6-2 看病
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こいつは参ったぞ、というのが俺の最初の感想だった。
いきなり龍青が倒れたのだ。何かの冗談かと思ったが、意識を失っている。脈はやや早くて呼吸が荒く、熱がある。
宿のものに頼んで医者を呼んでもらい、やけに長く待った気がするが、それは俺の錯覚だろう。
医者は龍青の様子を見て、「風邪ですな」とさらりと診断し、薬とその調合表を書き記して、去って行った。もちろん、銭は渡したが、相場がよくわからなかった。
ここまでの旅で医者の世話になったことなんて、一度もなかった。
意識を取り戻さない龍青にどうにかこうにか、こちらは薬師に頼んで手に入れた薬を飲ませ、あとは見ているしかできない。歯がゆいが、まさか放って外へ出て行くわけにもいかない。
宿を動くこともできず、しかし宿のものは事情を知っているので、それなりに気を使ってくれたようだった。もう女中が長く相手をすることもない。それは病気をもらわないためかもしれないが。
そうして二日が過ぎ、短い時間、龍青が意識を取り戻した。瞼が開き、俺を見て、何か言おうとしたが、言葉になる前に呼気に変わり、彼はまた眠りに落ちた。
もう一度、医者を呼ぼうか思っているところで、訪ねてきたものがいる。
紅樹だ。
唐突に背後に立っていて、驚いた。
「お、お前、どこから……」
紅樹は何も言わずに、龍青のそばに座り、脈を取ったりしている。
彼女がどこから入ってきたかといえば、いきなり天井の板の隅、端にある一枚を静かに外したらしい。俺はまった気づかなかったが、天井の板は今も外れていて、屋根裏が見えている。
「あー、薬を飲ませているから、回復すると思うぞ」
「薬?」ギロッと彼女の瞳が俺を睨み据えた。「どんな薬?」
これだ、と医者が置いていった書き置きを渡す。彼女はじっとそれに視線を注いでいる。
「薬の知識があるのか?」
「もちろん」
何がもちろんなんだ?
書付が俺の手元に戻ってきて、紅樹は少し落ち着いたようだった。
「何日目?」
「三日目だ」
紅樹は返事をしない。なんとか言ってくれよ。でもこいつが何も言わないっていうことは、問題ないっていうことだろう。
と、前触れもなく紅樹が立ち上がった。とにかく、予測を許さない奴なのだ。
「あんたには護衛くらいしかできないんだから、しばらくここにいなさいよ」
「お前もここにいていいんだぞ」
「私は私でやることを決めている。明日の夜、また来るから」
返事も待たずに、まるで猫のように飛び上がると、そのまま彼女は屋根裏に消え、今度こそ板はピタリと元の位置にはまった。あそこから誰かが出入りするとは、どんなに注意深い人間でも気づかないはずだ。
しかし、やることを決めている、か。まぁ、あいつはあいつで油断がないし、任せていいだろう。
俺はじっと部屋の隅で、龍青が目覚めるのを待った。
日が上がって、蒸し蒸しするので、窓を開けた。日差しがきつい。龍青が汗を掻くので、水を飲ませつつ、汗も拭ってやる。借り物の団扇であおぎさえする。我ながら甲斐甲斐しいことだな。
食事も部屋で取るし、風呂もその日は遠慮して、じっと龍青を観察する。もし急変を見逃して取り返しがつかないことになったら、俺が紅樹に殺される。間違いなく。それも残酷な方法で。
夜になり、かすかな音ともに天井からまた紅樹が降りてきた。
「風呂にでも入ってきなさいよ。私が見ているから」
感謝して、俺は実に二日ぶりに風呂に入ったが、どうも落ち着かない。
それでもと湯に浸かっていると、例の商人がやってきた。四十か五十程度の男で、頭が禿げ上がってる。腹には贅肉が垂れ下がっている。
「おや、お兄さん、まだこちらに?」
「連れが倒れまして」
