1.風の導き
万事塞翁が馬。
人生はいつ何が起こるか分からない。
昨日まで土砂降りだった雨が嘘のように晴れたり、朝食にと割った卵がふたごだったり、外に干したシーツが突然踊るように飛んでいったり。
良いことであれ悪いことであれ、未来を予期出来ないことこそ人生の醍醐味だと笑う人もいれば、まるで博打だと嘆く人もいる。
山に囲まれた田舎の僻地で領主の娘として忙しい毎日を送っているサフィアは、どちらかと言うと前者の方だった。
今まさに、風に乗って踊るように飛んでいってしまったシーツを良い運動になると笑いながら走って追いかけてしまう、令嬢らしからぬ令嬢である。
しかし、そんなサフィアでも目の前で起きている事態は流石に笑って済ますことはできなかった。
「だ、大丈夫?」
だってまさか、シーツが飛んでいった先に誰かが倒れているとは思いもしなかったのだ。
まるでサフィアを導くかのように、ふわりふわりと飛んでいくシーツを追いかけてたどり着いたのはボロボロの農作業小屋。その前に蹲るように倒れているその人は、所々破けた黒いマントに包まっていた。
「あの、大丈夫ですか?」
側に膝をついて、背中を揺すりながら問い掛けても返事は無い。
そもそも、生きているのだろうか。
呼吸をしているか確認しようと恐る恐るフードをずらすと、思わず「あっ」と声が漏れた。
輪郭は人の形をしているのに、その顔の殆どは黒い鱗で覆われている。見る人によっては悲鳴を上げかねない異形ともいえる姿だが、サフィアには太陽の光を反射してキラキラと輝く様がとても美しく見えた。
「うわぁ!すごい!きれい……!」
目を輝かせてしばし見惚れていたけれど、急かすように髪を撫でた風を合図に慌ててその口元に耳を寄せる。微かに聞こえるのは呼吸の音。どうやら事切れているわけでは無いらしい。ホッと胸を撫で下ろそうとして、手を止めた。フードの隙間、首元から見える白いシャツの襟が赤く染まっている。
「……怪我してるのかな」
このまま放っておけば本当に死んでしまうかもしれない。ならば助けなくては。
サフィアは腕まくりをして気合いを入れると、横抱きするように背中と膝裏に腕を通した。体格からしてこの倒れている人は男性だろう。女手一つで運べるのか不安が過ったけれど、気合いがあれば何とかなる、と両腕と両足に力を込めた。
「よいしょい!」
とても令嬢とは思えない気合いの一言と共に立ち上がる。重いことを想定していたのに、実際は綿毛のように軽かった。
運良く下から吹き上げるつむじ風のお陰かもしれない。
さらにその風は屋敷の中に入っても吹き続け、男をベッドに寝かせるまで支えてくれた。
サフィアは不思議なこともあるものだな、と軽く思っているが、実際のところその風は精霊によるものであることを彼女は知らない。
何せ精霊の姿は見えないものなので。
そもそも精霊が実際に存在することすらサフィアは知らない。物語の中の存在でしか、知らないのだ。
そんな不思議な存在に全く勘付くこともなく、サフィアは拾った男性の怪我の程度を確認しようと、マントを外した。マントの下は白いシャツと黒いズボンというシンプルな服装だったが、どちらも良く見ると細やかな美しい刺繍がされていて上質なものだ。
「ちょっと失礼します」
返事はないけれど、一応一言断りを入れてからシャツのボタンを外す。未婚の令嬢がどこの誰かも分からない男の服を脱がすなど、はしたないことこの上無いがそれを咎める者は居ない。
露わになった身体も宝石のように輝く黒い鱗で覆われていて、よく見れば所々逆剥けていたり、小さな擦り傷や切り傷があった。まずは身体を拭いて清潔にした方が良い。お湯と綺麗なタオル、それと軟膏が必要だ。
寒くないよう布団を掛けて、寝室を後にしようと歩き出した途端、爪先に何かがカツン当たった。
コロコロと転がって、やがて止まったそれを拾い上げる。
吸い込まれそうなほど黒く、しかし美しく輝く石のついた小さなブローチだ。
「黒曜石かな。素敵」
良く見ると三角形の細やかな彫り細工が施されている。これ程上質な宝石をサフィアは持ったことも見たこともない。これはベッドで眠る彼のものだろう。寝室へ運ぶときに落ちたのかもしれない。
何かの拍子で失くしたら大変だから、怪我の手当が終わって目を覚ましたら返そうと、真白なハンカチに包んで前掛けのポケットにしまった。そういえば纏っていたマントもボロボロだったから、直した方が良いだろう。必要なものに裁縫道具が加わる。
「さぁ、急がなくちゃ」
誰に言うわけでもなくそっと呟いて、今度こそ寝室を後にした。