8-2 嵐の夜
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船の中の生活はとにかく不思議だった。
まず四六時中、グラグラ揺れている。なので眠るのにも苦労する。用を足すのも地上のようにはいかない。
食事は保存食が多いが、しかし東方臨海府までは五日から六日という話で、最初は比較的新鮮な料理が出た。
船内に調理室があり、そこでは火が使えるのだ。上の方の層にあり、厳密に管理されていて、それもそうだ、火事が起きたら逃げる場所が無いに等しい。
どこにも寄港しないで東方臨海府に直行するので、暇つぶしにも困った。
海に出てしまうと、どうやら北上するときは帆をいっぱいに張れば、櫂で漕ぐ必要は無い。正確には櫂では無いらしいけど、僕にはあまりに縁がなさすぎた。
水夫たちも暇なものは、甲板に寝転がったりしているが、僕はとても真似できない。もし船が激しく傾いたら、そのまま甲板を転がって、海に放り出されそうだった。
実は古龍峡では湖の上を歩いていたけど、理力を習う前、十歳になる前には、師匠の指導のもと、水泳をだいぶやったものだ。海に落ちてもある程度は泳げるだろうけど、しかし湖にはなかった波というものが海にはある。
泳げるか試すのは、今じゃないな。
というわけで船内にいるわけだが、船の護衛をする五人は、ほぼ一日中、札で遊んでいる。
全部で五十二枚の札で、数字が赤、青、黄色、緑で、一から十三まである。手札の五枚を、数字の順番で揃えたり、色違いで同じ数字を集めたりして、どうやらその組み合わせによって強弱が決められている。
こちらも僕にはさっぱりだった。遊びの仕組みは分かるけど、手札を捨てて山札を引いて、手元の組み合わせを変える時、どういう基準で判断しているのだろう。
遊びだから、誰もそこまで真剣に考えないのかもしれない。
それでも最初の一日は、そんな彼らの遊びを観察していた。銭を賭けているようだった。
夕食の時、食堂で医者の老人と会った。初老の男で、しかし髪の毛は真っ白だ。
「見かけぬ顔だな」
食事を終えたその男がやってきて、そう声をかけてきた。
僕が名乗ると、「私は華書だ」と返事があった。
華書は僕をしげしげと見やり、苦笑しながら言った。
「火炎という男が君の相棒だな?」
「え? 火炎を知っているのですか?」
「朝から、吐き気がすると言ってやってきたのだよ。薬を飲ませたが、あれは治らんな」
言われても見れば、火炎は与えられた部屋の寝台にずっと横になっていた。護衛は水夫と違い、二人部屋なのだ。食事に誘った時も、いらん、という短い返事だけだった。
「どこかの病気ですか? まったく知りませんでした」
「病気?」華書が笑い出す。「あれは波に酔っているだけよ。ああいうものが大勢いるのだ。あの大男は水夫にはなれんな。根っからの陸の男だ」
空いている席に腰掛け、華書は僕たちの事情を知りたがった。人を追って、東方臨海府に行く予定だ、と伝えると、あそこはいい、と華書は嬉しそうに笑う。
「できることなら案内したいが、仕事がある」
「行ったことがあるのですね、東方臨海府に」
「行ったことがあるどころか、あそこで生まれ、育ったのだ。家もある。いつか訪ねてきなさい。家内は常にあそこにいる。息子もだ」
それから彼は色々と教えてくれたけど、僕には想像するしかない。
と、ぐらりと一度、大きく船が揺れた。華書が口を止めて、天井を見るような素振りをした。
「今夜は荒れるかもしれない」
今夜、という言葉が意外だった。僕はずっと船内にいたので、すっかり時間の感覚が消えていたのだ。これが夕食というのも、朝日を甲板で見てから三度目の食事だからで、それに、他の護衛たちが遊びを止めて飯にしよう、と言っていたから食堂についてきただけだ。時間を見て来たわけではない。
