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鳥と雷  作者: 和泉茉樹
第五部 理力を使うものたち
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5-5 初めての他人

     ◆


 十三歳の春になった。

 師匠の許可を得て、山に僕は分け入っていた。

 しかし実際には地面はほとんど移動しない、木から木へ飛び移る。枝を掴むこともあるが、大抵は幹から幹へ飛び移る。

 下草は誰も手入れしていないこの一帯は、古龍峡という師匠が見出した土地を隠すために設けられた、防壁のようなものらしい。

 もし侵入者があれば、その侵入者の出入りの経路がわかる。わかったところでどうすることもないが、追いかけることはできるかもしれない。

 ちなみに小屋や湖の近くの山は僕が手入れをしていて、片付いている。

 その時も木から木へ飛んだ場面で、何かが足元で動いた、と思った時には、もう矢が飛んできていた。

 反射的に手で掴み止めるけど、木を蹴る勢いが殺されていて、次の幹には飛び移れない。

 地面に降り立ち、次の矢に備えて、木の幹の陰に滑り込んだ。

 こんなところに人がいる? 初めてのことだ。

 そちらを伺うと、初老の男が弓を構え、番えてある矢はこちらに向けられている。

「人間か? それとも妖怪か?」

 どうすることもできず、しかしこのまま間合いを支配されたくもないため、進んで木の陰から進み出た。

 男の矢がわずかに動く。間合いからして、避けることもできるだろう。

「子ども……? ここで何をしている? 何者だ?」

 僕はまだ声が出なかった。もう一年以上になるが、治る兆しはない。

 身振りで声が出ないことを伝えたけど、その瞬間が一番、怖かった。僕の身振りに反応してこの男が矢を放つと、やや厄介になりそうだった。

 でも彼は鏃の位置を変えただけで、引き絞ったままで耐えた。

 僕はもう一度、自分が喋れないことを身振りで示した。やっと男はそれを理解したようだ。

 弓を下ろし、こちらへ歩み寄ってくる。

「悪いが、俺は道に迷っているんだ。帰り道を教えてもらえるかな?」

 古龍峡は入ってくるのも難しければ、出て行くのも難しい。いくつかの目印を頼りに歩くしかない。

 声が出せないのをこんな不便に感じたことはない。

 僕は足元の草をかき分けて適当な石を手に取った。それで近くの木の幹に文字を刻んでいく。これしかやり取りする方法がなかった。

 ちらっと見ると、男は六十歳ほどで、背中には矢筒を背負っている。まだ十分に矢が残っている。服装が薄汚れていて、少し汗臭い。長い時間、森をさまよったのかもしれなかった。

 僕が次々と木の幹に刻みを入れ、彼もその都度、確認することを適切に問うてくる。山の中を移動するのには慣れているんだろう。

「おおよそわかったよ、お礼にこれをやろう」

 そう言って彼が腰に吊っていた袋の一つをこちらに差し出す。

「これは粉にした香草と塩を混ぜたものだ。肉を焼く時に使うといい。いい味になるぞ」

 受け取って少し開けてみると、複雑な匂いが漂った。

「道を教えてくれて、ありがとう。では」

 男が身を翻した時、思わずその手を掴んでいた。不思議そうに彼が振り返る。

 僕は身振りで、途中まで送っていくことを伝えた。

 それは助かるが、と言いつつ、彼は不安なようだったが、僕はさっさと先に立って歩き出した。山を降りた経験はないけど、師匠から道筋はしっかりと教わっている。迷わないだろう。たぶんだけど。

