36.菫に独白
ヴァイオレット視点
足元で喉を鳴らす仔たちを撫でてやりながら、どろりと意識を溶かす様に微睡む。
月日と言うのはかくも閑暇で、瞬きの間に過ぎ去ってしまう。時間の感覚など遠に失われたようなものではあるが、それでも他の悠久を生きる他の存在と比べれば時間の感覚には敏感な方だ。
ああ、懐かしい気配がゆっくりと離れていく。
私の知る存在とは違うのだろうけど、確かに懐かしい気配を宿していた。あの子の生きた証はきちんと息づいている。薔薇の様に凛とした少女だった。意志の強い瞳に、誰もが胸を弾ませるような笑顔が好ましかった。
今はどうしているのやら。あれから随分と時間が経ってしまった。孫も大きくなっているし、もう会うこともないのだろうけど、とても懐かしい気持ちになった。
同時にまともに実態を保っていない自分の体に、とっくの昔に人ではないものになったのだと今一度自覚させられる。
何度もくり返して短時間なら実態を保てるようになった身体は、気を抜けば簡単にブレる様に消え失せて不可視に成り下がる。
一度死んでいて幽霊のようなものなのだから、本来は不可視の存在であるの当たり前か。
それを歪める様に実態を保とうとして明滅しているみたいになるもの仕方ないのかもしれない。
一応気を付けてはいるし、今のところ消えるところをエリセに見られてはいない。ああ、でもあの騎士と共に森に入ってきた少年は気が付いていたかもしれないなぁ。
肺の中の空気を全部押し出すようにため息を吐けば足元で休んでいた仔たちが首をもたげた。
何でもないよ。休んでいなさい。
そう言い聞かせる様に撫でれば、彼ら、或いは彼女らは体を伸ばし各々自由な体勢を取る。本当に犬の様な仕草をするな。まぁ、はっきり犬ではないと言い切れる存在ではあるが。
黒く、ぬるりとした緑で、紅紫に光る体表。姿形は犬に近いものの、その口は耳まで裂けていて、眼球も無い。およそ生物にはあるまじき姿。
彼ら、或いは彼女らが何なのかと問われれば魔王の眷属であるとしか言いようがない。
何者でどういう性質を持っているのかはそれなりの時間をかけて把握してきたが、まともに引き継ぎもなく彼ら、或いは彼女らの主になってしまったのだから、そういう生き物として受け入れるより他なかった。
普段は私の影を通じてどこかに潜んでおり、呼べば現れる。まぁ、呼ばなくても気まぐれに現れて好きに過ごしているようだが。
犬に似た見た目ではあるがボール遊びなどは興味がなく、足は速い。後、とてもよく食べる。
私を始め、彼ら、或いは彼女らも基本的には食事をする必要はない。しかし食べられないわけではないので出されれば食べるという感じではある。
以前冗談交じりに魔物を指し「食べる?」と聞いたところ元気よく食べ始めたので以来機会があれば与えている。喜んでいるようなので何も言わないがあまり人に召せられた食事風景ではないことだけは確かだ。
それに食べている物が些かあれなので、偏食はないと言うべきか、偏食の極みと言うべきかは悩みどころだな。
この体になってすぐは悲観することもあったが、慣れというのは恐ろしいもので、今ではすっかりなんの違和感もなくなってしまった。
それが魔王の呪いであったのか、人間として一度死んだことで私の中の何かが変わってしまったのかは定かではない。
私はもう出奔した貴族の娘、ヴァイオレット・キスリングではなく。魔王ミゼーアの娘としてそのあり方を変質してしまっている。
もちろん。意志も自我もあるので、魔王を復活させようなどとは考えはない。
魔王にはこのまま、末永く封印の地で眠りについていてほしいものだな。
そのためにも私はもちろん、エリセも封印の地から遠ざけておかねばならない。あれは誰に似たのか素直な気質だから、近付くなと言っておけば従ってはくれるだろう。
ただ、そうだな。
気になるのはエリセにかけられた黒き森の加護だ。
あれは精霊なんて呼ばれているが本質は魔王と何ら変わらない。人間とは違う理の中にいて、人間とは違う感性で動いている。決して人の感性で推し量れる存在などではない。