揺れに気をつけなさい、と言って、華書は立ち上がると、食堂を出て行った。
お茶を飲んで、今までで一番揺れる通路に四苦八苦しつつ、部屋に戻った。火炎のために小さな饅頭をもらっていた。
部屋に入ると、火炎は寝台に伸びている。しかし意識はあるようで、こちらに視線を向けてくる。
「饅頭をもらったけど、楽になったら食べなよ」
「薬が効いているか、よく分からない……、食べてもすぐに戻しそうだ」
「まだ薬は残っている? 華書先生にもらってきてもいいけど」
「まだ、ある。しかし水を飲むと、すぐ外に吐きそうだ……」
相当な重症だな。これで病気じゃないというのだから、海は面白い。火炎には申し訳ないけれど。
小さな壁に据え付けられた台に饅頭を置いておく。しかし、揺れは酷くなる一方だ。饅頭がすぐに転がり落ちそうになる。それくらい船が傾く。
「様子を、見てこいよ、龍青」
呻くように火炎が言った。
「外の様子を、教えてくれ、早く陸地について欲しいんだ」
「船は五日は海の上だよ」
そうだった、と力なく火炎が呟き、声にならない呻き声を出した。
まぁ、外の様子を見る必要はあるだろう。
通路に出て、揺れの中で均衡を保って、上へ上がっていく。
甲板に出る蓋を開けた途端、顔にしぶきがかかって驚いた。
周囲は真っ暗だ。かろうじて見える範囲で、飛沫がかすかに光っている。甲板には明かりがある。
でも闇よりも驚いたのは、地鳴りのような音だ。
海水が渦を巻いて、ぶつかり合い、それでこんな音がするらしい。風が吹き付けるのも、水を伴っているので大きな音になる。豪雨に似ていた。そんな轟音の中で、水夫たちが大声で掛け声をあげているのもわかった。
つまり、この船は夜の海で、大嵐に遭遇しているらしい。
甲板にいた一人の水夫が僕に気づいて、駆け寄ってくる。
「見世物じゃねぇぞ! 引っ込んでろ!」
「ご、ごめんなさい」
あまりの剣幕に、僕は頭を引っ込め、蓋を閉めた。音が一気に消えた。しかし蓋に水が打ちつける音は聞こえた。さっきまで、聞こえなかったのが不思議だ。意識していないせいで、聞き逃したか。
これは長い夜になるかもしれないな。とても眠れるような揺れ方じゃない。
部屋に戻ると、火炎がうつ伏せになり、屈み込むようにして寝ていた。可笑しい姿勢だけど、笑っちゃ失礼だろう。
自分の寝台に横になり、僕は揺れるのをどこか楽しみつつ、目を閉じた。
やっぱり眠れないな、と思いつつ、船の外のことを想像した。
あんな大嵐でも、船はちゃんと進むし、転覆も沈没もしないのだから、素晴らしい技術だ。船を操るのもだし、船そのものを作った人は天才だろう。きっと失敗を繰り返して、今の状態になったはずだ。
どれくらいの時間が過ぎたか、また外の様子をみようかな、と思った。時間がわからないので、それを知りたいのもあるけど、嵐の状態も知りたい。
起き上がって、火炎に声をかけようとした。
と、通路の方で鉦を打つ音が響き渡った。
反射的に寝台の横に寝かせていた剣を手に取る。火炎がのろのろと起き上がるのが見えた。
鉦は敵襲を告げるものだ。これで七人は戦闘態勢で甲板に上がることになる。
「休んでいてもいいんじゃない?」
それでも聞いておくか、と火炎に意見したけど、いらん、という短い返事だけだった。
二人で甲板に上がると、まだ夜で、嵐もまったく弱くなっていなかった。
しかし、こんな中で海賊が?
他の五人の元へ行くと、指揮官役の洪浮という男が遠くを指差した。
そちらを見ると、小さな明かりがチラチラと波の間に見えた。しかし波のうねりが強すぎて、時折、波の向こうに隠れてしまう。
「あれが海賊ですか?」
洪浮が頷いて、怒鳴り返してきた。
「奴らは身軽だぞ! 揺れに足を取られるなよ、新入り!」
実際、小さな明かりは波の中を器用にこちらに近づいてきていた。
想定よりも、大きいな。
(続く)