 男と一緒に半日ほど、森の中を進み、谷を下りて、小川の近くへ出た。

「これはありがたい、ここのところ水にも困っていた」

 そう言って男は存分に水を飲んでいる。

 日が暮れかかったので、ここで野宿だと男が言った。季節としてはそれほど苦痛でもない。

 焚き火を起こし、男が腰に巻いていた荷物の中から、干し肉を取り出し、小さな刃物で薄くそぐと、ひとかけらをこちらに差し出してきた。

「うまいぞ。何回も繰り返し噛んでいると、柔らかくなる。空腹感も減る」

 拝むような仕草で礼をして、僕はその肉片を受け取った。噛んでみると、初めての味だが、顎を動かすたびにどんどん味が濃くなる気がした。

「きみはこの山で暮らしているのか?」

 そう訊かれて、頷くと、彼は「そうか」と小声で言った。

「獣に育てられているわけでもないだろうが、私を見る瞳には、慣れというものがない。人に興味はないかな?」

 正直、興味はあった。いつか、師匠に山を降りる可能性を伝えられた時から、人を知りたいという思いは、消し難かった。

 今、実際に師匠ではない赤の他人が目の前にいるのだ。

 僕はすぐそばの地面に、石で字を書いた。彼がそれを覗き込む。

 僕は、剣術で生きていけますか? と書いた。男は嬉しそうに笑う。

「国は平和な時代の中にある。軍人になれば、剣術も必要かもしれないが、剣士が活躍する場面は減ったよ。用心棒のようなことをするくらいが関の山だ」

 用心棒? と書くと、彼がまた笑う。

「武器をとって、誰かを守る仕事をするものだ。守る相手は、政治家や貴族、役人、商人などだな。だが、滅多にいないよ、用心棒など。平和とはそういうことだ」

 次に気になったのは、あなたは何をしているのか? だった。

 老人はポンと傍に置いている弓を叩いた。

「俺は猟師だ。山に分け入り、獣を狩るのが仕事でね。仲間がいて、肉を売ったり、骨を細工してお守りにしたり、革を売ったりもする。それで生活できるんだ。まぁ、波のある商売だ。貧乏でもないが、裕福でもない」

 商売? と文字を書くと、彼はちょっと目を見開いた。

「銭をやりとりすることだよ。こんな山の中では意味がないか。肉が、銭というものに変わる。その銭を俺たちはまた別のものに変えることができる。弓矢は自分で作るが、例えば、さっきの袋の中の香草や塩などは、銭で買うこともある。これが銭だ」

 彼が懐から何かを取り出し、その中から小さな円盤を見せてくれる。

 これが、銭か。初めて見る。

 手渡してくれたので、焚き火の光にかざして、凝視した。

 どこか不思議な気配があるけど、なんだろう?

「それは君に渡す。俺を助けてくれた礼だ。人間は謝礼として銭を払うこともある。それを好まないものも多いし、私も好きではないが、その銭は君には特別だろうから、渡すよ」

 拝むようにして礼を伝えた。

 それから僕は彼に山の外の世界のことを、色々と訊ねたけど、知識では知っていても、実際にはわからなかったことが、いくつかあった。

 書物では人間は高尚なもののようだけど、どうやら銭や土地や権利など、そういうものが力を持つらしい。

 犯罪者は減ることはない、とも聞いた。書物の中では人間は自らを律して、清貧に過ごすと教わっていたから、意外だった。

 しかし犯罪者は片腕を落とされたり、場合によっては首をはねられるらしい。

 恐ろしい世界だな、というのが正直な感想だった。

 夜明け近くまで話し込み、猟師は少し休んだ。僕はまだ受け取ったばかりの銭を眺めていた。

 翌朝、また例の干し肉をもらい、食事が済むと、先へ進んだ。日が真上に来る頃、おおよそ案内は終わった。

「ありがとう、助かったよ」

 男はそう言ってこちらに手を差し出してきた。握手、という奴らしい。そういう文化があるのだとは知っていたけど、やったことはない。

 そっと、彼の手を握った。

 嬉しそうな笑みを見せ、背中を向け、去っていく。

 遠ざかっていく背中を見ているうちに、何かがこみ上げてきた。

 声が、漏れた。

「気を、つけ、て……」

 息を強く吸い込んだ。そして声を張り上げた。

「気をつけて!」

 長い時間、発していなかったのに、掠れも震えもしなかった。

 猟師がこちらを振り返り、何度も手を振った。

 そして彼の姿は、視界から消えて、僕はまた一人になった。



(続く)


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