今のところエリセではなく、ソフィリアや時々来るあの騎士の方に興味があるようだが、エリセがアレに唆されないことを願うばかりだ。
もう少し早くこの村にたどり着いていれば何かしらわかったのかもしれないが、私が彼女の存在を知ったのはギルバートの今際だった。
今更考えたってエリセにかけられた加護を剥がせるわけではないが、少しばかり後悔が残る。
ぼんやりと虚空を見つめながら、光の消え失せた瞳でエリセを頼まれた。見守ってやってほしいと。私と同じ道を辿らせたくないと。殆ど泣き言だった。
随分と人や世界に疲れていたはずなのに、それでも世界が、人間が好きな男だった。人を愛していた、信じていたかった、そんな人だからこそ、幸せになってほしかった。
置いていったのか、置いて行かれたのかもうわからない。けれど託された。先に彼らの元を去ったのは私なのに。深く考えるよりも先に、ソフィリアの元へ向かっていた。
けれど彼女には会えなかった。
ギルバートが託したはずの赤子に、黒き森の加護が与えられていたから。ソフィリアもアレの本性を知っているはずなのに、何故。
暫く様子を見てわかったのは、記憶にあるよりもずっとソフィリアの力が衰えていること。そして、黒き森が妙にソフィリアを気に入っていること。
力に衰退があるのは理解出来なくもない。魔王を倒して以来平和な時間が続いた。肉体の変化の止まった私とは違い、年齢的な衰えもあるのかもしれない。
けれど黒き森に気に入られているのはどうして。以前はギルバート以外には興味を示さなかったはずだ。それが何故。
何かを取引した?
嫌な感じがする。彼女が離れていた間に知らない人になってしまったような。中身がすげ変わってしまったような、そんな違和感。
ソフィリアは何を差し出して、何を得たのか。さすがにギルバートが残した子供を差し出すなんてことはしていないだろう。
だが、なんとなくソフィリアの前に姿を現すのは控えておいた方がいいと思った。何かあった時手を差し伸べられるように近く、それでいて下手に刺激しない様に離れたところで。
幸いにして意識しなければ実態を保てない体は、村の人間に見つからず隠れ住むには便利だった。
森に潜みソフィリアと赤子のエリセの様子を観察しながら日々を過ごす。
黒き森の加護を受けている以外はエリセに何もおかしなところはなく。ソフィリアもよくエリセの世話をし、毎朝黒き森と話をする日々が続いた。
黒き森との会話だって何もおかしくはない。前日あったことや村の様子をソフィリアが話し、黒き森が興味なさげに聞いて終わり。
エリセの名前も、ギルバートのことだって話題に上がらない。それはそれで違和感を覚えるが、ソフィリアも世界に役目を押し付けられた側なのだから、先にいなくなった私が今更に対して何か言えるわけがなく。
まぁそうやって人の道から外れた暮らしをしばらくの間続けていた。
時折迷い込んだ人間を黒き森が魔物に産み直すのを見つけては、それを犬のような彼、或いは彼女らに食べさせる。森から外へ出ない様に、ギルバートが愛した世界にまた魔物が溢れ出さない様にと言い聞かせて感覚を麻痺させていた。
それから何年たったか。
ある日森の中でまだ小さかったエリセが目を輝かせて私を見上げていた。まるで世界の綺麗なところしか知らないような子供。周囲の人間に大切に育てられ、自分自身も世界を愛し、信じているような、そんな瞳。エリセの中に
血縁などなければ、本人も覚えてすらないはずなのに、懐かしい、あの頃のギルバートを見た。久しく忘れていた感覚が蘇ってくる。その時のことは今でも鮮明に覚えている。
ああ、私はこの子を。
三部完結しました。
この辺りから何かが色々動き出しそうな感じですので、また少し書き溜めが進んだら四章として更新再開していくつもりです。
読んでいただきありがとうございました!
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