5-4 契機
◆
その日は特に変わったこともなかった。
ただ純粋に、できるな、という確信があった。
冬の日で、今にも雪がちらつきそうだった。空は曇り、雲が近くの山の上を隠している。風が強くて、湖にはいつになく波がある。
僕は素足で、そっと湖面に足を乗せた。
立てる。そう確信した。
足は沈まなかった。体重をかけ、もう一方の足を乗せる。沈まない。
今、僕は水の上に立っている。
興奮を抑え込むのに苦労した。平常心だけが、僕の意志を理力に置き換え、法則を超越させる。それでも嬉しさに、わずかに拳を握った。
一歩、二歩と歩いていく。波が足にかかるけど、足裏は少しも水中に落ちなかった。
どれくらい歩いたか、岸からだいぶ離れていた。
できる。僕は水の上を歩くことが、できる。
やっと実感が押し寄せて、安堵した。
途端に、両足が水中に没して、堪える間もなくそのまま頭の先まで沈没した。
水の冷たさに体がぎゅっと萎縮し、呼吸が短い時間、止まる。
冷静になろうと念じても、慌てる心はすぐに落ち着かない。
息を吸わないように集中した。今、息を吸おうとしてしまえば、水を飲んで、本当に溺れるだろう。
手を水面に伸ばした。一瞬、指が水中から空中へ抜けた気がした。
指先が、水面に触れ、掴んだ。
あとはまるで水が固形であるかのように、体を持ち上げ、何度か沈没しそうになりながらも、水面に復帰できた。
やっと激しく呼吸する。油断すると水上で四つん這いになっているその手や膝が水中に沈む。
風が全身を冷やし、凍えるほど寒い。
さっきまでの興奮もどこかへ消えてしまい、立ち上がると駆け足で湖を走り、陸地に降りたらそのまま全速力で小屋に駆け込んだ。
「な、なんだい? どうしたんだ?」
僕は素早く濡れた服を脱いで、囲炉裏のそばに飛びついた。師匠はまだ混乱しているが、手ぬぐいと新しい着物を出してくれた。
体を拭って服を着て、濡れた髪の毛も拭う。
「もしかして、湖に立てたのかね?」
僕が頷くと、師匠は失笑し、
「それで気が緩んで、湖に落ちたってことかい?」
と、嬉しそうに笑いながら訊ねてくる。まだガタガタ震えつつ頷く僕に今度こそ師匠が大声で笑い始めた。
「それはまた、思い切ったことをしたね! しかし、できたか。それはすごい。努力はお前を裏切らなかった、ということか」
そう言われて、僕はやっと考えが先へ進み始めた。
師匠は努力という表現をしたけど、あの時の僕にあったのは、そして今までに積んできたのは、ただ、無心だったと思う。
いつか、成功する。その一念だけが、僕をここまで進ませた。
自分に出来るとかできないとか、そういうことを考えないように努めていた。
でも、そうか、それはいつか、師匠が話してくれたことと同じだ。
出来ると思えば、出来る。出来ないと思えば、出来ない。
長い時間を使って、僕は出来ると信じることができた。自信ではなく、もっと客観的な、確信のようなものが、僕の中に芽生えたのだ。
その日の夕飯には、師匠が温存していた豚肉を出してくれた。長い時間、保存できるように処理されたもので、滅多に出るものじゃない。
ただのいつも通りの汁に肉が入っただけだったけど、これがとんでもなく美味しくて、今まで食べたもので一番美味い、と思った。
翌日はよく晴れていて、僕は朝、畑に向かう前にもう一度、湖に行ってみた。
昨日のことが本当のことだという、確信が薄れそうだったからだ。
いつもの湖岸で、一歩、水面に足を延ばす。靴を脱がなくてもいいだろう。
僕は立てるんだから。
右足が、湖面を踏んだ。落ちない。左足、落ちない。
立てた!
昨日よりも落ち着いた興奮が滲むように心に生まれて、でも集中は乱れなかった。
歩いていく。落ちない。僕は、やっぱり水を歩けるんだ!
駆け出して、跳ね、体を投げ出し、両手で水面を打って、宙に舞う。着地しても、まるで地面を踏むようだった。
急に童心が蘇って、息が切れるまで走って、最後には湖岸に倒れこんで、仰向けに横になった。
胸が上下するのがわかる。
すごいじゃないか。こんなことができるなんて。
呼吸が落ち着いてから立ち上がり、畑に向かった。もう収穫するものはおおよそ終わり、手入れしかやることがない。昼前に終わり、先生の一人と剣術の稽古をした。
もう僕と先生の間では、それほど実力差はない。
一対一なら、やり取りをしても拮抗できる。それもこちらが圧倒的に不利でもだ。
僕は先生の棒を避け続け、隙があれば、棒に理力を流して先生を打ち返せる。
先生は顔をしかめるが、負傷するわけでもない。一撃を受けると、かなり猛烈な反撃を返してくるけど、僕は紙一重でそれに対処することができた。
昼飯時になり、先生は苦々しい顔で、食事をしてこい、と、僕を解放した。
小屋で師匠と二人で食事をしていると、
「あまり彼らを困らせるな」
と、言われた。
師匠は両目を失っていて、理力によって補っているので、その場にいなくても遠くを見通すことができる。師匠自身も、下品な眼だ、などと言っているけど、別に使うのに躊躇うようでもないのが、師匠らしい。
まだ声が出ないので、頷いて返すしかない。
午後になると、師匠も付いてきて、先生と理力について訓練になった。
「これもできるかな?」
師匠がいきなりそう言って、木の一本に歩いていく。
その幹に片足をつけたかと思うと、そのままもう一方の足をつけ、木の幹に垂直に、つまり地面とほぼ平行に立って見せた。
髪の毛や服は地面に向かっているが、師匠の背筋はピタッと伸びている。
垂れ下がった幕の下からあらわになった、宝石の眼球が、こちらを見る。
「できないか?」
やってやろうじゃないか。
強気な気持ちを意志力に変え、全身に理力を満たした。
それでも恐る恐る、木の幹に足をつけた。ピタッと靴底が幹に吸い付く錯覚。
もう一方の足もつけた。とととっと幹に足を進ませ、僕は師匠と同様に、木の幹に立っていた。
「やれやれ」ふるふると師匠が首を振る。「これじゃあ私はもう、教えることは何もないね」
師匠がひらりと木の幹から飛び降り、僕も続いた。
「いいかい、龍青。私も、彼らも」師匠が周囲に並ぶ幻の像を示す。「お前にこれ以上、特別に教える要素はない。あとは一つ一つを、極めて行くだけだ。時間がかかるだろう。そしてもう一つ、お前には選べる道がある」
声が出ないので、首を傾げる。
「それは、この山を降りる、という選択肢だ。そうして、人々の中で生きてみることも、修行だ。どうする?」
いきなり言われても、首を横に振るしかなかった。
山を降りるなんて、考えたことがなかった。山の下には大勢の人間がいるのは知っているけど、僕には縁のない場所だった。
師匠はちょっとだけ黙ってから、
「ゆっくり考えなさい。時間はある」
と、小屋の方へ行ってしまった。
僕は先生たちを眺め、彼らがどこか嬉しそうにしているのが、不自然に感じられた。
でも何か伝えようにも、声が出ない。
山を降りる?
ただ何か、山の下には強い者がいるような気が、まだ幼い僕の中にはあった。
(続く)