9-1 東方臨海府
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東方臨海府は海に面している、海岸のすぐそばにある小高い山がその中心となる。
斜面に階段状に都市が出来上がり、一番高い位置は行政長官の邸宅とのことだった。
輸送船が港に入っても、僕の心は晴れなかった。
火炎はもう船にはおらず、海に落ちたことは確実だ。そしてあの嵐である、とても生きているとは思えない。
部屋に残っていた火炎の荷物を整理したが、貴重品は師匠が預けた銭と金や銀の粒が入ったものくらいで、大したものはない。それでも捨てていいとも思えず、水夫から箱をもらって、そこに全部を詰めた。
港に着いてわかったが、輸送船の腹には巨大な穴が空いていて、そこがつまり海賊船がぶつかったところらしい。その衝撃で船が傾いた。穴は喫水線と呼ぶらしい、海面が来る位置よりわずかに高い。もっと下だったら沈んでいた、とのことだった。
嵐で海が荒れすぎて、海賊船は波に乗り上げるかして、予定より上に突っ込んだのかもしれなかった。
船を降りるとき、声をかけてきた人がいた。
華書だ。水夫の治療で忙しそうにしていたので、港に着くまで、顔をあわせることもなかった。彼はどこか疲れた顔をしている。
「あの男のことは、私の方でも探してみる。海に落ちたものが、自然と流れ着く海岸がいくつかあるのだ。風なのか、波なのか、何かが作用するのだろう。ただ、あれだけ海が荒れていたのでは、期待も薄いが」
「それでも、よろしくお願いします」
頭を下げると、目の前に書状が差し出された。華書はわずかに笑っていた。
「東方臨海府に妻がいて、助産師をしている。都風という女で、訪ねるといい。彼女にこの書状を渡せば、力になってくれる」
「ありがとうございます」
「何の目的があるか知らんが、これも縁だ。幸運を祈っているよ」
もう一度、頭を下げると、華書は僕の肩を叩き、離れていった。
港を離れて、とりあえずの宿を決めた。火炎に頼っていることも多かったけど、自分でも比較的、身の丈にあった場所を選べたようだ。
翌日、一人で東方臨海府を歩き回った。
理力の感覚を研ぎ澄ませ、呪術の気配を探るけど、全く引っかからなかった。
翼王に誘い込まれて、何か、別の危機が待ち構えているのだろうか。
受け取った書状はずっと持っていた。華書の奥方を危険に巻き込むのは気が引けたけど、しかし、他に頼れる人はいない。
結局、昼過ぎに人に訊ねながら、都風の病院にたどり着いた。
中に入ると、若い女性が出てくる。
「都風殿ですか?」
思わず尋ねると女性は「先生は奥にいます」と言った。人違いらしい。
「華書殿に、ここを頼るように言われまして、お会いできますか?」
「こちらへどうぞ」
あっさりと通されてしまったので、ちょっと驚きつつ、僕は病院の奥へ進んだ。
いくつかの部屋を通り過ぎた先の、明らかに私的な部屋に、その女性はいた。
四十代だろうか。こざっぱりとした服装をしていて、何かの書を読んでいる。僕を案内した女性が頭を下げて去っていく。僕と二人だけになった。
「その」なんて言えばいいのだろう。「華書殿に、ここを訪ねるようにと、言われました。こちらを預かっています」
懐から取り出した書状を差し出す。女性は微かに笑って、受け取り、読み始める。
「あの人は元気そうでしたか?」
顔を上げずに訊ねられた。
「お元気なようでしたが、船が海賊に襲われまして、怪我人の治療で忙しそうでした」
「あの人は仕事が忙しいほど、嬉しいような人間ですしね」
まだ都風は口元に笑みを浮かべている。しかし、華書は疲れていたように見たけどなぁ……。
書状を読み終わった都風が、わかりました、とこちらを見た。
「なにやら事情があるようだから、話を聞くように、と主人は伝えてきました。遠方から旅をしている、とも。どちらからいらしたのですか?」
