0話 かくして佐藤歩は死んだ。
佐藤歩はさも平凡な会社員であった。
毎朝6時に起床し、起き抜けの重い瞼をこすりながら値引きされた消費期限間近の食パンを放り込み、勤労万歳の世を憂いつつ六畳一間の愛しき万年床を後にする。
自宅から徒歩15分の最寄り駅より7時30分発の快速急行に押し込まれ、10日前に機種変更をしたスマートフォンで登録した転職サイトを斜め見。完全週休二日の未経験者歓迎の異業種に転職をした将来を夢想しつつため息を吐く。働き始めて10年。これがいつもの、佐藤歩の朝のルーチンである。
過去に努力を怠り、学友達がやれ受験だ就職活動だに勤しむのを横目にオンラインゲームだのトレーニングカードゲームだのアニメだのに没頭し、面倒事から逃避し続けていった結果、大学中退資格なしという有様で。
「未経験者歓迎!若手活躍中のアットホームな職場です!」という凡そまともな倫理観を持ち合わせている諸兄ならば嫌厭するであろう求人に飛びついた結果、週に1度全休があれば御の字、終電に間に合えば奇跡。近くの漫画喫茶で一年の4分の1程度を過ごしているといった状況であった。
(…なんのための人生だろう。雀の涙ほどの給料で貯金も多くない。理不尽に怒鳴られ、あと40年近くずっとこの、縛られた生活なのだろうか。逃げ続けた人生の負債とはいえあんまりじゃないか。)
揺れる車両の中、優先席で目の間に座る、頭の悪そうな大学生にふと視線を向ける。頭に乗ったヘッドフォンからはズンズンと音が漏れている。
(…こんなやつでも、途中で逃げた俺と違って立派に大学生をやっているんだろう。こんな周りを鑑みないような輩以下だとレッテルを貼られている気がして泣けてくる…)
いつもの思考の堂々巡りである。
SNSやインターネット掲示板で揶揄されるような年下のお調子者にさえ劣等感を覚え、正義の鉄槌を想像しても実行には移すこともできない自身の矮小さを自覚し、人格を否定されたような気分になり憂鬱となる。
と、ここまでがいつもの佐藤歩であった。
思えば今日は朝起きてから散々だった。
前日久しぶりに自宅に帰ってテンションが上がり、翌日が仕事だというのに浴びるように酒を飲んだことが祟り、携帯のアラームを設定するのを失念した。いつもの起床時間の30分後に目が覚め、「憂鬱な仕事にも気持ちが明るくなるように!」と衝動買いした派手な硬めのネクタイが上手く決まらず放り投げ、鞄をひっつかんで急いで部屋を出たがその勢いでアパートの共用階段から滑り落ちた。
そんな背景があり、目の前の学生の、大きく開いている股を閉じればもう一人座れるだろう、尊大そうな様子が酷く癇に障った。
「…ッ、あ、あのさ!!」
我ながら大きな声が出たものだとそう思った。最初こそ萎縮し、喉の奥が締め付けられる様でつっかえはしたが声が抜けてしまえばあとは簡単だとそう思えた。この時間どうせ急いだところで遅刻であるならば大きなことを成してみればいい。どうせどう言い訳をしたところであの嫌味な課長のお説教は確定しているのだし、ここで不慮を成敗したという武勇伝を立て、自尊心を回復させ、その勢いのまま退職の意思を伝えてやろうではないか。
そう考えながら男の反応を待つ。
怪訝そうにこちらを一瞥し、そして手元のスマートフォンに再度目を落とした。
あんまりではないか。なけなしの勇気を振り絞り、諸兄が普段は見てみぬ振りをする悪漢に立ち向かった結果、歯牙にもかけられない。
プチッ。
そんな音がどこかで聞こえた気がした。
「お前ッ!無視す、ふな…ァ!」
吊り革から手を離し、掴みかかろうとした時。
ぐるん、と。世界が回った。
(あ?あれ?なんだ…?)
遠くで甲高い女性の悲鳴が聞こえる。
頬に触れている硬質な質感と、規則正しい振動。
(眠い、痛い、なんだこれ…力が入らねぇ…)
誰かが押したらしい非常ボタンの警報音が鳴り響く。
(…あれ、これ不味いのか?)
「大丈夫ですか!?大丈夫ですか?!しっかりしてくださいッ」
強く身体を揺さぶられる。
意識が朦朧としている時にそんなことをされて大丈夫なのだろうか、そんなことを考える。
「…え、ヤバくない?」「誰か救急車とか呼んだほうが良くね?」「頭めっちゃ打ってたっしょ…」
そんな騒然としている車内の様子で悟る。
あの時聞こえた音は自分の中の何か、大事な部分の血管か何かが切れた音だったらしいことを理解した。
普段の過労が祟ったのか、それとも常飲しているエナジードリンクをいつもの2倍飲んだのがいけなかったのか。
ともあれ。
仕事が終わり泥のように眠る時の如く意識を手放しながら。
(ああ、やっと…開放される…)
(次、が、あ、れば…も、もっと…)
(自由に、上手く、い、生きよう…)
佐藤歩は死んだ。