正直に打ち明けると、それはそれは、と彼は少し顔をしかめた。
「昨日も例の殺人鬼が出ましてね。守備隊が動いているそうです」
へぇ、としか答えられない。
守備隊は永という国の軍隊の一つで、五つの都市を中心に展開する、治安維持のための部隊が、守備隊と呼ばれる。最精鋭ではないが、ぬるい戦力ではないだろう。
「こうなっては犯人ももうおしまいでしょうが、物騒ですなぁ。私も早く、次の仕事に向かいたいですよ」
そんな具合で、話が長くなりそうだったので、俺は「あまりゆっくりすると連れの様子が不安なので」と湯船を出た。商人は恐縮した様子だった。
部屋に戻ると、紅樹が龍青のそばに座り込んでいる。手には水差しがあり、水を飲ませているようだ。こちらをちらっと見て、
「遅い」
と、低い声で言った。
「知り合いに会ってね。殺人鬼の噂の続報を聞いた。お前、知っているか?」
「それを探っていて、ここに来るのが遅れたのよ。不覚だったわ」
なんだ、知っているのか。
「翼王の手先だと思うか?」
「あまり確信が持てないけど、普通ではない。調べる必要はあるわね」
「とりあえずは、龍青の回復が先だな」
「あんたがここを守るんだからね。あまり手抜きしないで」
別に手抜きなんかしちゃいないが、わざわざ言う必要もないだろう。あまり紅樹を刺激したくないし。
彼女は夜明け間近までそこにいて、後を任せると言って、また天井に消えた。さすがに元盗賊なだけはある。
龍青が倒れて五日目の昼間、パチリとその瞳が開いた。もう薬が終わりそうで、手配するか迷っていたところだった。
「ああ……」いきなり龍青が言った。「夢か」
にじり寄ると、彼がこちらを見た。
「ずっと眠っていた気がする。何日経った?」
「五日ってところだな。気分は悪くないか?」
「すっきりしているよ」
ゆっくりと龍青が起き上がり、一つ、深く息を吸い、吐いた。
「お腹が空いたよ」
「そりゃそうだ。何かもらってくるよ。何が食いたい?」
「肉かな。実はこの前は、良く味わえなかった」
「わかった。ちょっと待ってろ」
部屋を出て、調理場に顔を出して、すぐに出せる料理を頼んだ。できれば肉が欲しい、と伝えて、銭も多めに払った。
部屋に戻ると、龍青は布団を離れて、窓際に腰掛け、外を見ていた。
変に、憑き物が落ちているというか、落ち着いていて、神々しさのようなものがあった。思わず足を止めるほどに。
気を取り直して歩み寄る。
「料理は頼んできたぜ。紅樹が心配していた。今夜にもまたやってくるだろう」
「うん、彼女の気配も感じたことには、感じていたよ。謝らないと」
俺も窓際に立ち、外を見た。
「そういえば、夢を見ていたようなことを口走っていたな。どういう夢だ?」
「うん。古龍峡の夢だよ。あそこの湖、僕は長いこと浮かんでいた」
「隠者殿のいる湖か?」
そう、と龍青が頷いて、こちらを見た。
困ったように、笑っている。
「懐かしかった。まだほんの半年ほどなのに。僕も病気で気弱になったかもしれない」
「おいおい、まだ何も始まっちゃいない。先は長いぜ」
ちょっと気合いを入れ直すよ、と龍青は笑みを深くした。
女中が料理を運んできて、龍青はいつになくガツガツとそれを平らげて、また布団に戻った。少し休む、と言っていたが、俺は正直、不安だった。
でも眠り込んだ龍青の様子は今までとは違い、少しも苦しそうではないので、不安は少し和らいだ。
夜になり、紅樹がやってきて、しかし龍青を起こすことはなかった。
明け方、目覚めた龍青がまだ留まっていた紅樹を見て、
「心配させて、ごめん」
と言うと、紅樹は首を横にぶんぶん振って、立ち上がり、逃げるように屋根裏に消えた。
なんなんだ?
龍青がまた困ったような顔をして、俺を見ていた。
そんな顔されても、俺には何も言えんぞ。
とにかく、龍青は回復したのだ。それでよしとしよう。
(続く)