7-7 塗りつぶす
◆
人間はみんな愚かなのか。
それを考えつつ、僕は冬の道を歩き続けた。どこをどう歩いたのか、どこへ向かっていたのか、何もわからないまま、景色が流れていった。
雪が降り始め、道の脇にある社のようなところで僕は寒さを凌いでいた。
誰かが通りかかり、足を止めた。
「なんでそんなところにいる?」
低い声、年齢を感じさせる男の声だ。どこか乾燥して、過ごした年の気配が滲む声。
「宿に泊まれ、小僧」
僕はどう答えることもできず、社の中に腰を落としていた。
「銭がないのか? 出てこい、ほら、早く」
促されても、僕は動けなかった。いつの間にかずっしりと疲れていて、体が強張っていた。
男がヌッと社の中に乗り込んできて、僕の腕を掴むと力任せに引っ張り上げた。
軽いなぁ、などと言って、男が僕を背負うと、社から出て道を歩き出した。人に負ぶわれるなんて、ほとんど経験したことがなかった。
男は蓑のようなものを着ているが、それでも背中は暖かい。
いつの間にか眠ってしまい、目覚めると、どこかの室内だった。
「起きたか」
声の方を見ると、例の男が酒を飲んでいた。菅笠を脱いでいるので、頭が禿げ上がっているのが見えた。声よりも高齢に見える外見だ。
部屋は、どこかの宿のようだ。一間しかない。
男が手元の瓶から、盃に液体を注ぎ、ぐっとこちらに差し出す。匂いで酒だとわかった。
「飲め」
「まだ子供ですよ」
「暖まるぜ。やれよ」
やめておきます、と丁寧に断って、彼のそばに寄る。彼のそばに火鉢があるからだった。手をかざすと、ほんのりと暖かさが漂ってくる。火箸で男が火鉢をいじる。
「あんなところで何をしていた?」
「寒さを凌いでました」
「凌げるものか。あのままだったら、今頃、凍死だ」
この人はなんで僕を助けてくれたのか、今になってみると不思議だった。善人なんだろうけど、本当の善人が果たして、世界にいるのか。
「雪がやむまで、ここにいろ。俺もそうする」
「あなたは、何をしているのですか?」
「ただの旅人だよ。目的地もなければ、そもそも目的がない」
不思議なことを言う人だ。
僕がじっと見つめると、小僧はどうなんだ? と話を向けられた。
「似たようなものです。でも、帰る場所はあります」
「そいつは結構。羨ましいよ。さっさとそこへ帰れ」
「でも、何かを見つけないと、帰れない気がしているんです」
鼻を鳴らした男が、盃を煽り、すぐに次の一杯を注いだ。
「旅をしても、何も見つからないさ。人間、見えるものはどこにいても見えるし、見えないものはどこにいても見えない。人間なんて、愚かなもんだ」
またその言葉だ。
人間は愚かだと、みんな言うじゃないか。
では賢しげにそういう人は、愚かではないのか。
自分の愚かさをどうやって許容するのか。
「何か言いたそうな顔をしているな、小僧。言ってみろ」
「あなたは愚かではないのですか?」
「俺か? 俺ほど愚かなものは他にいないほど、愚かだよ」
僕は思わず彼の瞳を真っ直ぐに見てしまった。
瞳の底に、自嘲のようなものがチラリと覗いた。
「お前は自分が愚かだと思わないのか?」
「思っています」
「ならお前はやっぱり愚かだが、しかし、愚かさに気づかない愚か者よりはまともではある。こういう妄想は、旅の空の下で、どうしても伸びちまうもんだなぁ。敵わんよ。お前もさっさと旅をやめろよ。どんどん、バカみたいな問答ばかり考えちまうぞ」
僕はただ男を見ていたけど、彼はもうこちらを見ない。嬉しそうに、一人で盃を傾けては酒を注ぎ、傾ける。
愚か者か。
僕は愚かで、でもそれを知っている?
いつか、愚かさを意識しないでいられるのかな。
夜が明けると、男が酒瓶を片手に立ち上がり、窓を開けた。一晩があっという間だった。眠らなかったのが不思議だけど、寝る間もないほど、短い夜だったようだ。
「いい景色だな」
宿の裏庭に、雪が降り積もって、全てが真っ白に染まっている。さらに雪はちらほらと落ちてきていた。
「人間の汚れも、雪が塗り潰してくれれば、さぞかし、嫌なこともないだろうよ」
男がそう呟いて、酒瓶で直接、酒を飲んだ。
振り返って、男は少し照れたようだった。
「酔ったかもしれない。酔っていると、恥ずかしいことを言ってしまう」
俺は寝るぞ、と言って男が瓶の中身を空にすると、僕が寝ていた布団に潜り込み、いびきをかいて、眠ってしまった。
変な男だけど、好きになれそうだった。
それに何か、大事なことを知っているようにも思えた。
僕は長い間、窓の外の庭を見ていた。
ちらちらと、雪が舞い降り続けていく。
◆
火炎が呆れたように言う。
「それで、お前はどうやって古龍峡に帰ったんだ?」
「雪を踏み分けて帰ったよ」
「旅費はどうなった?」
恥ずかしいので、その質問には答えなかった。
ちなみに僕と火炎を送り出す時、師匠は僕たちに幾ばくかの銭と一緒に、金の粒と銀の粒の入った小袋を渡してくれた。それを必要に応じて銭に変えて旅をしているのだ。
つまり二年前のあの春にも、師匠の手元には一財産があったわけで、僕に少ない額しか与えなかったのは、まさに、試練というか、訓練だったことになる。
あの一年に及ぶ旅で身についたことは、本当に少ない。
理力使いとしての自分を隠すこととか、悪党がどこにでもいるということとか、その程度のことだ。
ただそんな中でやけに印象深いのは、波留の最後の言葉と、あの雪の庭だ。
何がそんなに心に引っかかるかは、まだ答えが出ない。
愚かな人でも、美しいものを美しいと感じることはできる。
それが何か、重要な気がする。気がするだけ、かもしれないけど。
「雪の中の屋外で凍えても風邪をひかない奴が、暑苦しい場所で倒れるとは、わからんものだな」
火炎が呟く。何も言えないので、黙っていた。
「で、その旅をしていたおっさんはどこへ行った?」
「知らないよ。雪が止んだ時、宿で別れたきりだから。二度と会っていない」
「名前を聞かなかったのか?」
「僕も名乗らなかったしね。旅の空ですれ違った、ということだよ」
何をカッコつけたことを、と火炎が僕の肩を叩き、すぐに、それもいいか、と呟く。
「人間なんて、すれ違うのがほとんどだよな。広い目で見れば、全部がすれ違いみたいなものだし」
「達観しすぎだよ。あの人と僕は、そんなに他人に興味がなかっただけだと思うけど」
「どうだかね」
視線を火炎へ向けるけど、あまり感情を覗かせない。
昼過ぎの街道で行き交う人は多い。前方で止まっている荷車が見えた。四人で移動させている大きな荷車だ。一人が負傷しているようだ。
こちらを火炎が見下ろした。
「助けるとか言いださないよな」
「言い出すよ」
僕は小走りに荷車に駆け寄り、声をかけた。
「どうかしましたか? お困りですか?」
四人が同時にこちらを見た。
僕は控えめな笑みで彼らの視線を受け止めた。
(第七部 了)