの? 精霊様は何を知っているの?


「まぁとにかく。原因を排除すればこれ以上、アンデットは増殖しないだろうよ」

「ならやることは変わらないな」

「待って、待ってよ。排除って何? お婆ちゃんを、どうする気?」


 誰も、答えてくれなかった。

 ヴァイオレットは今起こっていることの原因はお婆ちゃんだって言った。アレックス元帥はやることは変わらないって言った。

 二人は、何を知っていて、何をしようとしているの?


「ねぇ、教えてよ」

「エリセ」

「ライナー様……」


 まるで押しとどめる様に、名前を呼ばれた。それ以上はいけないと言うように。

 ライナー様も、二人と同じ考えなんだろうか。ライナー様も、お婆ちゃんを。


「なんでこうなっちまうんだよ」


 アスターおじ様が、吐き捨てる様に呟いた。

 なんでお婆ちゃんをどうにかする方向で話が進んでるの? 何か他に方法はないの? なんでそんなに簡単に決められるの?

 助けを求める様に周囲を見渡しても、皆なんとも言えない難しい顔をしている。皆何も言わないのに、どうにもならないんだと突きつけられているような気がして。


 風が吹いた。ガサガサと乾いた木の葉が掠れる音がした。

 さっきまで大人しくしていた犬の様な何かが唸り声と共に一つ吠えた。


「来たな」


 アレックス元帥が呟きながら、緩慢な動作で腰の剣を抜く。

 何かがこちらにやってくる。黒い、どろどろとしたものだ。出来の悪い泥人形みたいな物が泉の前で止まった。それは、とても嫌な感じのするものなのに、同時にとてもよく知っている気がして。

 ゆっくりと泥が剥がれて落ちる。ぼたぼたと零れた泥に飲み込まれた動物の死骸が、のそりと起き上がり、アンデットと呼ばれるものへと生まれ変わっていく。


「お婆ちゃん?」


 嘘だと言って欲しかった。悪い夢を見てるんだって思いたかった。こういう時、人は知らなきゃよかったって思うのかな。

 泥の中から現れたよく知った人は、私の呼びかけには答えない。まだ何か、方法はあるんじゃないかって。あの泥を全部剥がせば、お婆ちゃんは助かるんじゃないかって。でも、皆の反応から私の声は届かないんだろうなってわかってしまって。

 きっともう、戻れないところまで来ていたんだ。


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