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鳥と雷  作者: 和泉茉樹
第十部 二人の悪党の日々
69/118

10-5 湖の底で

     ◆



 定輪が去って数日、その日も伏陸は一人で湖の上の舟にいた。

 しかし釣竿はピクリともせず、釣り糸は風に揺られている。

 当の伏陸は寝そべって空を見ているのだった。

(なんでお前は出ていかないんだい?)

 急に声がして、うとうとしていた伏陸は目を覚ました。珍しく、襤褸が舟のヘリに腰掛けるようにして、そこにいた。その幻を見やって、いや、と小さな声で言う。

「他に行くところもないですしね。ここは案外、気に入ってしまった」

(こんなババアしかいないに?)

「そういう趣味かもしれない」

 からかうんじゃないよと、瞳のない空洞に睨まれ、わずかに伏陸は身を縮めた。

「自分のことをババアなんて、言うもんじゃないですよ、隠者様。俺はそう思います」

(あの男は私をそう呼んでいた)

「からかい半分ですよ。もっとも、俺とあいつは違う人間ですから、考え方も違う」

 そんなものかね、とやけに寂しげに言うものだから、さすがに伏陸もおかしいぞと感じ始めた。

「えっと、もしかして龍青に何かありましたか?」

 ちらりと伏陸の方を見て、何もないだろう、と幻は小さな声で言った。もちろん、伏陸の意識に直接だ。

(私もやはり、歳をとった。余計なことを考える)

「例えば?」

(龍青がここに戻ってくるか、とかな)

 そういうことか、と伏陸は納得した。襤褸が不安になっているのは、去っていた定輪の後ろ姿に、去っていく龍青の姿を見ているからなのだ。

「あの子は帰ってきますよ。ここが故郷ですから」

 返事はなく、ただ襤褸は湖を見ている。伏陸もそちらを見るが、何もなかった。ただ湖の表面がかすかに揺れている。

 いきなり釣竿が揺れ、糸が引っ張られた。

 おっと、などと言いつつ竿を手に取り、慣れた手つきであっさりと伏陸は魚を引き上げ、カゴに放り込んだ。すでに二匹が入っている。三匹目が手に入ったので、これで昼飯も夕飯もまかなえる。

「じゃ、俺は帰りますんで。また明日にでも」

(ではな)

 スゥッと幻が消え、なんだったんだ? と首を傾げつつ、伏陸は舟を岸へ寄せて行った。

 昼飯は焼き魚を用意し、山の中で自生しているのを集めておいた芋を主食にした。夕食までの時間は、畑の手入れをすることにしている。

 ほぼ一年、手付かずだった畑だが、森から食料を取るよりも、格段に効率がいいと気づき、春先から定輪と伏陸の二人で世話を再開したのだ。

 そこは元は農民の出身である二人だから、意見を交換し、効率的に作業していたが、これからは伏陸一人の仕事になる。少し重荷かもな、と思いつつ、農具を片手に畑へ行った。

 何事もなく作業していたが、夕方になってにわかに人の気配を感じた。

 なんだ? と見ている先を、女が通った。女?

 しかしあの赤い鮮やかな着物と、長い髪は、女だろう。

 自分は幻を見ているのか?

 目を擦ろうとした伏陸の前にもう一人、女が現れた。今度は深い青色の着物だ。その女に続いて現れたのは、定輪だった。

 彼がすぐに伏陸に気づき、手を振っている。やけに元気そうだった。

 仕事を中断してそちらへ行くと、立ち止まった二人の女はしげしげと定輪と伏陸の建てた小屋を見ている様子が視界に入った。

「あれは誰だ?」

 用心深く訊ねる伏陸に、定輪が顔を寄せる。

「下の町で引っ掛けて、ここまで連れてきた。片方はお前の奥さんになる」

「ハァ?」

 全くわからない話だった。奥さんだって?

