1-5 火炎
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宿屋の番頭さんは不思議そうな顔をしていた。
「食事を出せるかい?」
当たり前だけど、剣を向け合っている時とは別人の様子で、火炎が番頭さんに訊ねる。
「は、はい、簡単なものなら」
「金を渡しておく」
服の懐から、数えもせずに銭を番台において、「部屋に行くぜ」と促されるが、なんか、宿屋における僕の印象がどんどん悪くなっているのでは。
部屋に上がり、少しすると、まずお茶が来た。
「で、お前は何者なんだ? 龍青」
「それは……、ちょっとした買い物のために、山から下りてきて……」
「山? 仙人か何かか?」
火炎がやけに小さく見える湯飲みを揺らしつつ、問い返すけど、どう答えたらいいか……。
理力や理力使いのことは黙っているように、と師匠に教わっている。
でももう、僕は火炎に理力を見せてしまったわけで、それは如何ともしがたい。
「思い出した」
急に火炎がそう言って、湯飲みを置いた。
「この辺りで、変な術を使う奴がいるという話だ。山を越え、谷を越え、空さえも飛ぶらしい」
「それはさすがに噂だよ」
「お前、空を飛べるんじゃないか?」
まさか、と笑うしかない。実際、空は飛べない。
「呪術か?」
「呪術じゃない。怖いじゃないか、あんなもの」
「しかし、剣術を高めたくて、呪術に走る奴もいるかもしれない。それくらい、お前の剣術は異質だよ。気づいてないのか?」
「師匠に恵まれてね」
そう応じるしかない。
事実、僕には無数の先生がいて、彼らが全てを教えてくれた。初めからじゃなくて、ここ数年のことだけど。
「そういう火炎は、何をしているわけ?」
「話した通り、旅だよ。行くあてもないし、会いたい奴も、待っている奴もいない。ただの旅だな」
「どこから?」
「遠くだよ。東の果てだ」
この国、永と呼ばれる大きな国の東には山脈があり、その一角はここのすぐそばで、つまり古龍峡だ。そこから連なっている峰々の向こうには砂漠と呼ばれる、果てまで砂が満ちた場所があると聞いている。でも僕は見たことはない。
「火炎は砂漠から来たの?」
「まあな」ちょっと苦い表情で火炎が応じる。「その向こうに行こうともしたが、それはできなかった」
「その向こう? 砂漠の向こうってこと?」
「そうだ。砂漠の国もこの国とは違う言葉をしゃべるが、砂漠の向こうの国も、別の言葉を使う。たまに商人がやってきたよ。なんでも砂漠の向こうにもちゃんと森や川があって、畑もあって、村も街もあって、城もあって、つまり、国がある」
そんなこと、今まで聞いたことがなかった。
「じゃあなんで、そこへ行かなかったの?」
「だから事情があるんだよ、事情が」
湯飲みの中身を飲み干した火炎が、急須を手に取ろうとした時、戸の向こうから声がかかり、料理が運ばれてきた。
この宿に泊まって、初めて見るちゃんとした食事だった。
火炎は作法も何もなく、食べ始めた。
「さあ、龍青、お前の番だぞ」
「何が?」
「話をする番ってことだ。俺は自分の過去を話した。次はお前」
大して話していないじゃないか、と思ったけど、僕はちょっと考えて、言葉にした。
「僕は両親を知らない。ずっと昔に亡くしているんだ」
「それで?」
「どういうわけか、僕は山奥にいる親戚でもなんでもないお婆さんに預けられた。そこで今も、過ごしている。ここにいるのは、買い出しのためで、すぐに山に帰らなくちゃいけない」
ふーん、など言いつつ、火炎は雑な手つきで焼き魚を解体している。
真面目に聞いているのかな?
「じゃあ、その婆さんがお前の師匠か?」
「そうなるね」
「婆さんが剣術を教えられるとは思えないが、それはどう説明する?」
「でも事実だよ。山の中には僕と師匠以外いない」
わからんな。そう呟いて、焼き魚を口に放り込むと、空いている器に器用に骨だけ吐き出している火炎も、僕からすればよくわからない。
「今更だけど、儲けた金を全部ばらまいちゃって、どうやって生活するの?」
「え? さっき、懐から金を出しただろ。見てなかったか?」
「いや、見てたけど、えっと……」
食事中にも構わず、火炎が懐に手を突っ込み、ひと摑みの銭を床に置いた。もう一回、懐からひと摑みの銭が出てきた。これだけでも相当な額だ。
「ちゃんと必要な分は確保してばら撒いたさ」
なんとも、要領のいい男だな。僕は感心してしまった。
「なんにせよ、お前はその山とやらに戻らなくちゃいけないんだな?」
銭をそのままに、今度は煮物をガツガツ食べつつ、火炎が訊いてくる。ちなみに僕は行儀良く食べているので、まだほとんどの料理は手付かずだ。
「惜しいなぁ。一緒に旅をしようと思ったんだが」
「旅? さっきみたいなことをして、旅をするってこと?」
「興味あるのか?」
ちらっとこちらに火炎の視線が向いたので、僕は素早く、そしてさりげなく見えるように視線を逸らした。
興味が、湧いたのだ。実は。間違いなく。はっきりと。
でもそれは僕には許されないと、すぐに押し隠した。きっと、火炎には見抜かれてしまっただろうけど。
「山に何か、重要なものがあるのか?」
汁を勢いよくすすりながらの火炎の声に、僕は焼き魚に集中するふりをして、視線を向けずに、応じる。
「あると思っているけど、ないのかもね。でも少なくとも、あそこには師匠がいる。放ってはおけない」
「案外、師匠もお前を独り立ちさせる時期を探っているかもよ?」
「そんなこと、あるかなぁ」
思わず笑っていた。
「大人なんて、そんなもんさ」
そう言う火炎の口調が、まるで子どもで、外見に不似合いで、また笑ってしまう。
「僕は十六歳だけど、火炎って何歳なの?」
「俺? 十八」
ぎょっとして彼を見ると、「年寄りに見えるだろ?」と火炎は笑っている。
「これでも苦労人でね。まぁ、そういう反応には慣れっこだ」
どう答えることもできず、しばらく食事に意識を向けた。
僕が食べ終わるまで、火炎はじっと待っていた。
「頭を下げてでも、頼みたいんだが、いいか、龍青」
「う、うん」
「お前がいる山を教えてくれ。できればこのままお前についていきたいが、俺には俺で用事がある。しかも一週間はかかる。用事が片付いたら、すぐにお前の後を追うよ。目印とか、方角とか、教えてくれないか?」
ここでデタラメを教えたり、そもそも教えない、という選択肢もあった。
でも僕は何を思ったか、古龍峡にたどり着く道筋を、かなり細かく教えていた。火炎は何かに書き付けるわけでもなく、じっと耳をすませ、覚えようとしているようだった。
だいぶ複雑な経路なので、いきなり言葉で聞いても、わからないかもしれない。
「紙に書こうか?」
そう訊ねると、もうわかったよ、と火炎は笑う。剛気な、気分のいい笑みだ。
「また会おう、龍青」
そう言って火炎が立ち上がる。僕は彼を見上げた。
「また会おうって、どう答えていいか、わからないよ」
「寂しいことを言うなよ」
笑って、火炎が部屋を出ようとした。
その時だった。
一階で大きな音が鳴ったのは。
(続く)