7-2 優しさ
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連化村を離れて、しばらく僕は人気のないところを選んで生活した。
でもそんな環境で、今まで通りで居られるわけがない。
すぐに着物は汚れて、匂いを発し始める。川で体を洗っているから、まだどうにかなりそうだが、そんな正体のわからない子供を、まともに相手にする大人はいなかった。
食べ物に困ると、どこかの店で買い求めるけど、異常な値段をふっかける店もあるし、露骨に嫌な顔をして商品を売らない店もある。
ひとところに留まると異質なものを見る目で見られて、それが嫌で、ふらふらと放浪を続けた。
袋の中にある銭は着実に減っていて、僕には働き口どころか、落ち着く場所もない。
大きな川を渡る気になり、しかしやはり渡し賃が勿体無いので、夜の間に川面を歩いて渡った。夜明け間近、渡った先で、渡し舟の業者が開店の準備をしているところに出くわし、僕を見てぎょっとしていた。それもそうだ、僕が来た方には川しか無い。
「ど、どこか来たね、坊主」
どう答えていいかわからず、そのまま黙っていると、渡し舟の船頭は妖怪でも見たような目でこちらを見て、もう何も言わなかった。
少し歩くと、小さな店があった。老婆がやはり開店の支度をしていた。
「もし」
声をかけると、老婆は目を丸くしたが、すぐに穏やかに笑みを見せた。この時の僕はそれさえも信じようと思えない状態だったけど。
「食べ物はありますか?」
「ええ、ええ、ありますよ。中へお入り」
「いえ、外で待っています。ご迷惑でしょうから」
バカ言うんじゃないよ、と老婆は言葉とは裏腹に微笑み、僕の手を引いて、中に招き入れた。
老婆の夫だろう老人が、蒸し器をいくつも世話していた。老婆が何か囁くと、その老人が二つの饅頭を出してくれた。蒸したてで湯気が立ち上った。
「銭はいらないよ。ゆっくり食べなさい。今、お茶を出すからね」
「いえ、銭を払います」
「なら一枚でいい、と言っても、その様子だと嫌かね?」
老婆の言葉に、無性に腹が立つのを感じた。憐れまれている、子供だと思われている、そうい
う思いが、どうしようもなく腹の底で煮えたぎった。
「銭一枚だ、坊主」
老人が急に言ったので、反射的にそちらを睨んでいた。老人はニヤニヤしている。
「銭一枚だけ置いて、服を着がえろ。ちょうど人手が足りなくてな」
「人手……?」
「一日でいい、手伝えよ。さあ、熱いうちに食って、体を流して、服を変えろ」
何が何だかわからないが、老婆がすぐに着替えを持ってきて、僕は店の裏で頭から水を浴び、その服に着替えた。
何をするのか、全くわからなかったけど、そこは老婆が指示を飛ばす。
日が高くなると街道に人が大勢現れ、店に寄るものも多い。
お茶の注文、饅頭の注文を聞いて、銭をやりとりするのだが、店の二階の座敷に注文を聞きに行ったり、次はお茶やらを持って駆け上がっては駆け降り、また駆け上がり、目が回るとはこのことだった。
日が暮れるまでそんなことをして、人の往来が途絶えた時に、店は閉店になった。
「こんなところまで何をしに来たの?」
閉店後の一階の小さな座敷で、僕は老夫婦と向かい合って、饅頭の残りで夕食にしていた。
「世間を、その、知るために……」
「世間? どこから来たんだね」
「南の山奥です。その、人がほとんどいなくて」
まるで仙人ねぇ、と老婆が笑った。それから少し静かになり、老婆が呟いた。
「その着物はうちの孫のために用意したのだけど、疫病で死んでしまったと聞いて、誰も着る人がいなくてね。差し上げますから、大事に着てくださいね」
「いえ、お返しします、大事なものでしょうから」
「誰かが着ている方が、嬉しいものですよ」
老婆は笑っているが、隣のご主人は苦り切った顔だった。
「本当はな、坊主、私も妻も、お前に孫の姿を重ねてしまった。何も示し合わせず、でも二人が同時に、お前を見てそう考えたんだよ。今日は、いい夢が見れた、そう思うことにする」
「あ、あの」
僕はとっさに声を発した。
「しばらく、ここで働かせてくれませんか? なんでもしますから、十日、いえ、五日でも良いんです」
「それはいけないよ、坊主」
ご主人がかすかに顔を伏せた。表情は影でよく見えなかった。
「このまま坊主をここに引き止めると、私たちはお前をいつまでも手元に置きたがるだろう。でもそれはお前のためにならん。むしろお前を、飼い殺すようなものだろう。だからお前は明日の朝、ここを出て行く。それは絶対だ」
思わず、救いを求めるように老婆の方に視線を移した。
彼女は、何も言わずに、やはり顔を伏せていた。
僕はどう言うこともできず、沈黙に耐えきれずに「申し訳ありません」とだけ、口にした。
その夜、二人の老人はもう何も言わず、布団を用意してくれて、僕は一人で二階の座敷で眠った。眠ろうとしても、なかなか寝付けなかったけど、目を閉じて、じっとしていた。
どこかで誰かが声を忍ばせて泣いている声がして、それが僕を余計に切なくさせた。
ここに僕がいれば二人も、僕も、幸せなんじゃないか。
でも二人は、僕を送り出すと言っている。
なんでわざわざ、充足を捨てるのか。僕はいずれ、古龍峡へ戻るわけだけど、それまでの間、楽しく、幸福の中で暮らせるはずだ。
それが僕をダメにするなんて、あるだろうか。
気づくと夜明け間近で、老夫婦が仕込みを始めたのが物音でわかった。
布団を片付けて一階に下りると、朝食の饅頭が用意されていた。
「さ、召し上がれ」
老婆は昨日の夜とは打って変わって、穏やかに笑っている。主人も、笑顔だった。
三人で慌ただしく食事をした。僕は借りた服を着たままで、どうやって返そうか、と考えていたけど、うまく話を切り出せなかった。結局、返すことはできなかった。
そのまま荷物を持って、僕は街道に立った。老夫婦が見送りに出てきてくれて、腹がすいたら食べるように、と饅頭をもたせてくれた。
「達者で暮らせよ、坊主」
「ありがとうございました」
「もし気が向いたら、また訪ねておいで」
老婆が歩み寄ってきて、僕の手を掴み、少しの間そのままにしていた。
すっと離れた時に、老婆がさりげなく目元を指先で拭ったのは、見なかったことにした。
礼を言って、僕は店を離れた。
振り返るのが怖くて、しばらくは前だけを見て歩いた。それでも耐えきれずに振り返ったけど、幸か不幸か、その時にはもう店は小さく見えるだけで、二人の老人の姿は確認できなかった。
僕はゆっくりとした歩調で、歩き続けた。
季節は春が過ぎ去り、夏になろうとしている。
街道を走る飛脚が僕を追い越していく。
と、前方で荷車が立ち往生しているのが見えた。一人が引っ張り、一人が押していたようだが、二人のうちの片方の男が足を押さえて倒れ込んでいる。
「どうかしましたか?」
思わず、僕の方から声をかけていた。
(続く)