「俺は赤い方だ。お前は青い方」

「おいおい、勝手に決めるな。彼女たちの意見もある」

 そう伏陸が耳打ちしているうちに、赤い着物の女が彼らを見て、「あの湖が例の湖?」と声を上げた。定輪が「そうだよ」と応じた途端、女が服を脱ぎ始めたので、思わず伏陸は目を逸らした。

「私、ちょっと下を見てくるわ!」

 そう叫んだ声の後、水音がした。そっと伺うと、女は湖を泳いでいて、中心へ向かっていく。青い着物の女はそれをただ眺めていた。

 どうなっている? と問い質す伏陸に、定輪は穏やかそのものだ。

「下の町で、湖の底に沈んでいる婆さんの世話をしていた、って話をしたら、みんなに笑われた。だけど、あの娘たちは興味を示してね。湖まで連れて行ってくれ、その婆さんが見たい、なんて言いだした。どういう理屈かは知らんが、ついていく、案内しろ、とうるさくで、ここまで連れてきたんだ」

 おいおい、と伏陸は一層、声を小さくした。

「ここのことは外に漏らさない約束だろ。隠者様もそのつもりだし、龍青殿や火炎殿もそのつもりだ。ここは余所者が入っちゃいけないんだ」

「余所者? 俺たちだって余所者だろ」

 どう答えていいかわからないまま歯噛みする伏陸に、たまには女と楽しめよ、と肩を叩いて定輪は女の方へ歩いていく。言葉にならない苛立ちをどうにか飲み込み、伏陸は農具を決めている位置に片付け、しかし四人となると食事に困るな、などと咄嗟に考えていた。

「おい、どうした」

 小屋に入ろうとすると、慌てた様子の定輪の声がした。

 そちらを見ると、赤い着物の女がいつの間にか岸に上がっているが、着物を雑にひっかけたあられもない姿でこちらへやってくる。定輪がそれに追いすがっているが、女は足を止めない。青い着物の女と何か耳打ちし合い、ずんずん伏陸に近づいてくる。

 女の顔が真っ青なのに気づいた。冷えたせいだろうか。もう春になって、水はそれほど冷たくないはずだが。

 どうなるのかと思ったら、女たちは伏陸の横を抜けていく。止められるような雰囲気じゃない。気迫、殺気のようなものが発散されている。定輪と伏陸が目を合わせ、定輪が足を止めた。女たちとは距離ができる。

「おい、どうしたんだ! 待ってくれよ!」

 定輪が叫ぶ。伏陸の横を抜け、もう一度、女に追いすがった。

「こんなところにいられないわ!」

 赤い着物をひっかけた女が叫び返した。

「あんな、あんな不気味なもののそばにいられるもんですか!」

「不気味ってなんだ? 何を見た?」

 女が足を止め、定輪も立ち止まる。

 女が震える声で答えた。

「あんた、婆さんが水に沈んで一年、って言っていたわよね。それが本当なら、おかしいわ。湖の中で見たのよ。まるでたった今、水に沈んだようなおばあさんをね! あれは水死体どころか、死体でもないわ! 生きているのよ! 水の中で! ありえない!」

 女の気迫に、さすがに定輪も気圧されたようだった。

「あんな化け物となんて、関わりたくないわ!」

 そう叫んで、ついに赤い着物の女が森に駆け込み、青い着物の女が後に続く。

 残されたのは、呆然とする定輪と伏陸だった。

 どこか落ち込んだ様子で、定輪が伏陸を見るが、伏陸はどうにか笑みを返すことができた。

「魚を釣ってある。夕飯にしよう」

 ああ、と力なく頷いて、うな垂れたまま、定輪が伏陸のそばへやってきた。

「帰ってきてくれて嬉しいよ」

 何気なく伏陸がそう言うと、定輪も口元を少しほころばせた。

「俺は散々な気分だよ」

「そう落ち込むな。飯を食べれば、少しは気も晴れるさ」

「どうだかな」

 二人は連れ立って小屋に入って行った。

 女たちはまるで幻だったかのように、何も残していなかった。




(続く)


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