霊薬の完成
「……完成だ」
リリスは透明な小瓶の中に入っている液体をまじまじと見つめた。
小瓶は手のひらにすっぽりと収まるほどの、小さなものだ。その中に入っているのは、無色透明の液体。匂いもしない。知らずに飲んでも水と大差ないだろう。
しかし中に入っている液体は、妖精たちの秘術の結晶、前世の記憶を封印する霊薬である。
これをシオンに飲ましたら、彼は前世の記憶を忘れ、思い出すことはなくなるだろう。封印するのだから。記憶に付随する力も消え、紋章も消えるはずだ。
彼は勇者の生まれ変わりではなく、普通の子どもに戻り、彼の今までの日常に戻れることが出来る。
そうすればシオンがここにいる理由は無い。彼とはお別れだ。
「………」
霊薬の完成を知れば、シオンはきっと喜ぶはずだ。
自分だって、彼の前世の記憶を封印し普通の生活を送らせることが望みだった。
なのに今、霊薬が完成したというのに、達成感を覚えない自分がいる。
コンコン、と音がした。部屋の扉からでは無かった。音がした方を見て、リリスは目を疑った。
シオンが窓の外からノックしていたからである。そしてこの部屋は、屋敷の二階にあった。
彼の体は空中で浮いていたのだった。
「……シオン!?」
リリスが慌てて窓を開けると、そんな彼女の様子がおかしかったのか彼はくすくすと笑っていた。空中であぐらを組みながら。
リリスが驚いて何も言えないでいると、シオンは笑いながら説明した。
「力の練習していたんだ。物を浮かせる力を応用すれば、自分の体も浮かせるって最近気づいて、ちょっと飛んでみた。……びっくりした?」
いたずらが成功した子どものように、シオンは笑った。
リリスは顔を覆う。彼は何も怖くないようだったが、リリスは次の瞬間、彼が落下してしまうのではないかと気が気でなかった。
「心臓に悪いよ…。頼む、部屋に入ってきてくれないか…?」
「それじゃ失礼して…。おじゃましまーす」
シオンが窓からするりと体を滑り込ませて入り、床に降り立った。
「ここのところ毎日練習を続けているから、コントロールも上手くなってきたんだぜ。ほら」
シオンが部屋の隅に置かれた本の束に視線を向けると、積まれた本の中央から本が一冊飛び出て宙に浮かんだ。それはふわふわと漂いながらシオンの方に向かい、彼はやってきた本を掴んだ。
「どーよ」
ふふんとシオンは本を手にしながら胸を反らす。一冊抜き取られた本の束は、倒れもせずそのままだった。リリスは呆気にとられた。
「どうして…?」
力の練習をするようになったのか。疑問を口にすると、シオンが答えた。
「だって、あの時みたいな思いをするのは嫌だからさ」
本で自分の肩をトントンと叩いていた彼の顔が曇った。シオンは自分が捕まり、リリスが刺されてしまったときのことを思い出しているようだった。
「足手まといは嫌なんだ。今まで壊すことしか出来なかったけど、このまま練習をし続けていけば色々なことが出来るようになるかも」
シオンは照れたように鼻を擦った。
「少なくとも、遠く離れていてもリリスの元に飛んでいくぐらいは出来るようになったよ」
「そんなこと…」
しなくていいのにと言いかけて、シオンの視線がリリスの持っている小瓶に注がれた。
「……それ、何?」
「あ」
シオンが小さく指を動かすと、リリスの手から小瓶が一人でに抜けて、彼の元に飛んでいく。
しげしげと小瓶を見つめるシオンに、リリスは答えた。
「前世の記憶を封印する霊薬だよ。ようやく完成したんだ」
「え」
「これを飲めば、君は紋章が現れる前の普通の子どもに戻れる。当然、前世の記憶に紐付いている、その力も消えるだろう。だから無理に力の練習なんてしなくていいんだよ」
シオンが霊薬から、視線をこちらに向けた。
そのとき再びノックの音がした。今度は部屋の扉からである。
「リリスさま。お電話です」
ミモザの声だった。
「ルドさまからですわ。どうなさいますか?」
