22.騎士と幽霊
ライナー視点
エリセを背中に庇い向きなおった森にいたのは黒い靄だった。
塊の端から霧散していくそれは一応人型の範囲にはいるものの、決して人であるとは言い難く。水の中にインクを垂らしたように形を変えながらもこちらを見ている。
いや、顔と呼べる部分に目など見当たらず本当にこちらを見ているのかもわからないが。
エリセの話を聞いて人間が森に潜んでいるのかと思ったが、人は人でもゴーストの類とは。いや、この場合は幽霊か。
害意があるか否かもわからない。見た目はおろか実態すらあるかも定かでない靄にただ漠然と女だと思った。
『──て』
女が、何かを言った。
本当にその靄によって発せられた音なのかも怪しいが風や木の葉のすれる音ではないのは確かだ。俺はその女の声として認識しているが、果たしてそこに口はあるのか。
何を言っているのか聞き取れないが、女が音を発する度に靄の輪郭が崩れていくのがわかる。形を保てないのか、そういうものなのか。
靄の正体について何もわからないが、あれが何かを伝えたがっているのだけはわかった。
ざわざわと、遠くの方で草木が揺れる。教会の中から微かに聞こえる談笑。雫が落ちて井戸に波紋が広がる音がする。
それらをかき分けて、すでに人かどうかも怪しくなっている靄の女の声に耳を澄ます。
『──して』
繰り返すように、声が聞こえる。いや、掠れていて本当に同じ音を発しているのかも怪しいが、靄の女はやはり何かを伝えたいらしい。
『して』とは。その前に何が付くかはわからないが、とにかく何か要求があるのなら話を聞くくらいはしよう。期待に添えられるかは不明だが。
「何が言いたい」
『大切な物──』
やっと聞き取れた言葉は先ほどとは違うもの。
『大切な物』というのだから先ほどの言葉に付くのは『探して』、あるいは『返して』と言った単語か。人の形も満足に取れなくなっても取り戻したいとは、よほど大切な物なのだろう。
先月来た時に姿を現さなかったのは、たまたまか。それともこの靄も最近この村に来たのか。ああ、そういえば村に幽霊が出ると噂が回り始めたのはここ最近と言っていたな。
「大切な物……?」
しかしその大切な物とやらはなんだ。何かわからないことには探そうにも探しようがない。
そう、思ったのだが。その靄の女は俺ではなく、その後ろに視線を向けているような気がした。後ろを意識して一瞬背後に庇ったエリセのことが頭に過ったが、それよりも後ろだと思った。
目が無い相手の視線を感じるのもおかしな話だが、実際に教会を見ているような気がしたのだから仕方ない。
教会、教会か。俺が知る限りで、この靄の女が求めそうな物問言えば、聖女ソフィリアが拾った指輪くらいか。
神聖な場所でもある。祈りや救いを求めて、という線も捨て切れないが物と言っている辺り指輪で間違いないと思う。
「それは指輪か?」
靄が、ピクリと反応した。どうやら当たりのようだ。
しかしまぁ、不定形の存在がどうして固形物を探しているのかや、返したとしてどうやって持って帰るかがいささか気になるのだが、あまり深く考える必要もないか。
幽霊や精霊なんて普通は人様に見えないものが見えてしまっている以上、おかしいのは自分自身と疑ってかかる方がいくらか健全だ。
「エリセ。さっき言っていた指輪は今どこにある?」
「えと、多分お婆ちゃんが保管してると思います」
なら、すぐに返せるな。今のところ何かをしてくる様子はないが、害のあるものではないとも判断できない。激昂して襲い掛かって来ないとは言い切れないのだし、大人しく要求を呑んで退散してもらおう。
本来、人が見ることのないものに関わると碌な目にあわない。それが幽霊もどきであっても精霊であってもだ。
俺自身も片足を突っ込んでいる気がしなくもないが、望み好んでかかわっているわけでもないので勘弁願いたいな。
「では聖女ソフィリアを」
エリセを退散させるためにも声をかけたところで、扉が開く音がした。
靄がいる手前振り返ってはいないが、教会の勝手口を誰かが開けたのだろう。次いで老齢の、聖女ソフィリアの声がする。
「探し物はこれかい?」
「お婆ちゃん」
どういうわけか事情を察している聖女ソフィリアはつかつかと幽霊に歩み寄って何かを差し出した。例の指輪だろうか。
一瞬止めようかと思ったが、彼女には彼女の考えがあるのだろうと、持ち上げかけた腕を下ろす。
