前世の記憶を消す薬
扉をノックする音が聞こえて、リリスは目が覚めた。
周囲は薄暗く、埃っぽい匂いが漂っていた。身を起こそうとすると体中が痛い。リリスは本棚に背を預けて眠っていたことを思い出した。
足下にはランプと開いてある魔導書が広がっていた。読んでいたのに、睡魔に負けて途中で眠ってしまっていたのだった。
リリスは今、屋敷の地下にある書庫にいた。この書庫にはリリスや師匠のフリージアが集めた貴重な魔導書がたくさん納められている。その迷路のように敷き詰められた本棚と本棚の間にリリスは丸くなっていた。
コンコン、コンコン、と書庫の扉を叩く音が続く。
「おい、生きてるか魔女」
扉の向こうから聞こえてきた声は、少年のものだった。一瞬、夢の続きかとビクリとしたが、彼の名前はシオンだとリリスは思い出す。
「朝食の準備が出来たからそろそろ出てきてくれって。ミモザさんが」
彼の言葉から、外は朝なのだと理解した。書庫は本の劣化を防ぐため日の光が入ってこないようにしているから、窓がないのだ。
「……悪いがいつものように、扉の前に置いてくれ。後で食べる」
「そう言われ続けて、もう一週間経っているんだけど」
リリスが答えると、扉の向こうのシオンはムッとしたようだった。
「俺の前世の記憶を消す魔法、まだ見つからないのかよ。銀の魔女とかこの国一番の魔法使いとか言われている割に大したことなかったんだな」
扉の向こうの子どもは、わざとこちらに対して煽っているようだった。が、リリスは頓着しなかった。
「ああ、そうさ、君の言うとおり私は大した人間ではない。……前世の記憶は魂に刻まれていると言われていて、魂の運用は女神の管轄。人はそれをいじる術をまだ確立していないんだ。君本人が体験した記憶なら、頭に電気でも流せば吹っ飛ばせるかもしれないけど」
「………」
リリスは読みかけの本の頁をめくりながら答えた。
彼女が勇者の生まれ変わり――シオンを落札し、屋敷に連れ帰ってから一週間。
シオンの願いである「前世の記憶を消す」手がかりを探して、リリスは書庫に閉じこもる毎日を送っていた。
彼に言ったとおり、リリスは前世の記憶を消す術など知らなかった。
そもそも前世の記憶を持つ人間という存在自体が希少だ。前世の記憶と力を引き継いで転生させるのは、女神の奇跡だと言われている。
それを自分の身で再現したいと苦心する魔法使いはいても、前世の記憶を忘れたいという話はリリスが知っている限りでは無かった。
記憶を封印する術、薬はあるにはあるが、シオンが思い出した前世の記憶というものは断片的で、思い出してもいない記憶を消すというのは無理な話だ。
「じゃあ、やっぱり無理なのか…?」
「君は前世の記憶を消すことで勇者の生まれ変わりであることを辞め、紋章と力が目覚める前の日常に戻りたいんだろう? 無理かどうかは私が決めることだ。私は君と契約したのだから」
リリスは本を閉じて、本棚に戻した。
「私は君の願いを叶える。その代わり、君は対価として労働力を提供する。忘れてはいないだろうな」
「当たり前だろ。だからこうしてお前を呼びに来てるんだろうが」
彼に「前世の記憶を消して欲しい」と懇願されたとき、リリスはシオンと契約という形で受諾した。リリスは願いを叶える代わりに、シオンに対価を求めた。
それは労働力だ。シオンはその身一つしか持っていなかったから、それしか支払うモノが無かったと言っていい。だからこの屋敷で働けとリリスは命じた。
ただそれは表面的な理由に近かった。彼は帰る場所が無い。この屋敷に住まわすための、リリス自身が納得できる理由が欲しかったのだ。
「私が君に支払った金額と同じ分の働きを期待している。わかるか? 二億だ。二億。理解しているのなら扉の前で油を売るな。さっさと行け」
「そうはいかねえよ。扉の前に置いたメシ、食べ忘れてるときもあるだろ。ミモザさんが心配してるんだよ」
「……」
シオンの世話、もとい屋敷の仕事の教育はミモザに一任した。ほとんど丸投げと言ってもいい。二人は上手くいっているようで、シオンはミモザのことをいつの間にか「さん」付けで呼ぶようになっていた。
