10-2 理力の思念たち
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襤褸の意識は、はるかに高い位置にあったが、それは同時に深い位置でもある。
巨大すぎる理力というものは、全体像が理力使いにも計り知れない。
その空間には無数の理力使いの行使する理力があり、その理力には意識が書き込まれている。
ふわふわと漂い、激しく波打つ理力の波の中で襤褸に近づいてくる理力、そして意識ががあった。
(襤褸殿だな?)
その呼びかけは、直接的な理力の揺れとして届く。距離も時間も超える声だ。
(いかにも。そちらは?)
(慶名という。龍青という剣士はあなたの弟子だな)
その言葉と同時に、襤褸の意識に複雑な意識が流れ込んできた。
誰が見ているともわからない視点からの光景や、誰かの会話、何より、精神の揺れさえもが押し寄せてくる。
わずかに口を噤むようにしてそれを飲み干した時、襤褸は事実を理解していた。
(龍青は私の弟子だよ、唯一のね。そして慶名殿の弟子、電鳴を切った龍青は、まさに私の弟子だ)
(電鳴には全てを伝えた)
語り出す慶名の思念は、自然と襤褸の中に流れ込んだ。
(負けることはないだろうと思った。普通の人間にも、呪術師にも、理力使いにも)
(慢心でしたね)
容赦なく、襤褸が切り捨てるが、慶名は笑っているようだった。
(まさしく。私に見えた世界など、小さいものだった。あの男も、その小さい世界を引き継いでしまった。時に、襤褸殿は何をどこまで見通されるのかな)
襤褸はわずかに考えたが、それも実際には一瞬にも満たない。
(見えるだけですよ、ただ見える、それだけ。両目を失い、理力で補ったために、ただ少しだけ遠くが見えるだけのこと。心を読む、などということはできません。今は理力を通じて、同じ力を持つものとこうして繋がれますが)
(それだけの余裕があれば、私も、弟子も、また違ったのでしょう)
すっと慶名の気配が離れた。
(あそこにいるのが我が弟子、電鳴です)
意識が向く先、まだどこか落ち着かなげな理力の塊が漂っている。
スゥッと襤褸がそこに近づいた。
(電鳴殿ですな?)
意識が襤褸の方を向く。意識には、まだ若い男の姿が重なって見えた。
会話をする前に、襤褸と電鳴の理力が混ざり合い、溶け合い、余計な質問は消えてしまう。
(龍青の師匠でしたか)
(なぜ敗れたかを、迷っているようだが)
(俺が勝てたはずだった。今でも、そう思っています。すでに肉体を失っても、まだできた、と思うことは、無様でしょうか? 間違っていますか?)
襤褸は笑みの波長を返す。
(私のところで、龍青は育ちましたが、大勢の理力使いたちが彼を鍛えました。あなたの稽古を私は知らない。ただし、龍青は、ひたすら稽古をしました)
そう言いながら、襤褸は意識を古龍峡に向け、その様子を俯瞰し、電鳴に流し込んだ。
(あそこです。あの山の奥地で、あの子はひたすら稽古を続けました)
電鳴が光景にじっと目を注いでいるのを感じながら、襤褸は続けた。
(あの子には人間の相手がいませんでした。肉体を持たない理力使いたちから、ひたすら技を覚えたのですよ。誰かと競ったりしない、つまり、勝つことの喜びも、負けることの悔しさも、全部、あの子自身の中から生まれたものです)
自分の言葉に、襤褸は少し重いものを感じた。
古龍峡で育ったことを、龍青はこれからどう評価するだろう。
人の間で育ちたかった、と思うだろうか?
自分しかいない場所で、ただ己だけを見据えて、技を磨く。
それはもしかしたら、残酷ではないのか。そして、決定的に、何かが欠けてしまうのではないか。
(そんなことはありません)
襤褸の思考を読み取った電鳴が言った。
(龍青は、立派な剣士でした。それは、間違いない。私の方こそ、何も見えていなかった)
ならここで考えることができるだけ、幸福だろう。
言葉にせずにそう思うことで、襤褸は返事に変えた。
つっと視線を外し、襤褸は遠くに見える理力の揺れを見据えた。そちらを電鳴も見ている。
あそこに龍青がいる。
一人きりで、襤褸はそこに近づいたが、多くの理力の塊が、龍青を取り囲んでいる。
龍青自身は微動だにしない。彼はまだ生きていて、意識は身体に宿り、理力の流れも体を中心とする。この理力の場に全てを置き換えることはできないのだ。
彼の理力の断片を囲んでいるのは、龍青に剣術の指導をした理力使いたちだった。すでに肉体を失った彼らは、この場こそが本来はいる場所だ。
それを襤褸が呼び出し、龍青を鍛えさせた。
(凄まじい男になった)
一人が呟くように言う。その時には襤褸の意識に、理科を使う龍青の姿が浮かんでいる。
(超高速の剣術、ひたすら速さに特化した技だ。あれを受けられるものはおるまい)
(疲労だけが問題だな。その点では未完成ではある)
別の理力使いが呟くように思念を発する。
(本人もわかっておろうよ、未完成なことくらい。これから、磨いて行けば良い。きっと、優れた理科の一つになろう。そうなれば我々も鼻が高い)
理力の集団の間を笑い声と、激励の思念の波が走る。これが龍青に少しでも伝わればいい、と襤褸は考えていた。
(それはそうと、襤褸、お前は大丈夫なのか?)
一つの理力が問いかけてくるのに、彼女は頷く。
(瀕死でしたが、いずれ、蘇ります。そのための準備はしてありましたし、今のところ、問題はありません)
(お前がまた弟子を取ればよい、などと皆で話すことがある)
その思念に、思わず襤褸は苦笑いした。
(私はもう弟子を取りませんよ。やがて肉体は本当に朽ち果て、私もここの住人になる。やはり歳には勝てませんな)
笑い、和やかな空気の中で、一つの思念が言う。
(龍青を鍛えるのは、面白かった。あれだけの才能の持ち主はそうおらんし、私たちに応えてくれるものも、また稀だ。今になってみると、あの日々は楽しかった。自分が死んでいるなどとは思わないほど、充実していたよ)
(私もだ)
(私も同じ意見だ。いい日々だった)
そんな具合で、急に理力たちが龍青の思い出話を始めたので、襤褸はそれに耳を傾けつつ、じっと龍青の思念の断片を見た。
今は中央天上府へ向かっているようだが、だいぶ距離がある。
そして龍青に同行させた火炎は行方不明だ。
襤褸の体が万全で、両目の宝石の義眼がそのままなら、どれだけ離れても、実際に見ているように感じ取れたはずだった。
しかし肉体は瀕死で湖の底にあり、両目の宝石は砕けてしまった。
今の襤褸に把握できる範囲は、それほど広くない。古龍峡を把握する程度しかないのだった。
しばらく理力たちが嬉しそうに話しているのを聞いてから、戻ります、と襤褸は断りを入れた。理力たちが送り出してくれる。
こうして襤褸の意識は一時的に肉体に戻った。
湖の底で、水が体に浸透している。水に含まれる理力が引用され、恒常的に肉体を治癒させているが、まだ活動は当分、不可能だとわかる。自分の体なのだ。
呼吸をしないでも苦しくないのは不思議だった。それもまた理力の神秘なのだ。
はるかに頭上の外気を見透かすように、存在しない瞳を向けるが、見えない。
襤褸はそのまま、静かに眠りについた。
(続く)