7-1 山の下の世界
◆
風邪をひいたことがなかった?
そう言って火炎がこちらを見た。
場所は街道にある小さな店で、僕たちは休憩と同時にここでお昼ご飯を済ます気になり、店の中の席で料理が運ばれてくるのを待っているところだった。
「風邪をひいたことがないって、熱とか出なかったか? 腹を下したことは?」
「熱が出たのもこの前が初めてだよ。そういう症状があるのは知っていたけど、師匠も僕も、あの山では熱を出したりしなかった。腹を下したことはあるけどね、悪くなったものを食べたり、変なキノコを試してみたりして」
「あそこは何か、病気とは無縁かもしれないな……」
どういう気持ちなのか、火炎は顔をしかめている。
「病気になろうにも、人と接することもないし、そのせいかもね」
「前の話だと、十歳の時にはもう山にいたんだよな」
「両親は僕が一歳になる前に、あそこに置いていったから、もっと前から守られていたことになるけど」
酷い親もいたもんだ、と呟く火炎に、僕はおもわず笑ってしまった。両親の事情はまだ僕ははっきり知らない。師匠は知っているはずだから、いつか、教えてくれると、なぜか信じることができた。
店員がやってきて、丼を二つ、置いていった。ふたを開けると、中には黒いスープがあり、中に麺や具が沈んでいた。箸を手に取り、それぞれに食べ始める。なかなか美味い。山を降りてから色々なものを食べたけど、どれも新鮮で、美味い以外に思えない。
別に師匠の料理に不服なわけじゃないんだけど。
「それで、いつ山の外を知ったんだ?」
ずるずる麺を啜りつつ、器用に火炎が訊ねてくるのを、僕は箸を止めて、答える。
「十四歳の頃だから、二年くらい前だね」
「ちょっとしたお使いか?」
「いや、違うよ、一年くらい、下に降りていた」
へぇ、とわずかに目を丸くする火炎だが、食事はやめない。
「武者修行みたいなものか?」
「まぁ、おおよそはそんな感じ。でも武術を試したわけじゃなくて、人間を知るための時間だったよ」
「あの山奥には人間はいないからかな」
思わず苦笑いしてしまう。まさしく、その通りだし。
僕はぼんやりとあの一年のことを思い出し始めた。
◆
僕が十四歳になった初春のその日、師匠が急に小さな袋を僕の前に置いた。
「この銭をお前に渡す。大切に使うんだよ」
「銭、ですか?」
話を筋が見えないまま、袋に手を伸ばし、中を覗くと相応の額がありそうだった。
いつか師匠が渡してくれた十枚の銭は、この一年で半分になっていた。山に迷い込んできた、材木を売る商売をしている男が持っていた小刀と交換したのだ。
彼は「こんなボロのどこがいいんだよ」と笑ったけど、五枚の銭と交換してくれた。
その小刀は意外に使い勝手がよくて、木を削って細工する時に重宝していた。たまに自分で研いだりもする。
それはさておき。
「こんなに銭をもらって、どうすればいいのですか?」
「山を降りて、一年、それで生活するのだ」
「はあ」
全く実感がわかなかった。そもそも、銭の価値を相対的にしか知らない。この袋の中身で、人を泊めて金を稼ぐ店に一年、い続けられるとも思えなかった。直感的にだ。
だって、もしそれだったら、何の訓練にもならない。
順当に想像すれば、この銭をやりくりして、一年だけ、自分で自分の面倒を見ろということで、何もしないでいれば、たちまち野垂死に、ということもあるのかもしれない。
師匠がそこまで乱暴かどうかは、ちょっとわからないけど。
「これも渡す」
そう言って師匠が差し出したのは、地図だった。
「ここら一帯の地形が書かれてる。行きたい所に行けばいい。一年だぞ。一年で、戻ってきなさい」
「いつ出立ですか?」
「今、としようか」
い、今?
