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鳥と雷  作者: 和泉茉樹
第五部 理力を使うものたち
36/118

5-7 眩しさ

    ◆



 湖の上に座って、僕は釣り糸を垂れていた。

 今年の冬は雪が少ないのが気がかりだったけど、春になれば山からの雪解け水のせいで、湖水はわずかに増えた。この量は、例年並み、いつも通りだろう。

 釣り糸はピクリともしない。

 あくびをかみ殺しつつ、頭上を仰ぐと、鳥が一羽、ぐるぐると大きな弧を描いて飛んでいるのが見えた。

 もう湖の上に立つこと、歩くことは自然できる。何の不安もなく、当然のようにできるのだ。

 何度か、空を飛ぶことを試してみた。

 実はちょっとだけ、浮いたことは浮いた。でも足の下に紙を通せるくらいのわずかな浮遊で、時間も瞬きする程度だ。やっぱり、浮いたとは言えないかもしれない。これだったら普通に地面を蹴って跳んだ方が、長い時間、宙にいることになる。

 どうして飛べないのか、師匠に聞いてみたこともある。

 師匠は「人は飛ぶようにはできていない」と応じた。

「翼がないから、ということですか?」

「それは肉体的な不足だが、精神的にも、飛ぶということを認識できないことが大きいと、理力使いたちは考えているよ。湖の上に立つときは、地面に立つことを意識する。湖の上を歩くときは、地面の上を歩くことを意識する。では空を飛ぶ時、何を意識すればいい? 見えない階段を踏むことを意識できるかもしれない。だが、それも成立しない。理力の限界だろう」

 理力に限界があるなんて、僕はあまり考えたことがなかった。

 でもそれが当たり前なんだろう。万能の力なんて、あるわけもない。もしあれば、僕の元にもその話が届くはずだ。

 と、意識が湖の上に戻り、かすかに釣竿に手応えがあった。少し待つと、グンと糸が引っ張られる。

 立ち上がって、そっと釣竿を引く。あまり強く引くと、糸が切れる。魚を疲れさせることが重要なのだと、ここのところの釣りで学んだ。

 魚を自由に動かしつつ、一方で拘束するように、釣竿の力を加減する。

 そのうちに手応えが弱くなっていき、僕は釣竿をいっぱいに上げ、片手を離すと水の中に突っ込んだ。

 素手では届かない場所だと気付いた時には、理力の手が水中に伸びていた。

 見えない力で引っ張り上げられ、空中に浮いた魚はそれほど大きくない。しかし二人で食べるのには十分だ。

 なんという名前の魚か知らないけど、焼くと上手い。

 魚を手にぶら下げて水面を歩いて湖畔に戻り、小屋へ向かった。ちょうど昼飯時で、今頃、師匠が何かを作っているだろう。実際、小屋に近づくと、香ばしい匂いが漂っている。

 小屋に入ると、かまどで鍋がグラグラと煮えている。師匠は野菜を包丁で切っていて、そこに放り込んでいるのが見えた。

「魚が釣れました」

「そこに置いておいておくれ。夕飯で食べよう」

 僕は土間の隅に置かれた、魚を生かしておくための甕に魚を入れ、一度、小屋の中に上がった。

 自分の部屋に入り、釣竿と糸、釣り針を片付けた。

 視界に入った小さな机の上のそれを、何気なく手に取る。

 それは一年以上前に、山の中で出会った猟師がくれた銭だった。

 師匠が渡してくれた銭も、まだ手元に残っているけど、この一枚だけの銭は、特別だった。

 言ってみれば、僕にとってのお守りのようなものになりつつある。

 この一枚だけは絶対に使わないでいよう、と決めていた。本当は肌身離さず持ち歩きたいけど、何かの拍子になくすのが怖くて、しかしどこかにしまうと忘れてしまうかもしれないし、などと考えて、机の上に出しっぱなしにしている。