冷静に考えなくとも、こういった迷える魂の相手は教会に仕えている聖女ソフィリアの方が慣れているのだろう。幽霊の相手は、その限りではないのかもしれないが。
「遠いところまでよく来たね、随分疲れただろう」
聖女ソフィリアの穏やかな声に反応するように、靄は形を変える。人の形に見えなくもないが、先ほどよりかは幾分ましなだけでやはり人とは言い難い。
靄が、聖女ソフィリアの差し出した指輪を受け取る。そしてそのまま、聖女ソフィリアの手を重ねた。その行為が何を意味するのかはわからないが、少なくとも害意はないのだろうと判断する。
「もうそろそろゆっくりお休み」
労わりと慰め。聖女とは慈愛に満ちているらしい。
世間一般ではそういうものと認識され彼女も、そういう一面を持っているのかもしれない。たとえ何かをひた隠しにしていても。
聖女ソフィリアが、靄に触れたままゆっくりと口を開く。
「主よ、天にまします我らが父よ」
祝詞、だろうか。
生憎教会の教えについて詳しくはないので、これがそうなのかはわからないが確かに神聖な物の様に聞こえた。
「我らの罪過、罪穢れ。等しく裁き、赦し給え。罪深き我らをどうか、お導きください」
その祝詞に呼応するように柔らかな光が現れ靄をはがしていく。ボロボロと崩れ去った先にいたのは一人の女性だった。
以前見た彼女の力は魔を払うための物であったが、本来人々が想像する聖女の力はこういった救いの力なのかもしれない。
困惑したような、安心したような、けれどどこか不安げな表情をした女が、聖女の祝詞を聞きながら視線を後方へと巡らせた。
「そこに何かあるのかい?」
聖女ソフィリアの問いかけに女は一瞬躊躇う様子を見せたが、すぐに視線を戻して小さく頷いた。
ゆっくりと、今度は確かな言葉で女が話す。
『私の光。大切な、息子なの……』
「ああそうかい。こちらで預かっておこう」
今度こそ、安心したように女が笑った。
「遥か先で、見守っておやり」
柔らかい光が女を包み込む。まとわりついていた靄と同じように、形が崩れやがて消えて行ってしまった。いやな感じはしない。彼女は、本来行くべき場所に向かったのだろうか。
風が吹いて、空へと舞い上がる。
「騎士殿、そこの茂みへ」
「わかりました」
聖女様に従ってあまり手入れもされていない茂みをかき分ければ、消えた女の言う通り子供がいた。
息はしているものの、意識のないその子供は抱えてみると酷く軽い。苦労、という言葉で片付けていいのか悩ましい程度には随分とまともな暮らしが出来ていなかったのだろう
一先ず保護しようと振り返ればこちらを見てエリセが驚いた顔をしていた。まぁ、彼女からすればそれが当然の反応か。
「と、り合えず……私、お湯沸かしてタオル取ってくるね」
精霊が見えないと言っていたが、彼女はあの幽霊は見えていたのだろうか? 先ほどの会話に全く口を挟まなかった辺り見えていなかった様に思うが。
それでも、何が起こっていたのかもわからないだろうに、ああして動けるのは人の良さか、世話好きなだけなのか。
慌てて教会に戻って行くエリセを見送って茂みから這い出す。
「騎士殿、部屋へ運んでもらえますか?」
「わかりました」
促されるままに教会の一室に抱えた少年を寝かせる。呼吸はしているし、そのうち目を覚ますだろうが……さて、どうしたものか。
あの靄の女はこの子を息子と言っていた。それが事実であるなら、この子の知らぬ間に親と引き離してしまったことになるが、なんと説明すべきか。
「形見、ですか」
「おそらくは」
静かに寝息を立てる少年を傍目に聖女が指輪をサイドチェストの上に置く。
エリセは、聖女がこの指輪を森で拾ったのではないかと言っていた。その話が正しいのなら、この少年はしばらくの間森の中を彷徨い指輪を探していたのだろう。
ここ最近は村に幽霊が出ると噂になっていたらしい。きっとこの子の姿を見た人が見慣れぬ人影に幽霊と勘違いしたのが、噂の真相といったところか。
どういった経緯で噂が広がったのか知らないが、今回はそれが災いしてしまったようで。少年も森から出るに出れなくなってしまったのかもしれない。
他に何か理由があったとして、俺が知る術もないが。
まぁなんにせよだ。一先ずはこの子を無事保護出来てよかったとしよう。