対して自分のことは「魔女」呼ばわりだ。
誰が二億出したと思っているんだ、と内心ぼやきつつも、ご飯をくれる人間に懐くのは当たり前か…とリリスは諦めた。
「だから、いい加減、出てきやがれってんだ…!」
ドンドンと扉を乱暴に叩く音、そして取っ手を力任せに引っ張っているのか、ガタガタと扉が揺れる音がした。
「無理だよ。その扉は魔法をかけてあるから、君が体当たりしたところで開かないよ」
そう言いながら、リリスは最近、食事の記憶がおぼろげなことに気がついた。昨日何を食べたか、それとも食事自体をしたかさえ思い出せない。
書庫にこもり、本を読みあさることに夢中で食事が面倒くさくなっていたからだ。
いや、それはただの建前だとリリスは、自嘲する。
前世の記憶を消す手がかりを探す…という名目でリリスは書庫に引きこもっていたが、本当はどう顔を合わせたらいいかわからなかったからだ。
アスターの生まれ変わりである、シオンと。
ルドから勇者の生まれ変わりの話を聴き、自分がどうしたいのかわからずにオークションに行った。そして勢いのまま落札し、屋敷に連れ帰ってきてしまった。
どうしたいのか答えを見つけられないまま、ずるずる先送りにしたせいで、未だにどう向き合えばいいのかわからないままでいる。だからリリスは引きこもってしまった。
そのとき、ドンとひときわ大きな音が響いたかと思ったら、空気の流れが変わり埃が舞い上がった。
「―――え?」
「なんだよ、開いたじゃねえか!」
パタパタと靴音が書庫の中を駆け回っている。侵入者のせいで、静まりかえっていた空気がかき乱れていた。
リリスは呆然とした。
彼が勇者の力で魔法をかけた扉を壊したという応えにたどり着くまで、時間が掛かった。
それに何より、リリスは既視感を覚えていた。こんなことが昔無かったか? いや、ついさっき見ていなかったか…?
「見つけた!」
本棚と本棚の間の隙間から、小さな影がこちらに向かってズンズンとやってきた。
「ミモザさん! 連れてきたよ!」
「痛い! 引っ張らなくてもちゃんと歩くから手を離せ!」
ぐいぐいと腕を引っ張られながら、リリスはリビングに連れてこられた。
暖炉に火が比べられて暖かくなっている室内、テーブルの上には朝食が並べられており、おいしそうな匂いにリリスは久しぶりに空腹を思い出す。
「まあまあリリスさま…!」
ミモザが目を丸くして、こちらに駆け寄ってきた。
「シオン坊ちゃん、ダメでしょう。リリスさまの邪魔をしては」
「……いいんだ、ミモザ。そろそろ書庫から出ようと思っていたところだから」
シオンを叱ろうとするミモザを、リリスは止めた。キリッとした瞳が今度は自分に向けられることになった。
「今日という今日は言わせていただきますよ。昔からリリスさまは何かに夢中になると時間や寝食を忘れる癖があること、ミモザはちゃんとわかっています。しかしご飯と睡眠はちゃんと取っていただかないと、お体に悪いです!」
「うん。ごめん、心配させてしまって。……朝食にしようか。久しぶりにミモザと一緒に食べたいな」
リリスがそう言うと、ミモザは微笑んだ。
「……それで何かわかりましたの?」
リリスが食後の紅茶を飲み干し一息ついたのを見計らって、ミモザが話を切り出してきた。
「まあね、師匠が集めた文献を手当たり次第ひっくり返して、一つ気になる伝説を見つけた」
「なんだよ、気になる伝説って」
シオンが身を乗り出した。
彼は伸びてボサボサになった髪をミモザに切られたようで、さっぱりと短くなっていた。長い前髪も整えられて、青い瞳がきちんと見えるようになっている。
「この世界が女神によって生み出されたばかりの、創世記に近い頃の話だよ。まだ女神は生き物を作り出すことに忙しく、世界の仕組みがまだ整っていない頃の物語だ。死者の魂は女神の元に戻らず地上に留まり、とある人間の娘によって管理されていた。その娘が管理していた魂の収容所は冥府と呼ばれていた」
「なんだそれ、聴いたことない」