「はるか西です。もう旅は一年になろうとしています」
「船でお連れの方を亡くされたそうで、お悔やみ申し上げます」
いえ、と答えるしかできなかった。
都風はすぐに話を次に進めた。たぶん、感傷的な空気を早く変えたかったんだろう。それは僕にとってもありがたかった。
「何を探しておられるのですか、龍青殿」
「呼び捨てにしてください、都風殿。僕は、その、父親を探していますが、手がかりはありません。それと同時に、呪術師を追ってもいるのです」
「呪術師? それはまた……」
都風は何かを考えたようだが、何度か頷くと、立ち上がって壁の一面にある書棚の前へ移動した。
「東方臨海府の守備隊に、呪術師を専門に取り締まる部隊があります。えっと、どこだったかしらね」
何かの書類を探している都風の背中を、僕を見ていた。
彼女が小さな声とともに、一冊の書類の束を取り出した。
「十人隊の一つなのですが、その隊長が、段葉殿という方です。奥方の出産を、ほんの半年ほど前にお手伝いしました。住所を控えているので、龍青殿にお伝えしましょう。それと、事の次第を伝える書状を書きます。詳しいことは、龍青殿ご自身で、段葉殿にお伝えしてください」
思わぬ展開になってきたけど、とりあえずは、前に進めているらしい。
都風は書状を作り、一枚の紙に地図を描いてくれた。番地らしいものも書いてある。
「龍青殿、何かあれば、私に話にいらっしゃい。どうもお疲れのようですから、話を聞くことくらいできますよ」
疲れている、か。そうかもしれない。
「ありがとうございます、お言葉に甘えさせていただきます」
「華書の書状を届けていただき、ありがとうございました」
病院を出て、僕は受け取った地図を元に、東方臨海府に分け入って行った。斜面を登っていき、一度、振り返ると眼下に港が見えた。かなり上がってきたらしい。
地図通りに進むと、一軒の家にたどり着いた。周囲に似たような家が並び、ある程度の地位の住人の存在が意識された。
門を抜けて中に入ると、子どもが泣く声が聞こえた。
「すみません、どなたか、いらっしゃいますか?」
声をかけると、遠くで声がした。子供の泣き声も近づいてくる。
すると玄関ではなく、そこに至る道の脇にある植木の陰から、その人が現れた。二十代の女性で、赤子を胸に抱いている。穏やかそうな女性だ。
「どちら様ですか?」
「龍青と申します。段葉殿にお話があって、参りました」
あら、主人にですか、と女性は微笑み、中へ入るように促してくる。
断ろうとすると、赤子がひときわ大きく泣き声を上げた。
「早く入りましょう、龍青殿。子供が寒がって、泣いてしまいます」
仕方なく、家の中に入った。赤子をあやしながら、それでも器用に夫人はお茶を淹れてくれた。ありがたく受け取る。
「突然にお訪ねして、申し訳ありません」
頭を下げると、お気遣いなく、と夫人は笑った。
「私は春来と言います。息子は、段堤です」
春来が微笑む。彼女に都風から受け取った書状を手渡すと、ちらりと見て、「主人がまず見るべきのようです」とこちらに戻された。
赤子が泣くのを、彼女は揺らしたり、部屋を歩き回ったりして、どうにかしようとしているが、なかなか赤子が思った通りにはならないようだった。それもそうか、生きているのだ。言葉も通じない。
「泣けば泣くほど、愛おしくなるのですよ」
急に春来がそう言った。
「赤子は泣くのが仕事ですね」
そう言って、春来は嬉しそうだった。赤子は泣くのが仕事か。その通りだな。
夕方になろうかという時、「帰ったぞ」という声が玄関の方からした。素早く立ち上がった春来が出迎えに行き、彼女と一緒に男がやってきた。
長い髪をひとつに結んでいる。
こちらを鋭い瞳で見てから、その目元に柔らかいものを見せた。
「私に用があるとか、お客人」
僕は深く頭を下げた。
(続く)