14-5 山中の呪術師
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変な食堂の手配してくれた案内は、びっくりするほど高齢の老人だった。
まぶたが垂れ下がって瞳は細くなり、顔はシワだらけ、手の指もまるで枯れ枝だ。
しかしその老人は器用に馬に乗り、優雅な身振りで進み出した僕と火炎もそれに続いた。
三騎で北天峻険府の関所の一つから外に出て、街道を進み、すぐに脇道にそれ、また脇道に入ると、もう道は道ではなくなり、ただの岩山だった。
どれくらいを進んだかわからなくなるほど、景色が変わらない。どうやら岩山から岩山へ移動しているらしい。
「ほかに道はないのかい? 爺さん」
「ないな」
火炎の言葉にはそっけない返事が来ただけだった。
馬は必死に駆けさせているわけでもないが、息が上がっている。そろそろ休憩しよう、と言おうとしたら、老人の馬が止まった。
どうするのかと思うと馬を降り、断崖の方へ向かっていく。
「この下だ」
覗き込むのも怖いが、身を乗り出してみた。
岩肌が削られている、と思ったが違う、あれは人間が削り出したんだ。
老人を見る。
「この崖の真ん中に、神殿があるのですね?」
こくりと老人が頷く。本気かよ、と火炎が呻く。
老人は黙り込んでしまい、火炎も心を決めたようで、僕と火炎の二人が崖を下り始めた。
手足をかける場所がちゃんと作られているが、しかしどうにも古すぎる。何かの拍子に砕けそうだ。慎重に下りていく。
ものすごく長い時間に感じたけど、実際にはほんの短い時間だっただろう。
崖をくり抜いてある空洞に、僕と火炎はどうにか降り立った。
その空洞は奥へと続いているが両脇に精緻な彫刻の像が置かれている。人の背丈より大きい。最初に見えたのは動物で、豹か猫、狼、熊などだ。頭上には鳥がいくつも透かし彫りにされていた。次に見える像は人間だ。ものすごく大きく、見えあげるほどある。
火炎が何か言葉にならない呻き声をあげる。僕も呻いたかもしれない。
それくらい異質な光景なのだ。
像の間を抜けて、奥へ進む。通路は狭くなるが、ところどころに蝋燭があり、明かりはある。人がいるということだ。
人一人が通れるだけの通路をの先に、その空間があった。
かがり火が燃やされている。煙はどこかから逃げているらしい。
その光を背に受けて、一人の男がこちらを向いて座っている。僕たちは彼の前に進み出た。
「正令殿、ですね?」
僕の問いかけに彼、七十代ほどの老齢の男性は、穏やかに笑みを見せた。
「その通り。小さいのが龍青、大きいのが火炎だな?」
驚いて思わず老人を凝視していた。どこで、いつ、名前を聞いたんだ?
「座りなさい、まだ時間はある」
促されるが、僕たちの来訪を知っていたように、二人分の敷物が岩がむき出しの床に置かれている。僕たちはそっとそこに腰を下ろした。
「僕たちのことを知っているのですか?」
「そういう呪術を身に刻んだのだ」
「どういう呪術ですか?」
正令が見せた笑みは、どこか疲れているように見えたのは、勘違いか。
「私は、未来を知っている。だからお前たち二人がここに来ることも、知っていた」
「未来? これから起こることがわかるってことか?」
火炎が戸惑って声を上げるが、その通り、と正令は頷いた。
「ありえない、と思うだろう。しかし、私には未来が見える」
「それは、万能ですね」思わず僕は言っていた。「自在に未来を変えられる」
「それはできないのだよ、龍青」
「……なぜです?」
「私に見える未来は、変えられない未来。全てが決められたところに収束する。そして私に見える未来は、私が見る未来だけだ」
わけがわからないが、とにかく、彼は僕がここに来ることを知っていた。きっと、これから話すことも、知っている。
「お前は私に、父親のことを尋ねる」
いきなり正令が言った。
「だが、私はお前の父親には詳しくない、と答える。ただ、お前に教えるべきことはある」
「教えるべきこと? それは、なんですか?」
「翼王と呼ばれる男の話だ」
思わず黙ってしまい、静かになった中で、かがり火が燃える音がやけに大きく聞こえた。
「翼王を生んだ呪術について、聞いておくれ」
静かに正令が言った。
「百年は前になろう。世界は今とやや違っていた。理力を使うものが、正義を標榜し、人々の尊敬と畏怖の対象だった。一方で呪術もまた、神の加護、祝福、施しと言ってもいいが、清らかなものだった」
百年前? 唐突な展開に、思考が追いつかない。
「翼王は、当時はまた別の名だったが、一つの呪術を生み出した。それは人間を寿命という絶対の軛から解き放つ呪術だ。これは理力使いがたどり着く境地に非常に似ている。理力使いの境地は、二人にはわかるだろう」
「婆さんの幻の話か?」
すぐに答える火炎に、頷きが返される。
「あのように、肉体から離れても意識を残す、生き続けるのが、理力使いの一つの特徴だった。理力使いは、理力を極めることで、肉体を超越し、時間や空間さえも超越できる。それはまさに神の領域であり、呪術が到達できない高みだった。だから多くの呪術師がそこに挑み、挫折したが、翼王はその限界を超えた」
「それで、どうなったのですか?」
声がこわばるのを感じながら訊ねる僕に、正令がわずかに表情を曇らせた。
「翼王はまず己の身で試した。それもそうだ。特別な、神の座に限りなく近づく呪術を他人に施せば、そのものが自分より先に神に近づいてしまう。翼王の自らへの呪術は完璧に機能した。彼の肉体は瞬時に崩壊した。当時から存在した、呪術に伴う代償が、まさに肉体そのものでもあったのだ。翼王の肉体は消滅し、だが彼の意識は残った。理力使いと同様、彼は肉体を持たない一つの意識に、生まれ変わった」
僕も火炎も、何も言えなかった。
思考だけは巡り続ける。
筋の通った話ではある。だけど、百年も翼王は生きているのか? つまり、彼は不死か? いや、肉体がないのだ、そもそも不死という概念が当てはまらない。
精神は不死だろうか? 人間は精神や意識というものを言葉では理解しても、精神そのもの、意識そのものを観察することは、ほとんど不可能だ。僕や火炎はたまたま、師匠の意識から生まれる幻を見ているだけで、ほとんどの人間には起こりえない経験である。
静けさの中で、正令が言葉を続ける。
「翼王は最初こそ、満足していた。自分はもはや肉体を持たない、人間を超えた人間だと解釈した。しかしそれから彼は、恐怖に支配される。彼の意識は器を持たない。だからどこへでも行くことができる。空を飛ぶような感覚もなく、いたいというところにいられるのだ。そして時間さえも彼は失っていた。肉体は老いるが、精神は老いない。翼王は時間という概念を失っていった。太陽が昇り、沈み、月が昇り、沈む。それは意識できる。だが、翼王にとって昨日も今日も明日もなく、ひたすら同じことが繰り返された」
視線を落とした正令の声は、どこか震えていた。
「翼王とはつまり、呪術師の最大の悲劇なのだよ。自分がいる座標を知る術をすべて失った、哀れな男だ」
どう答えていいか、わからなかった。
静まりかえった空間で、正令が顔を上げる。
「そんな翼王に、転機が訪れる。それもまた一つの悲劇ではあるが」
僕は我知らず、唾を飲み込んでいた。
(続く)