「荷造りをして、日暮れまでには立つように。達者でな」
師匠はそう言葉を残して、自分の部屋に入ってしまった。何か聞き返せる気配でもない。
参ったな。
日はかなり低いところにある。とりあえず、急いで支度をしよう。
袋の中の銭を勘定するのも、すぐには無理そうだった。まずは地図を見て、おおよその方向を決めた。北を選んだのは、南にある集落へ抜けるには、太い川を越える必要があり、地図にも渡し舟の行き交う地点が書いてあったからだ。ただ、その渡し賃を節約したいがために北を選んだのだった。
着替えがどれだけいるのかもわからず、いい加減に荷造りするしかない。
例の猟師からもらった一枚の銭は、持っていくことにした。使わないように、腰にある帯の裏に素早く縫い付けた。
カラスがどこかで鳴いている。もう日が暮れるか。
師匠に言われた通りに、僕は夕日の中をさっさと山の中に入っていた。
野宿は何度も経験があるし、山は庭のように知悉している。
深夜に少し休んで、翌日は早く山を抜けられるように、早く起きて歩き出した。
食事は師匠が隠していた、小屋からくすねてきた干し肉を食べた。例の万能の小刀は、ここでも活躍する。
肉を噛み締めながらも歩き続け、川を水面を歩く離れ業で通り過ぎ、いよいよ斜面を下っていく。遠くに畑が見えた。すぐ見えなくなったのは、視点の高さがそれだけ下がったからだ。
今も荷物の中にある地図には、このまま下へ行くと連化村、という小さな集落があるはずだ。初めから目をつけていたので、まずはそこで一晩でも、過ごさせてもらおう。銭はあるし、十分に謝礼もできる。それから仕事の口がないか、探ればいい。
山の上で感じる夕日とはどこか違う夕日の中、僕は連化村にたどり着いた。
一番近いところにある家の戸を叩いて、声をかける。
「もしもし、どなたか、いらっしゃいますか?」
奥から声がして、戸が開いた。目元にきついものが見える女性がこちらを見下ろしてる。
気圧されてはいけない、と思い直して、頑張って穏やかな表情を作る。
「一晩、泊めていただけますか?」
「あんたが? 一人で?」
「はい、一人です。どこか隅の方でもいいので、夜露をしのがせてください」
女性はジロジロと僕の様子を見てから、小さな声で言った。
「銭は?」
「あります」
「先に払っておくれ」
僕は荷物から例の袋を取り出し、「いくらですか?」と聞いたけど、女性はこちらを睨むばかりで、答えない。
「あの、いかほどでしょうか?」
同じ内容だけど、ちょっと口調を変えてみせる。やっと気を取り直して女性が額を口にしたので、それだけを渡した。
部屋に入ると、女性の夫らしい男が酒を飲んで横になっていた。横になりながら杯を口に運ぶとは、なかなか器用だな、などと考えて、凝視してしまった。
その男にさっきの女性が何か耳打ちして、二人で話し始めた。
僕はあまり相手にもされず、しかし布団を貸してくれるという。場所は部屋の隅だったけど。
これならいい具合の始まりだな、と感じつつ、僕は布団にくるまって、眠った。
まあ、これこそが油断だった、と後になってわかるわけだけど、とにかく、眠ってしまったのだ。
翌朝、誰かに肩を小突かれたので目を開けると、例の酒を飲んでいた男性がすぐそこにいて、酒臭い息をさせながら何か言った。起き抜けでよく聞き取れない。
「なんですか?」
「泊めてやったんだ、持っている銭は全部置いていきな」
……なるほど、とまず思った。
こういう人もいるのだ。でもこの男よりも僕の方が腕が立つのは、まず間違いない。
組み伏せて、このまま小屋を出るべきかも知れない。
おい! と怒鳴りつつ、男が組みついてきたので、僕は素早く体を入れ替え、逆に男を床に叩きつけ、背後に回って腕を極めた。
「や、やめておくれ!」
何かが床に落ちる音の後、昨日の目元がきつい女性が、僕に飛びかかってきた。
「やめなさい! 放して、放しなさい!」
僕は素直に男を解放し、女性もいなしておいた。女性がバッタリ倒れる。
それが怒りを誘発したらしく、拘束を解かれたばかりの男が性懲りも無く、飛びかかってくる。
「やめておくれ! やめておくれよ!」
女が叫ぶ。誰に言っているんだろう?
結局、僕は男を当身で気絶させ、女性がそれにすがりついているのを横目に、一人で荷物を持って家を出た。
外では、騒ぎを聞いた村の人たちが、遠巻きにこちらを見ていた。
僕は行くあてもなく、歩き始めた。
つまり、出だしは最悪だったわけだ。
(続く)