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鳥と雷  作者: 和泉茉樹
第五部 理力を使うものたち
32/118

5-3 迷い

     ◆


 湖に向かって、師匠が歩いていく。

「剣術と理力により、お前の力は、並みを越えている。純粋な技量なら、そこらの剣士にもひけをとるまいよ。しかしそこが終着点ではない」

 師匠はそのまま湖に足を浸ける。

 いや、浸かっていない。

 師匠の足は、水の上にある。水面に立っている。

「理解できるかい?」

 こちらを振り向く師匠は、湖の上に立っていた。

「お前もやってみればいい。さあ、今だよ」

 はっきり言って、声こそ漏れないが、僕は動揺していた。

 でも足は自然と動いていた。靴を素早く脱いで、素足で水面に触れる。

 冷たい。そして、水面を突き抜けて、足が沈む。

 繰り返し水面に足を置こうとするが、まったくできなかった。

 師匠が引きつるように笑う。

「そう簡単にいくものかね。時間を見つけて訓練すればいい」

 僕は視線で師匠に問いかけた。何か要点があるはずだった。僕の視線を受けて、師匠は頷く。

「出来ると思うことだよ、龍青。これは全ての理力に通じる考えだ。出来ると思わなければ、何もできない。できないと思えば、何もできない。これは基礎の基礎なんだ。信じること、その意思こそが、理力を生み出す。いいね?」

 こくん、と頷き返す。

 わからないことの方が多い。でもここまで、僕は理力を使いこなしてきた。

 それはきっと、超常に一歩、踏み込んでいる、ということなんだと意識した。

 だから、できないことなんてないはずだ。

 師匠が見ている前で、僕は繰り返し繰り返し、湖に立とうとして、まったくできなかった。

 この時から僕の日課が一つ加わり、畑仕事に、剣術、理力、そして湖に立つことの三つが、ほとんど休む間もなく、繰り返された。

 雨の日にも訓練を続け、幻の先生たちはついに僕を四人がかりで制圧するようになり、僕の訓練用の棒は、背丈に合わなくなり、新しいものが用意された。

 そして、湖の上には立てなかった。

 もう師匠も手本を見せてくれない。あの時の光景は幻だった、夢だった、と思いたかったけど、それは必死に頭から追い払った。

 幻でも夢でもない。

 実際に師匠は湖に立った。

 なら僕にもできるはずだった。

 降り続く雨の中でも、日差しが強い日も、風が吹こうとも、僕は毎日、湖のほとりに立ち、素足を繰り返し水中に落としては、また落とした。

 どうして挫けなかったのか、諦めなかったかは、剣術のことがあったからだと後になればわかる。

 全くの素人が、一年や、一年と半年で、並の使い手にはなれた、という実体験が、僕を支えていた。理力を身につけたこともそうだ。こちらはまだ万能ではないけれど、しかし、時間とともに力は身についた。

 それなら、この湖を歩く技も、努力すれば身につくはずだ。そう思えた。

 注意しなくてはいけないのは、ただ足を水に浸けているだけでは何も身につかないことだった。常に考え、何がいけないのか、どうするべきなのかを模索しなければ、どこにも辿り着けないと、剣術が僕に教えていた。

 ああすればよかった、こうすればよかった、という一度は否定した発想は、ここでは、必要な要素に変わった。

 まだ僕は何も知らない。道筋がわからず、方角も分からず、終点もわからず、彷徨っている。

 一度は切り捨てた手法が実は有効かもしれない。そう思えば、少し後に戻る、さらに戻る、という必要もあった。

「理力には体系というものはないのだよ」

 ある秋になろうという日の夜、囲炉裏を囲んで質素な夕食を食べながら、師匠がそんなことを言った。

「世の中には非常に数は少ないが、理力を操るものがいる。だが、理力には型がない。理科と呼ばれる、より効率的に理力を扱う術はあるが、それさえも決まったものがない。理力使いは一人ずつがそれぞれの羽を広げ、それぞれの空を舞う。その飛び方には決まった要素はないんだよ」

 僕は頷くしかできない。師匠が言葉を続ける。

「もしかしたらお前は湖を渡れないかもしれない。それは私にはわからない。お前がもし本当に無理だと感じたら、そこでやめればいいのだ。そして自分に何が向いているのか、よくよく考え、進むべき道筋を選びなさい」

 その日の夜はなかなか寝付けなかった。

 僕が進むべき道は、全く見えない。そもそも理力や剣術を教えて欲しい、と強く願ったわけではない。師匠が教えると決め、僕はそれに従った。

 さっきの師匠の発言では、あるいは剣術さえも、実は僕の得にならないかもしれない、ということにならないか?

 僕はよく知らないけど、きっとほとんど全ての人間は自分が何に向いているか、何をなすべきか、わからないはずだった。

 それでも先へ進むために、何かに打ち込み、成功したり失敗したりする。

 それは失敗より成功がいいけど、約束された成功なんて、ほんの少しだろう。

 でも僕が今まで積み重ねたものが無駄になる未来なんて、あるだろうか。

 深夜、こっそりと小屋を抜け出し、棒を手にとって、素振りをした。ひんやりとした夜の空気の中で、体が徐々に温まっていく。

(眠らないのか?)

 いつの間にかすぐそばに先生の一人の幻が浮かび上がっていた。

 僕が答えずにいると、先生が静かな様子で話し出した。

(迷うことは、悪いことではない。迷うということは、道筋を選ぶ予兆のようなものだ。だから迷えるだけ迷い、ここと決めたら、あとは必死に走るだけだ。それが大事なのだよ)

 剣を振りながら、僕は頷いた。

(迷いを振り払った時、お前は一歩だけでも、前に進めるだろう。そこでもまた迷うかもしれない。そしてまた決断し、前へ進む。また迷う。決断する。進む。それを繰り返すことが、生きるということかもしれない。決断を恐れるな。決断によって失うことを、恐れてはならない。前に進むのだ)

 どれくらいの時間、棒を振り続けたのか、かすかに稜線が明るくなった。

 棒を置いて、僕はそのまま歩き出した。

 湖とは反対側、僕と師匠以外に人の入ったことのない山に分け入り、しばらく歩いた。

 棒を振り続けていた疲労と倦怠感が、少しずつ抜けていくようだった。

 山にある果物の木から、食べごろの果実を一つもぎ取り、口に運ぶ。

 赤い実は酸っぱいが、美味い果汁が口元から少し溢れる。

 師匠にも持って帰ることにして、もう二つほどをもいで、抱えて小屋に戻った。

 すでに師匠は起き出していて、朝食の支度をしていた。きっと僕が眠らなかったことも気づいているはずだけど、師匠は触れなかった。ただ果実の礼を言っただけだ。

 朝食を食べながら、夜に聴いた先生の話を思い出していた。

 実は剣術も理力も、僕にできる決断の幅を広げるためだったんじゃないか、と、ふと思ったのだ。

 それがどれほど僕を支えるかはわからないけど、妄想を膨らませれば、剣士として生きていくことを選ぶことはできる。剣術を使えないのでは、剣士にはなれないだろう。

 書見もたまにやるけど、それもまた決断を助けるものの気がする。字を読めること、書けること、計算ができることは、市井で生きるには必要なはずだ。ただその辺りはまだ自信を持てないけど。

 朝食を食べ、片付けをしてから、もう一度、外に出た。

 綺麗に晴れ渡っている。

 何かが僕の中で落ち着いたような気がした。




(続く)


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