ちょうど会いに行こうかと思っていた頃に掛かってきた電話に、若干都合の良さを感じた。もしかしたら彼はリリスがそう考えていたこともわかっているかもしれないと勘ぐってしまう。
「すまない、シオン。薬を渡すのはもう少し待ってくれ。……わかった、電話に出るよ」
リリスはシオンの手から薬を取り戻すと、彼を置いて部屋を出た。
ミモザがつないでくれた電話を受け取ると、リリスが声を出す前に相手が答えた。
「やあ、あれ以来だね。銀の魔女。元気にしていたかい?」
「ええ。おかげさまで」
「彼も元気?」
リリスがシオンをオークションで買い取ったことはすでに知られているようだ。
それに対し驚きはしない。帝国のスパイも知っていたことだからだ。
「ええ」
「久しぶりに君の顔が見たいな。どこかにお茶でもしない? 僕の馴染みの喫茶店を紹介するよ。ケーキがおいしいんだ」
「奇遇ですね。私もあなたに会いたいと思っていたところです」
「決まりだね。じゃあ待ち合わせは昼過ぎ、勇者像の前にしよう。それじゃあ王都でね」
リリスの返事も聴かずに電話は切れた。待ち合わせがよりにもよって勇者像であることに、またかとため息をつく。
受話器を戻すと、後ろから声をかけられた。
「ルドって誰?」
シオンが、いつの間にか自分の真後ろに立っていたことに驚く。声をかけられるまで気配を感じなかった。
「宮廷魔法使い時代の上司だよ」
「男? 女? どっち?」
内心驚きながらも答えると、シオンがぐいっと顔を近づけてきた。どうしてそんなことが気になるのだろう…と疑問に思いながらも返答をした。
「男性だけど…」
「!!」
シオンは稲妻に打たれたように硬直した。あんぐりと口を開けた後、何やらぶつぶつと言った。
「……引きこもりのリリスが会いたい男…?」
かなしばりが解けたようにはっとしたシオンは、焦ったようにリリスの腕を掴んだ。
「オレも行く! 連れてけ!」
「ダメだよ」
そう言われることは予想していたので、間髪入れずに断る。
「何で!?」
「私は王都に行くんだ。君、帝国のスパイに連れ攫われそうになったばかりだろう? おとなしく屋敷にいなさい」
「嫌だ。オレも行く!」
「別に私は遊びに行くわけじゃないんだよ」
「オレだってリリスの邪魔しないよ、だからいいだろ!?」
掴んでいる手を無理矢理放そうとしても、さらに力を込められるばかりで痛い。
しかしどうしてそんなに必死なのか、理由がわからなかった。帝国のスパイに攫われそうになったとき、怖かっただろうに。
「ダメったらダメだ。子どもみたいに駄々をこねるな」
軽く叱ると、シオンは何かに気がついたように手を放した。
「子ども…」
それから傷ついたように、ぼうっと立ち尽くした。
「リリスさま。ここはミモザにお任せ下さい。さあ、シオン坊ちゃん。今日はおやつを作るのを手伝って下さいまし。一緒にアップルパイを焼きましょう? ね?」
すっと現れたミモザがシオンの手を取ると、さきほどまでの必死さはどこに行ったのか彼は素直に手を引かれるまま、彼女について行った。
リリスはシオンの後ろ姿を見つめた。どうしてあんなに行きたがったんだろう…?
シオンは邪魔をしないと言っていたが、どちらにせよルドには会わせられない。彼の意図がわからないからだ。
ルドに会う前に薬を飲ませようかとも考えたが、気が急いた状態で行って失敗しては元も子もない。慎重に時間をかけて行うべきだろう。
リリスは部屋に戻ると、中に入っているカエルとなるべく目を合わせないようにして、虫かごを紙袋の中に入れた。
完成した霊薬も鞄の中に入れた。
黒のとんがり帽子をかぶり、紙袋と鞄を片手に持って、玄関口で声をかける。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「はい。気をつけて。行ってらっしゃいまし」
出迎えてくれたのはミモザだけだった。シオンは来なかった。
リリスは屋敷を出て、門から空間をつなげて王都に向かった。