8-1 海
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目の前の光景に、さすがに息を飲んでしまった。
小さな峠の上から見える、地平線まで続く一面の水。
海か。
「広いなぁ」
思わず声にすると、そうだな、と茶屋で買った、串に刺した鶏肉を焼いたものを齧りつつ、隣で火炎が答える。あまり感慨深げでもないな。
何限新府から東方臨海府に向かうに当たって、二人で相談して、街道を使うよりは海路を使ったほうが早い、と結論を出した。東方臨海府は海に面してあると聞いているし、海路を使えば距離はぐっと短くなる。
遠くに望む海を見ると、少し波が高そうだ。冬は海が荒れるとどこかで読んだ。季節はそろそろ雪が舞おうか、という気候になっている。
「行くぜ」
肉を頬張りながら火炎が坂を下り始める。横に僕は並んだ。
「火炎は船に乗ったことはある?」
「川船程度だな。海は初めて見た。こんなに広いとは思わなかった。船に乗るとして、どれくらい銭を渡せばいいんだろうな? 高いのかな」
「川の渡し船なんかとは比べ物にならないと思うけど」
思わずそういうと、そりゃそうだ、という返事だった。
「船の上で何日も過ごすっていうじゃないか。ちょっと川を渡るようにはいかないし、宿に泊まるくらいの金が必要じゃないか?」
「旅客船はそれくらいだろうけどね」
「なんだ、お前、どこぞの輸送船に紛れ込むつもりか。僕は荷物でござい、って感じにか?」
いけないかな、と火炎を見上げると、彼は顔をしかめている。
「何か、変な悶着が起きそうな気がするけどなぁ。それに、俺たちには水夫をやるような技能がまったくない。一方で、海運をやっている奴らは、専門職だろうさ」
「なんとかならないかなぁ」
「善意に期待するしかないな」
峠を下りて、日暮れまで進んで、小さな宿場に着いた。宿場とは名ばかりで、宿は二軒しかない。料金が安い方を選んだ。
海が近いせいか、不思議な匂いが漂ってくる。生臭い、というか、何か粘っこいのような香りだ。潮の香りだろうか。
ここのところ、どこの宿に泊まっても食事は魚が多くなっている。今日も煮魚だった。それほどの銭を取らないのと比例して、煮魚は小骨を取るのに苦労した。火炎はといえば、口から次々と小骨だけを吐き出している。
夜はゆっくりと休み、早朝、粥を食べてから出立した。
昼間には、港に着いていた。港というのも、初めて見る。見上げるほど大きな船が何層も桟橋に横付けされている。どれくらいが海面の下に沈んでいるのか、想像もできない。
荷夫と呼べばいいのか、大勢の男たちが木箱の山をどんどん船に積み込んだり、逆に船から降ろしたりしている。
そのうちに水夫の大声が響き渡り、そのやり取りの後、大型船の両舷から突き出している櫂が動き始め、巨体が桟橋から離れた。
まるで奇跡のように、船は離れていき、ぐるりと方向を変えると、海に向かって進んでいった。
入れ違いに大型船がやってきて、一度、港の外で停船し、小舟が下されて数人が港にやってくる。何をしていると思うと、桟橋のどこを使うか、確認したようだ。
「行くぜ」
いきなり火炎がそう言ったのは、小舟から降りた三人のうちの一人を残して、小舟が大型船に戻り始めた時だった。残った一人は桟橋に立って、大型船が入港するのを待ち構えている。
そのピリピリした雰囲気の男に、声をかけるらしい。
「ちょっとよろしいですか?」
火炎が声をかけると、男はまず火炎を、次に僕を見て、
「後にしてくれ」
と、にべもない。
火炎は無理押しせずに、男の背後に立って黙った。
やがて大型船が桟橋に着いて、荷の積み下ろしの準備が始まる。
「いいですか?」
悪びれた様子もなく、荷夫たちの仕事を監督している男に、火炎が声をかける。男は不機嫌そうだ。
「なんだ? 何の用だ?」
「荷夫は足りていますか? どこかで働かせて欲しいんですが」
ジロジロと男は火炎を見て、「旅人か?」と言った。火炎が頷くと、またジロジリと視線を向ける。
「その剣は飾りか?」
「いや、本当に使えます。こいつもですよ」
隣やや後ろに立つ僕を、火炎が指差す。僕に向けられる視線には、どうだかな、という色がはっきり見えた。まぁ、確かに僕はひょろひょろしているし。
男はしばらく黙ってから、
「死んでもいいならついてこい」
と、身振りで僕たちを促した。
どういうわけだか、働けるようだ。しかし死んでもいいならなんて、荷夫の仕事で、命の危機なんてあるのか?
案内された先は入港したばかりの船で、桟橋から甲板まで渡された板で乗り移った。急勾配だ。
甲板の一角で話っている男二人に引き合わされたけど、片方の男を見たとき、僕の心は一気に引き締まった。火炎も何も言わず、しかしかすかに緊張している。
男は腰に剣を下げていて、今も船はかすかに波で揺れているのに、重心が乱れることがない。重心が逆に不自然に見えるほど、ピタリと止まっている。
「谷来殿、こちらの二人をどう見ますか?」
案内してくれた男が、武人らしい男に声をかける。谷来という名前なのか。
谷来は静かな瞳で僕たちを見て、「悪くはないですな」と低く濁った声で言った。
それから男たちが何か話し合いを始め、最終的には谷来が、僕たちを船の護衛に加えると、宣言した。
谷来に案内された船内の部屋は、酒場のようだった。四人の男が卓を囲んで、笑っている。谷来が歩み寄ると全員が少し居住まいを正した。
「この二人を部下にした。名乗ってくれ」
促されたので、火炎です、龍青です、と答える。よろしくお願いしますと、二人ともが付け加えたけど、実際、僕にはあまり状況がわからない。
四人も名前を教えてくれた。
「最近、海賊が横行している。前の航海で二人が死んでね、その補充がお前たちだ」
やっと谷来が説明してくれた。そういう事情かと腑に落ちた。谷来は、僕たちに「こいつらから事情を聞いておけ」と言って、部屋を出て行ってしまった。
四人の男たちが言うには、海賊は船をすぐ横につけて、飛び移ってくるらしい。死んだ護衛の一人は、海賊に切り倒されたということだった。
もう一人は、海に突き落とされ、そのまま回収できなかったようだ。
「落ちた奴は探したが、縄を投げる間もなかったよ」護衛の一人が気軽な調子で言う。「まぁ、よくあることさ。戦いの中で選択肢の一つなんだ、海に突き落とすっていうのは。覚えておくといい」
そんなこと言われても、人を海に突き落とすというのは、どこか残酷な気がして、今は思いきれるかは謎だった。
装備について確認すると、剣だけで、鎧は身に付けない、と返事があった。それは都合がいい。僕も火炎も、鎧はないのだ。
護衛の一人がじっと火炎を見る。
「そのでかい剣は置いていった方がいいな。邪魔になるし、重いだろ」
「これが俺の唯一の得物だよ。これ以外を使うことはない」
「海に落とすのが関の山だ」
ワッハッハと護衛たちが笑うが、火炎もどういうわけか笑っていた。
荷の積み込みが終わったと、水夫の一人が報告に来た。護衛たちは返事をしただけで、動こうとしない。僕たちは断って部屋を出て、甲板に上がった。
水夫たちが大声で意思疎通をしている。
船の揺れが少し変わって、桟橋が離れた。いつの間にか碇も舫い綱も外したらしい。
僕と火炎は甲板で、陸地が離れていくのを眺めていた。
(続く)