1-6 鼓動
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一階に下りると、薄暗い明かりの中で、番頭さんが倒れこんでいる。
駆け寄ろうとした時、「動くな!」という叫び声が上がった。
明かりの影のあたりに、誰かが立っている。少女の首に腕を巻き、刃物を突きつけていた。少女は番頭さんの娘で、この宿屋で働いていたはずだ。
「動くな、壁際へ行け、早く、早く!」
やっと声に聞き覚えがあると意識が及んだ。
昼間、火炎の代わりに腕試しをやっていた男だ。
「早く壁際に行って手をつけ! この娘を殺すぞ!」
火炎が言われるがままに壁際へ歩き出す。相手が誰なのか、わかっているんだろう。僕もそれに従うしかない。
人質の安全が、第一だ。
壁にたどり着き、まず火炎が両手をついた。僕も倣う。
例の男は、こちらに歩み寄ってくるようだ。
背後から襲われるのは、不利だけど、理力を使えばなんとかなる。
火炎の意思を知ろうと視線をそれとなく送るが、彼は無表情に壁を見ている。
背後で少女が悲鳴をあげる。意外に近い、すぐそこじゃないか。
と、湿った音と、少女の絶叫が起こり、同時に襲撃者が大声をあげた。
火炎が弾かれたように動いた。
振り向きざまの蹴りが、鮮やかなほど綺麗に、男の胴を捉えて、吹っ飛ばしている。その影を追うように火炎が飛びかかった。
僕がそれを眺めていられないのは、僕のすぐ足元で、少女が倒れ込み、悶えているからだ。いや、震えているといったほうがいい。
首元を刺されていた。男の持っていた短剣が抉ったんだろう。
血が流れて、止まらない。深さはどれくらいだ?
「誰か! 誰かいないのか!」
一階の広い空間に僕の声が反響する。上の階で人が動く気配。一階の奥からも、気配はあるが、恐怖のためか誰も出てこない。
僕は両手を少女の首筋に傷口に押し付け、意識を研ぎ澄ませた。
こんな場面、こんな状態を前にするのは初めてだけど、やれることは一つしかない。
両手に理力が集まっていく。かすかに熱が上がるのがわかる。しかしその手は今も、赤く染まっていく。ヌルヌルとして、それが集中を乱す。少女はすでに震えていない。意識はない。
まだ、間に合うはずだ。
両手の熱が、じわじわと少女に浸透し、僕の理力が、彼女へ影響を及ぼしていく。
血の流れが弱くなっていく。もしかしたら、命が消えかかっているかもしれない。
間に合え。間に合ってくれ。
一心に両手を強く押し付けた。
いつの間にか血の流れが止まる。少女の体が冷えていく。
僕は理力の全てをそこに注ぎ込んだ。
その時だけ、僕はまるで体が二つあるような、そんな錯覚を覚えた。
片方は必死に、少女を助けようとしている。
片方は、かすかな鼓動が今にも消えようとしている。
二つの体の鼓動を、合わせていく。
そうすることで、僕自身の鼓動が緩慢になり、意識が途絶えそうになった。耐えるしかない。
やがて、少女の鼓動が一定の拍子を刻み、そしてひときわ強く、震えた。
ハッとした時には、僕が押さえる傷口の向こうで確かに少女の鼓動が蘇っていた。
咳き込むように呼吸が再開され、僕はやっと手を離した。
座り込み、自分が汗をかいている、それも全身が濡れるほどの発汗だと気付き、額を拭ったら、少女の血がべっとりとついた。
どうなった? 少女ににじり寄り、服の袖で、その首筋を拭う。
傷口は、なくなっていた。
流れた大量の血は、床に広がっている。でももう、傷はないのだ。
少女は穏やかに呼吸している。顔はまだ青白いが、おそらく、生き延びる。
「何をした?」
頭上からの声は、火炎のそれだ。
顔を上げると、薄明かりの中で、火炎の険しい表情が見て取れた。
「言えない。ちょっとしたやり方で、彼女を助けた」
「これだけの出血で、生きているわけがない」
「生きているよ。それより、例の奴はどうなったの?」
ちらっと火炎が視線を送った方を見ると、土間の一角で男が倒れている。動かない。
「殺したの?」
「まさか。ただ殺すのもつまらないから、生かしてある」
屈み込んで、少女の顔を覗き込み、「嘘みたいだが、生きているな」と火炎がつぶやき、次に身振りで「あいつもどうにかできるか?」と示した先には、番頭さんが倒れている。
慌てて駆け寄ると、どうやら殴り倒されただけらしい。目立った怪我はないし、出血もしていない。意識が朦朧としているようだが、時間とともに回復するだろう。
「運ぼう」
そう僕が言った時、階段からこちらを覗き込む、数人の宿泊客が見えた。
勇敢な人間は、実は社会には少ししかいないのかもしれない。
どの部屋を使っていいかわからなかったので、火炎が少女を、僕が番頭さんを担いで、僕の部屋へ向かった。料理の器や膳を壁際に押しやり、二人を布団に寝かす。
ここに至って、やっと他の宿の従業員がやってきた。彼らは夜の街へ散って、医者や役人を呼びに走った。一部は一階の片付けを始めたようだ。
医者が来たのはしばらく経ってからで、酒臭かった。一杯飲んで、眠っていたのを叩き起こされたのだろう。
まず少女を見るが、「どこを怪我したんだね?」と不審そうだった。明かりの中だと、少女の首筋にはちょっとの傷もないのだ。番頭さんの方は、しばらく寝かせて様子を見なさい、とのことだった。
医者が去っていき、役人が来たが、それには火炎が例の男を押し付けて、そのまま役人は去っていった。
気づくと時間が過ぎていて、明かりを消して窓の戸を開けると、朝日が差し込んだ。
「何をしたんだ? 龍青。まだ秘密か?」
朝日の中で、穏やかに眠る少女を見ながら、火炎が僕に言葉を向ける。
「この娘が傷を負ったのは、俺の責任だ。それをお前が防いでくれた。どうやって礼をしたらいいか、わからないほど、感謝している」
「偶然に居合わせた、という幸運に感謝しなよ」
我ながら気障すぎるかな、と思いつつ、そう答えていた。やっぱり気障だと感じたらしく、火炎は笑っている。
宿のものが料理を運んできた時、僕が血まみれだとやっと分かり、風呂を用意してくれた。新しい服も貸してくれた。部屋に戻ると、番頭さんもその娘も他所へ移されたらしく、火炎が一人で食事をしていた。
「あれは呪術って感じじゃない」
食事をしつつ、火炎がまたその話題に戻っている。
「呪術で他人を癒す奴なんて、聞いたことがない」
「僕もないね」
「でもやって見せた」
「あのまま死なせるわけにはいかないでしょ?」
苦々しい表情で、火炎が粥をすする。僕はそれがおかしくて、一晩、眠らなかったせいもあってか、思わず答えを口にしていた。
「僕が使うのは、理力、と呼ばれる力だよ」
こちらに向けられた火炎の視線は、不審さを隠そうともしていない。
「どういう力だ? 俺の剣を受け止めたのも、それか?」
「万能なんだ。でも、誰もが使えるわけじゃない」
そいつはまた都合がいいな、と笑って、しかし火炎は、何度か頷いた。
「調べてみるよ。飯を食ったら俺は出て行く。今度こそ、お別れだ」
「面白い一夜だった」
「人が死にかけたのに、面白い一夜、か?」
そうじゃなくて……、ともごもご答える僕に、火炎がまた笑う。
窓の向こうから、街が動き始めた気配がした。
(続く)