48.ぼたりと落ちた
ソフィリア視点
いつかこんな日が来るとわかっていた。
だからいけないことだと、きっと何もかも失われてしまうとわかり切っていたのに藁にも縋る思いで精霊を頼った。それが全部間違いだったけど。
あの時森に足を運ばなければ、何かが変わった?
いいえ。きっと、終わりが早くなっていただけに過ぎない。
その方が良かった?
わからない。だって私の中にその選択肢が最初からなかったんだもの。
エリセを手放すことも出来なかったのもそう。だってあの子はあの人と私を繋ぐ最後の繋がりだったから。
あの人を、ギルバートを繋ぎ留めたかった。もう会えない、どこでどうなったのかもわからない。
私とギルバートを繋ぐのは何も知らないヴァイオレットによく似た境遇のエリセだけで。
失うわけにはいかなかった。この子を傷付けて、ギルバートに嫌われることだけは避けたかった。
ギルバートとの繋がりを感じるにはエリセを守るしかなくて、でも何も知らず目に映るすべてに目を輝かせて知りたがる姿はどこかヴァイオレットを彷彿とさせて。
何度も押し殺そうとした、いつかの醜い感情が再び沸き立った。その度に体の芯が冷えて行くような気持ちなって、この気持ちを完全に殺して欲しいと何度も精霊に会いに行った。初めてエリセを連れて森に入った時にかけた加護をもう一度かけ直してほしいと。
そうすれば、きっと本来あるべき聖女としての振る舞いが出来る。エリセに対していわれのない悪感情を向けずに済むはずなの。
結局精霊はエリセに加護をかけ直してくれなかったけど
それでも私にはもう精霊しか縋る相手がいなかった。
他の誰にも、この胸の内を話すことなんで出来なかった。
本当に幸せになって欲しかった人を、私は救えなかった。彼の幸せを願えなかった。
私は聖女なんかじゃない。だからせめて、ギルバートが置いていったエリセだけでもと思っていたのに。
……嘘。本当は違う。私はただ、いつかもう一度あの人に会えた時、あの人に嫌われたくなかっただけ。私は、私が一番大事だっただけ。
ぐるぐると黒いものがお腹の中で渦巻いて、ぼたりと落ちた。
何が落ちたのか考える余裕はなかった。ただの黒いインクみたいな汚れが、酷く汚いもののように思えた。
「私だって何かしたいし、何かあるなら教えてほしいよ」
エリセが私に向かって言った言葉を何度も反芻する。
それは私が言いたかったセリフだった。ヴァイオレットに、ギルバートに。それを言えていれば何か変わったのか。
だとして、村の外に行きたがるエリセをどうして手放しに送り出せようか。もし何かの間違いで魔王が封印されている土地に踏み入れようものならこの子はヴァイオレットの様に。ダメなのに、違うとわかっているのに。いつの間にかエリセの中にヴァイオレットの面影を見ている。
ずるい人だった。なんでもない顔で笑って、いつの間にか皆の中心にいる人だった。なのに誰にも相談せずに勝手に決めて、勝手に死んだ。
あんな風に、皆のためだって振舞われたら何も言えなくなってしまう。
嫌いになれたらよかった。嫌いになれなかった。大切な仲間だった。もしヴァイオレットが生きていたら、私はどうしただろうか。
叶わないと思ってた。何よりずっとギルバートとわかり合っていた。ヴァイオレットは誰にだって優しかった。上手く言い表せない感情を向けていた私にも。
私よりもずっと自由で、私よりも聖女みたいな人。だから私は、ヴァイオレットが苦手だった。
どろどろと黒い感情に染まっていく。私の中にわずかに残っていたものが、反転していくのを感じる。
いつから戻れなくなっていたのか。そんなのきっと最初からだ。この気持ちに気が付かなければよかった。そうしたら何も知らずに笑っていられた。
こんな感情、あの子は知らなくていい。
「ねぇ、あなたはどうしたいの?」
「私のしたいこと」
「可哀そうな人間、私があなたの話を聞いてあげる」
「私は……」
精霊が私に問いかける。その顔は、とても慈愛に満ちているようには見えない。けれども、私にはその言葉が救いの様に思えた。
誰にも言えなかった。この黒く濁った胸の内を吐き出せば、私はたちまち存在意義を失う。聖女ではいられなくなる。聖なる力を完全に失ってしまう。それは許されない行為だった。
「エリセを、村に引き留める」
「どうして?」
「ギルバートに誓ったの」
エリセを普通の子として育てるって。きっと彼もそれを望んでいるだろうから。
魔王の受け皿として、復活した魔王をその身に下ろす存在として産み落とされたエリセに、その役目を遂げさせてはいけない。何も知らずに、ただ健やかに村の中で暮らしていけばいい。そうすれば誰も不幸にはならない。ヴァイオレットの様になることもない。
ヴァイオレットの様にならなければ、ギルバートにもう一度会えるかもしれない。
「なら、どこにも行けなくしてしまえばいいわ」
精霊がゆったりとした動作で笑った。
ああ、そうだ。そうすればいいんだ。なんて、納得してしまう。自分が可笑しくなっている自覚はある。けれどもう、踏み留まれるだけの理性もない。
「あら、少し遅かったわね」
上手く働かない頭の片隅で精霊が誰かと話しているのがわかった。
どろどろと胸の内から溢れ出る黒いものに揺蕩いながらぼんやりと考える。相手の声は聞こえない。聞こえないはずなのに、知っている声の気がした。誰だろう。多分、エリセではない。でももうなんだっていい。
考えるのをやめたら楽になった。もう聖女として厳格ぶらなくていい。ただ溢れ出した黒いものに包まれて、思うままに手を伸ばせばいい。そうしたら、掴めなかったものにも手が届くかもしれない。
伸ばした手の先で何かが落ちた。落ちた先より広がって、次々に広がっていく。本当はこれが初めてではない。少し前から、私の中のものは漏れ出していた。いけないとわかりながら気が付かないふりをしていただけ。
最初は虫だった。その次に鳥、そして小動物と広がっていく。小さな物から耐え切れず死んでいった。この手で掴めば、きっとエリセはどこにも行けない。魔王は生れ落ちない。誰も不幸にはならない。
「ふふふ、可愛いでしょう? とっても愚かで」
精霊が、まだ誰かと話している。
また私は、あの人の言葉を聞き逃したらしい。……あの人って誰? なんで後悔しているの? わからない。何か大切なことを忘れている気がする。
あの人が何を言っているのかも、あの時言った言葉も。私は自分のことでいっぱいいっぱいになって、何も聞いていなかったのかもしれない。
ただ好きだった。傍で笑っていたかった。それだけでは満足できなくなってしまった。
私が悪いの? 私が聖女じゃなかったら、もっと上手くやれたの? それとも最初から全部間違っていた? わからない。ただ羨ましくて、憎くて。でも、もうどうだってよかった。
どろどろした感情と反転した力が溢れ出してくる。それが世界に広がっていくのを感じながら、誰かを傷付けてしまうかもしれないと少しだけ思った。
ちくりと傷んだ胸に誰かの顔が思い浮かんだ。けれどその顔も黒いどろどろの中にかき消されてしまった。私は誰のために、何をしていたんだろう。誰を想って、こんなことになったんだろう。
一体誰の、隣にいたかったんだろう。
黒い泥の中に包まれながら、そんなことを考える。意識がだんだん溶けて行く。私が私でなくなる。誰かが私を呼ぶ声がした。
けれどもう、何も聞きたくない。
読んでいただきありがとうございました!
四部完結です。
次の章は一気に更新したいので、少しだけお待ちください。
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