10-3 塩
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いよいよ春本番となり、のどかな光は分け隔てなく降り注いでいる、
定輪と伏陸はいよいよ釣りに熱を上げ、ここ数日は二人で何匹釣れるか、競っていた。今も船の上に並んで腰掛け、しかし背中を向けあい、じっと湖面を見ている。
前日の夜、夕方に魚を調理しつつ、二人が議論していたのは、釣果をどう比べるか、だった。
釣った数を競うか、釣った重さを競うか、揉めていた。
しかし二人ともが一致した意見は、小さい魚は逃す、ということだった。
湖は広すぎて、とても二人だけで全ての魚を釣れるとも思えないが、やはり小魚まで釣っていては、そのうちに魚も釣れなくなる。
二人がほとんど怒鳴り合うように意見交換し、その一点でお互いを認め合い、喧嘩も終わった。
「やっぱり塩が欲しいな」
ぽつりと伏陸が言うと、「だな」と定輪が答える。
ぐっと首をひねって振り向く伏陸に、彼は視線も向けずに続けた。
「黒い液体みたいな調味料とか、豆を発酵させた調味料とか、あればいいんだが、あれは専門の奴らじゃないと作れない。で、俺たちはといえば、山で採れる辛みのある実だか種だかを粉にして、それで味をつけるしかない。塩すらない」
「どこかの山で採れるって聞いたぜ。海じゃなくてな。岩みたいな塩らしい。削りとって粉にして使うと思うんだけど」
「じゃあ、明日にでもちょっと山に登ってみるか」
「あの辺りがいいんじゃないか」
すっと伏陸が指さした方を、さすがに定輪は確認した。
目測ではわからないが、切り立った崖があるのだ。樹木どころか、草も生えていないように見える。
「何かアテがあるのか? 伏陸」
「何もないよ。ただ、砂浜に草が生えないとと同じかな、とか思った」
「砂浜? 海辺のか? 行ったことがあるのか?」
ねぇなぁ、と伏陸が答える。
「ただ、海のキワっていうのは、草木があまり生えないらしい。海藻とか呼ばれる、藻みたいなものは採れるが、例えば野菜は生えない。それが塩のせいだっていうんだ。塩が植物を枯らしちまうんだと」
「本当かよ。それが本当だとして、あの崖に植物が生えないのは、岩だからじゃないのか? 巨大な岩だよ」
「行ってみればわかるさ、定輪」
そんなやり取りをしている二人だが、ちょこちょこ魚を釣り上げては、大きさを見て、籠に入れたり、湖に戻したりしている。
結局、お互いに餌になる虫を融通しあって、餌がなくなってから、船を湖岸に漕いで行った。
「一応、断っといた方が良いだろ、婆さんに」
そう定輪が言うのに、思わず伏陸は忍笑いをした。
「また一撃を喰らうぜ」
「あれくらい、なんでもないよ。おーい、隠者様、聞こえますか」
婆さん呼ばわりしないのかよ、と呟く伏陸は、船が流されないように、岸の上へ一人で引っ張り上げている。
「おーい、隠者殿、聞こえないのかー」
「水の下だからな」
「おーい、隠者、婆さん、ババア! おい、聞こえねぇのか! 死んだのか!」
聞こえないらしいな、と定輪が振り返った、まさに目の前に幻の像が立っていた。
うわぁ、と尻餅をつく横で、伏陸が笑っている。その伏陸を恨めしそうに見ながら、やっと定輪が立ち上がった。
「驚かさないでください、隠者様。お人が悪い」
(婆さん、とか、ババア、とか、汚い言葉が聞こえたが、あれは誰に言っていたのかな?)
目元がピクピクするのを感じつつ、定輪は何か言い訳はないか、と四方を見たが、何もなかった。
結局、襤褸の手痛い一撃で定輪はしばらく起き上がれなかった。
「それで隠者様、少しここを離れたいのですが?」
(このババアを置いて出て行く、ということか、伏陸よ)
自分でババアって言っているじゃないか。笑いそうになるのを堪えつつ、伏陸は遠くを指差した。夕日に照らされている崖だ。
「塩が欲しい、と思いまして、それを探しに行きます」
(あの岩山にか? そんなところへ行かんでも、近くにあるわ)
「は? 塩がですか?」
(ここで暮らすに当たって買い求めたものがな)
あるのなら早く教えてくれよ、と思いつつ、そういえば半壊した小屋には塩の入った壺があった。それを使い切ってから四苦八苦していたが、なるほど、大元の貯蔵庫があるのだろう。
(お前たち、なぜ早く塩のことを言わないのだ? 人は塩がないと生きていけないのだぞ)
はぁ、と伏陸は答えるしかないし、定輪はまだ足腰が立たず、倒れていた。
それから伏陸が塩の貯蔵場所を聞いて、翌日、出向くことになった。詳細な場所は襤褸が案内してくれるというので、不安はなかった。
定輪は留守番で、それは襤褸のお仕置きのせいではなく、襤褸の方から「お前は人質だ、と言いたいが、私の体の見張りをしろ」ということだった。
翌日はよく晴れていた。動きやすい身支度をして、湖に行くという定輪を別れて、伏陸は一人で小屋を離れた。どこからともなく出てきた幻が、先を歩き始める。
「塩をどこで買って、どうやって運んだのですか?」
(塩の商人から買い付け、運ばせたのさ。この老婆が運べるものかね)
「この奥地まで運ばせたのですか? しかし、それでは通りやすい経路を知られてしまったのでは?」
不意に嫌な予感が伏陸の心に立ち込めた。
この老婆なら、口封じに人を殺すかもしれない。年寄りだろうと、あの理力という奴は侮れない。実際、体がないのに、定輪は良いようにされている。
黙り込んだ伏陸を、襤褸が振り返った。
(別に悪いことはしていない。金を渡して黙っているように頼んだ。彼らは律儀に約束を守ったようだ。破ればたたでは済まなかったが)
やっぱり口封じするんじゃないか。伏陸はぐっとこらえて、言葉を飲み込んだ。ついでに恐怖も。
しかし、と幻が呟く。
(何か嫌な予感もするがね)
「なんです、その予感っていうのは?」
(わからんよ、行ってみよう)
そうして森に分け入り、幻に導かれて伏陸は人気どころか獣の気配も希薄な場所へ、分入って行った。
半日ほど歩くと、壁のように岩が立ち上がり、そこにある洞窟の前に着いた。
「ここですか?」
(壺で四つほど、保管しておいた)
さっさと幻が入って行ったので、伏陸も続く。
明かりが必要だ、と思ったが、襤褸の幻が理力なのか、光を放って周囲を照らした。
入って行くと言っても、それほど奥ではない。
(ああ、これは参ったね)
動きを止めた幻の向こうを見ると、どうやら洞窟の奥は崩落していた。
足元に壺の破片のようなものが落ちていた。
「つまり、どういうことです?」
(塩はつまり、どこかに流れた)
「一つも残らず?」
(残らずだ)
……なるほど。伏陸は幻をじっと見据えたが、老婆には瞳がない。睨む相手がない。
「じゃあ、帰りますか」
(そう怒らないでおくれよ)
「怒っちゃいませんよ、さっさと帰って、次善の策を考えましょう」
そうだね、と漏らしつつ、伏陸を追い抜く幻は、どこか寂しげだった。
(続く)