「魔王が侵攻しにやってくるよりも、遙かに昔の話だからね。人々に忘れられた伝説だ。私も知るのは初めてだったよ」
リリスは伝説の内容を思い出す。
「その娘は特異な力を持っていて、歌によって死者の魂を眠らせる力を持っていた。だから女神によって魂の管理を任されていたわけだが、ある日、娘は死んでしまった。後任の適任者が中々現れず、死者たちは眠らなくなってしまった。そこで女神は娘を転生させることで魂の管理を続けさせようとした」
「転生…。生まれ変わらせたってことか?」
そうだろうな、とリリスは頷いた。
「だが、自分が死んでいる間に恋人を失ってしまったことを知った娘は、仕事を放棄し恋人の魂を探しに冥府を解放してしまったのだ。地上は亡霊たちによって埋め尽くされた。この状況に立ち上がったのは妖精王だった」
「ようせいおう」
「ああ。妖精の一族の長だよ。彼は恋人に会えずにさまよう娘に近づき、彼女の悲しみを聴き、霊薬を飲ませて記憶を忘れさせた。そうして前世の記憶を忘れた彼女の歌によって死者の魂は眠りにつき、冥府に収容され元通りに戻った。この一件があり人間に魂を扱わせることの危険性を理解した女神は、自分の手で魂の管理をするようになった…と文献には書かれていた」
リリスはあくびをかみ殺した。
「しかし骨が折れたよ。古代文字で書かれていたからね。訳するのに時間がかかった」
ミモザが空になったカップに紅茶を注ぎ入れてくれた。ちょうど口が渇いたリリスは礼を言うと、口に含んだ。
「じゃあ、その霊薬ってヤツを飲めば前世の記憶を消せるんだな! 作り方は?」
「さあ。そこまでは書いてなかったな」
リリスが答えると、シオンはがっくりと肩を落とした。
「やっぱり。それ創作話だよ。妖精なんているわけないじゃん」
「あら、いますよ。妖精さんは。ヒトの前には姿を見せないだけですわ」
口を挟んだミモザがにっこりと微笑むと、シオンはぽかんと口を開けた。
「リリスさま、あとは本人に会いに行き、直接お話を聴いてみたらどうでしょう」
「そうだな。やっぱりそれが一番か…」
リリスは同意したが、いまいち気が乗らなかった。
「ちょっと待てよ!」
話についていけていなかったシオンが、注目して欲しかったのか机を叩いた。
「妖精って本当にいるのか? というかその口ぶりだと、妖精王って知り合いみたいに聞こえるけど!」
「そうだよ。妖精は実在するし、妖精王も知っている」
「妖精ってちっこい体に虫みたいな羽のついているヤツ…?」
「ああ。妖精はかつての妖精郷が魔獣の瘴気で汚されて故郷を追われ、さらに近年の工業化が原因で彼らの生活圏は減っているけれど、それでもまだ澄んだ空気とマナが満ちた場所に彼らは生きている」
シオンの瞳がキラキラと輝きだした。
「すげえ。見てみたい…!」
「でしたら、シオン坊ちゃんも賢者さまにお会いしますか?」
「賢者?」
「ええ。妖精王さまは今は私の故郷で暮らしておりますの。我々が王さまとお呼びするとウサギたちの王になったつもりは毛頭無いと言われましてね。なので我々に知恵を授けてくれる賢者さまとお呼びしているのです」
「ミモザさんの故郷って…」
「我々、ロップ族といいますの。私と同じような姿の獣人がたくさんいる田舎ですわ。ヒトに見つからない山間にありますから、うんと遠いですけどリリスさまの魔法なら一瞬で行けますよ」
ますます目を輝かせるシオンを横目に、リリスは小声でミモザに問いかけた。
「ミモザ。いいのか? 人間を連れて行って」
「リリスさまと一緒なら皆、悪い子じゃないって歓迎してくれますよ。それに…」
ちらりとミモザはシオンを見つめる。
「シオン坊ちゃん、外に出ていないからストレスが溜まっているみたいです。息抜きが必要ですよ」
ミモザは、リリスが書庫で引きこもっている間シオンをずっと見てきた。彼女は彼女なりにシオンを案じているのだろう。
「まずはシャワーを浴びてからでいいかな。ずっと書庫にいたから埃っぽくて。その間に出かける準備をしておいてくれ。……君もだ、シオン」
リリスがシオンに対してそう言うと、彼は嬉しそうに拳を握った。