10-7 見出した希望
◆
定輪は伏陸が死んだ、と思った。
思ったが、まるで時間が止まった。
伏陸の胸の前で矢が停止している。俺は夢でも見ているのか? それとも本当に時間が止まったのか? 定輪はじっと矢を見て、矢を射た男が悲鳴をあげたことで、時間は止まっていないし、これは夢でもない、願望でもない、と気付いた。
伏陸の前に、滲み出すように襤褸の幻が現れ、彼女の手は矢を掴み止めている。
二人の男が剣を構え、幻と対峙するが、襤褸は無造作に矢を投げ返す。
まるで強弓に惹かれたように、矢が飛んだかと思うと、ほとんど胸を貫通するほど深々と、男の一人に矢が突き立った。よろめき、倒れこむ。
(さあ、まだ帰らないかい?)
生き残った男は、ついに悲鳴を上げて逃げ出した。
定輪がしゃがみ込み、伏陸は息を吐いた。
「助かりました、隠者様」伏陸は今になって流れてきた汗を拭う。「死んだかと思った」
(お前は度胸があるね、伏陸。それに比べてあの男は)
二人の視線の先で、ゼエゼエと定輪が息をしている。彼が一番仕事をしなかったな、という意思を、伏陸と襤褸は顔を向けて確認した。
死体をそのままにしておいても、野の獣の餌になるだろうが、それでは人としての尊厳がない、などと襤褸が言い出したので、立ち直った定輪と伏陸が死体を背負って、山から湖へ向かった。
二人ともがぐったりと疲れている。
(死体は畑で肥やしにするとしよう)
「なんですって? 隠者様」
(冗談だ。埋めてやれ)
もう少し明るい話をしやがれ、と定輪が小声で毒づく。
やがて小屋が見えてきて、視界が開けた。
どこに死体を埋めるか、短い議論の後、獣に掘り返されない場所を選んで、二人で協力して穴を掘った。すでに日が暮れていて、薄暗い。
どうにか穴を掘り、死体を放り込んで、雑に埋めた。最後に伏陸がどこかから持ってきた石をその上に置き、定輪は野に咲いていた花を一輪ずつ、供えた。
ぐったりと疲れたまま、定輪と伏陸は小屋に戻ったが、食事にするような気分でもない。
(自分で招いたことだと、わかっているかね、定輪)
珍しく家の中に襤褸の幻が現れた。定輪が、伏陸の用意したお茶を飲みつつ、恨めしげに視線を向ける。
「わかってますよ。軽率でした。反省しています」
(そう思うなら、武術の訓練でもするべきだな、若造よ。技もなければ、度胸もない、知恵もないのだから。伏陸のことを見習うがいい)
「隠者様、それくらいでいいじゃないですか」
襤褸はまだ何か言いたげだったが、口を閉じた。しばらくの沈黙の後、立ち上がった。
(今日はご苦労だった。ゆっくり休め)
やっと幻が消えて、定輪と伏陸だけが部屋に残った。
「お前、なんであんなことができたんだ?」
定輪が呟くと、うーん、などと伏陸は首を捻った。
「必死だったから、覚えてないよ」
「人を殺したんだぞ?」
「彼らも殺すつもりだった。試合じゃないよ、実戦なんだから」
しかしなぁ、とまだ定輪は納得できないようだったが、その夜は何も言わなかった。
翌朝、二人は死体を埋めたところに水を供えて、形だけだが拝んだ。
(ちょっとした提案だが)
拝んでいる二人の背後に、襤褸が立った。
(お前たち、理力を学んでみるつもりはないかな)
「俺たちがですか?」
振り返る伏陸と、前を向いたままの定輪。襤褸はじっと二人を見た。
(特に伏陸、お前には素質がありそうだ。やや年を取りすぎているが、ある程度の形にはなろうよ。やる気はあるかな?)
「俺は……」
「俺にも教えてくれ!」
急に立ち上がり、定輪が襤褸に詰め寄った。
「俺も少しは、度胸をつけたい。ダメか? 婆さん」
(お前の度胸のなさは治らんよ)
「それでも努力したいんだよ」
その気迫に負けたのか、よかろう、と襤褸が小さく言った。
(で、伏陸は?)
正直に言えば、毎日、釣りをして、畑の世話をする方が自分には合っている、そう伏陸は考えていた。
だが、定輪を放っておくことはできない。付き合うべきだろう、と伏陸は考えていたが、そんな様子を見抜いたのか、襤褸が穏やかに言った。
(無理をする必要はない。定輪は定輪、伏陸は伏陸だ)
少し迷ってから、「習います」と伏陸は答えた。
こうして二人の生活にはもう一つの要素が加わった。春も終わろうとしている空気の中で、釣りをして、畑をいじり、山に分け入り、そして広場では二人が棒を打ち合っている。
幻がいくつも二人を取り囲み、思念でああだこうだと意見を口にする。
定輪はすぐに癇癪を起こすが、伏陸はじっと話を聞き、考える素振りを見せる。
襤褸はそれを遠くから眺めていた。
定輪は、もう自分が守られることがないように、その一心で稽古を続けた。
伏陸は、ただ新しいことへの興味と、定輪を助けるつもりで稽古をする。
これもまた、一つの形だろうを思いながら、襤褸はただひっそりと、黙って二人を観察していた。
◆
襤褸が理力の巨大なうねりの中に飛び込むと、無数の声が反響し、過去から未来へと続く理力使いの思念が、集まっては離れ、溶け合っては二つに、三つに、四つに、無数に分かれる。
(やはり弟子を取ったのだな、襤褸)
慶名が襤褸に近づいてきて、二人の情報が交換される。慶名もまた、思念としてどこかの理力使いを助けていることが、襤褸に理解できた。
(見込みはないさね、あの二人は。私の暇つぶしさ)
(心にもないことを言うな、襤褸。お前は弟子を雑に扱うことはない)
私の何を知っている? と襤褸は思いつつ、しかし思わず笑っていた。
(何がおかしい?)
(暇つぶしというのは、確かに心にもない、冗談だった。私の本心は、寂しい、ということなんだろうな)
(寂しいだと?)
(自身を理力とすれば、ここで大勢の仲間と会える。だが私もやはり、初めは普通の人間だった。自らの目でものを見て、自らの耳でものを聞き、自らの手でものに触れた。それはこの理力の場には、ないものだ。私は、現実というもの、本来いるべき場所に、未練があるのだろうよ)
慶名の思念が漂い、しかし短く、くだらん、と吐き捨てた。それに対して、襤褸は笑って見せた。
(くだらないかもしれないな。しかし、私はあの二人に希望を見出したのだよ)
(未練など、捨ててしまえ)
(あの世界こそが、私の故郷だよ。また会おう、慶名)
慶名から離れ、襤褸は龍青に近づいた。
いつもよりどことなく弱い光がそこにある。呼び掛けることを、襤褸はしなかった。
助けることができるかもしれない。
だが、助けがないことも、ある意味では助けだろう。
龍青には、教えられる限りのことを教えた。
しばらく龍青を見守り、襤褸は自らが本当の場所と決めた世界へ、戻って行った。
意識が現実を理解し、思念になって湖面に向かう。
船が浮かんでいて、定輪と伏陸が釣り糸を垂れている。
その様を眺めながら、襤褸はそっと声をかけた。
(釣れているかね、二人とも)
驚きもせず、二人の男が襤褸を見て、それぞれに一方は顔をしかめ、一方は顔に笑みを見せた。
吹き渡る風に、夏の気配がかすかに漂い始めていた。
(第十部 了)