 何度か指でなぞっていると、師匠が呼ぶ声が聞こえた。

 僕はそっと机の上に一枚だけの銭を置いて、部屋を出た。


     ◆


 夜の街道は人気もなく、静かだった。雲もなく、星空が綺麗だ。

「つまりお前には才能があったわけだ。剣術も、理力も」

 隣を歩く火炎が呆れたように言う。

「うーん、どうかな、そんなのはたまたまだと思うけど」

「俺だったらさっさと逃げ出すね。幻に良いように小突かれて、湖を歩けと言われる。うんざりだよ。俺は師匠だろうと先生だろうと、殴り返したいね。そして湖を歩こうとも思わない」

 思わず僕は笑ってしまった。実に火炎らしいと感じたからだ。

「僕はあそこしか世界を知らなかったからね」

「世間知らずといえば世間知らずだな。隠者殿は教育者としては最適だったかもしれないが、あの環境だけはいただけない。不自由とか不便とか、そういうんじゃなくて、純粋に経験が積めないと思うぞ」

「火炎はどうだったの?」

 俺? と火炎がこちらを見るが、なかなか語り出そうとしない。

「何の話?」

「わっ!」

 いきなり背後から声をかけられて、僕たちは飛び跳ねて距離をとった。

「そんなに驚かないでよ」

 そこにいるのは紅樹だった。いつもの黒装束と最低限の荷物。まるで気配がなかった。服が真っ黒なので、顔を覆面で隠されたりすると、全く気づかないかもしれない。

 白い端正な顔をちょっとしかめる彼女に、僕と火炎はやっと構えを解き、歩みを再開した。

 でももう話の流れは切れてしまっていて、僕たちは無言だった。それを紅樹はムッとして眺めていると気配でわかるけど、僕たちは黙っていた。

 すぐ後ろを付いてくる紅樹が、文句を垂れる。

「何よ、話してよ、仲間でしょ」

「それほど重要な話でもないよ。昔話だから」

「え? 龍青の話? それとも火炎?」

 僕だよ、と応じると、彼女は僕の肩にのしかかってくる。

「教えてよ、ねー、いいでしょ? 減るもんじゃないし」

「また今度、機会があったらね」

「どういうこと? 男同士じゃないと話せない内容なの? え? 卑猥な話? 女に聞かれると幻滅されるような、えげつない話ってこと?」

 そんなわけないだろ、と火炎が呟くと、僕の背中から紅樹が身を乗り出して、お、重い……。

「あんたは龍青と違ってそういう話が多そうだもんね。実は龍青の卑猥な話を聞いて、俺の方はすごいぞ、って言おうとしたところに私が来たんでしょ。だからあんなに驚いたんだ」

「勝手に話を捏造するな! それに俺の印象ってどうなってんだよ!」

「いいんだよ、龍青、あなたは清く正しく、そこの野獣とは違う、不憫な少年なんだから、気にせずにお姉さんに全部、話しなさい。ね?」

 どう答えることもできずに笑っている僕の隣で、火炎の額に青筋が浮かんでいるのは、見間違えじゃないだろう。

「何? 龍青、言えないの? やっぱり卑猥なんだ。どこかの野獣に感化されちゃった?」

 その一言で、ついに火炎が爆発した。

 結局、僕の話は紅樹にはしないままになった。あまり面白い話でもないし。でも火炎の話を聞けなかったのは、ちょっと残念だった。でもまた機会もあるだろう、と思って、待つことに決めていた。

 あまり三人が顔をあわせることはなくて、それは紅樹が昼間は活動しないせいだけど、こうして夜の街道で三人が揃うと、いつも賑やかになる。

 その賑やかさは、古龍峡にはなかったもので、僕にとっては眩しすぎるほどに眩しい。

 でも心が浮き足立って、そわそわして、これが面白い、楽しいってことかもな、といつも感じて、心で噛み締めてしまう。

 火炎と紅樹が激しくやり取りして、歯を剥き出しにしているのを見て、思わず僕は笑ってしまった。

 そのまま僕はしばらく、笑っていた。




(第五部 了)


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