4-7 呪術師の気配
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とある呪術師を追ってほしい、と頼むと、時間がかかります、という返事だった。
ただ時間がかかるのは前準備に、ということらしい。僕には呪術のなんたるかはよくわからないけど、まずは僕の意識に一度触れ、あの瞬間、短剣が暴れた場面を戒円が独自に解釈し、そこから呪術の痕跡を追うらしい。
この、僕の意識に触れる、というのが不安ではあったけど、一瞬ですよ、と言われてしまった。
ここで怖気付くのも恥ずかしいので、承知すると、手を握らせてください、と言われた。
「それでどうなるのですか? その次にやることは?」
「いえ、触れるだけで十分です。渡水鳥殿は何も感じることはない。ただ老人が手に触れた、と知るだけです」
「は、あ……」
何とも拍子抜けだ。
ちなみにこの間に火炎が何をしているかといえば、外へ出て近くの別の村に買い出しに行っている。闇夜豹はすぐそばに控えていた。休まなくていいのだろうか。
「では、やりましょう」
早速、老人がこちらに手を伸ばしてくる。
本当に一瞬だろうか?
老人の手のシワが、闇の中でもよく見えた気がした。
手が触れ、少しの間の後、離れた。
「これは……」戒円がつぶやく。「凄まじい……。少し、横になります。闇夜豹、安心していなさい」
言うなり、戒円がすぐそばの敷物の上に横になった。それきり、まるで死んだように動かない。闇夜豹は両膝を抱えて、その様子をじっと見ている。僕はどことなく、やっぱり不安だ。
「本当に大丈夫なの?」
「先生がそう言っているんだから、大丈夫なんでしょう」
心底からの信頼が感じ取れた。なら、僕も落ち着いていよう。
「きみがこの人の面倒を見ているっていうけど、どうやってお金を稼いでいるの?」
「私服を肥やす役人とか、不正を働く金持ちから、銭を回収している」
「それって、盗賊の仕事じゃないの? 仲間は?」
「一人でやっている。その方が動きやすいし」
ふぅん、と応じる僕に、慌てたように闇夜豹が付け加える。
「私は、誰も殺していないし、傷つけてもいない。こっそり手に入れて、こっそり去るだけ。悪い?」
「いや、悪くないんじゃないの? 犯罪だけど」
「義賊って言葉、知っている?」
「知っているけど、見たことはない」
ムッとした雰囲気の闇夜豹が言い募ろうとした時、いきなり、戒円の体が震えた。驚いて僕も彼女もそちらを見た。
目を見開き、何か言おうとしても言えず、こちらに手が差し出される。
反射的に握っていた。
何かが、僕の中に流れ込んだ。
真っ黒い影のようなものが、飛び回っている。銀色の短剣は粉々に砕け、影と一体になり、拡散した。
その大きすぎる、雲、霧のようなものに意識があるのが、感じ取れた。
しかしその意識は千々に乱れ、一部では協調し、一部では反発し合い、一貫性と矛盾が混在していた。
どういう存在なんだ? そもそもこれはなんだ?
その巨大な空間から、何かがこちらへ流れ込んでくる。
でも僕じゃない。
戒円にだ!
僕は弾かれたように手を離していた。
自然と手が自分の剣に伸びた。
「渡水鳥!」
叫んだのは闇夜豹だ。
僕の剣は戒円の胸をまっすぐに貫いていた。
引き抜くと、血が跳ね上がった。僕は剣を放り出し、その胸に手を置いている。
闇夜豹が飛びかかってくるのを、僕は視線を向けるだけで、理力で弾き飛ばした。すでに莫大な理力が僕を中心に渦巻き、部屋を照らしさえしていた。
うまくいくだろうか? 戒円の胸の傷口を圧迫し、理力を流し込んでいく。
目を閉じた。意識の中で巨大な流れがはっきり見える。力が僕の両手から戒円の中を巡り、全身を生き延びさせる。血液の減少を補い、生命の力をも補う。
誰かが泣いている。闇夜豹だ。
僕は目を開き、息を吐いた。
床に寝転がりたいのを我慢し、「新しい着物を」と闇夜豹に声をかけた。彼女は何度も首を振って、しゃくりあげ、目元を両手で押さえていた。
「死んでないよ、安心していい、もう死なない」
自分の服も血で汚れているので、僕はそれを脱いで、まず戒円の血を拭き取り、次に床にできている血だまりをきれいにした。闇夜豹が顔を上げ、戒円に這い寄ると、その胸に手を当て、傷がないのを確認し、鼓動も確認したようだった。
「死んでないの……? なぜ……?」
「世の中にはそういう力もある。疲れるけどね」
床に放り出していた剣を手にとって、鞘に収めた。
そこまでが限界だった。眠る、程度のことは言いたかったけど、それよりも疲弊が激しく、僕は意識を失った。
眠りの中で、誰かがしゃべっている。
「龍灯の倅か。私を追っているのか? バカなことを」
声が反響して、そこらじゅうから語りかけられているような気がした。
「私を捉えることができるかな? いや、私の手足から逃れることができるかな?」
お前は、誰だ? どこにいる?
「私は、翼王。知っているだろう? お前の大事な人を奪い、そしてまた、これから奪うものだ。追ってくるがいい、追えるのなら」
待て。
お前は誰だ?
姿を見せろ!
僕の意識の中で哄笑が響き渡った。それがあまりに大きく響くため、反射的に目を閉じ、両耳を手で塞いだ。それでもその耳障りな笑い声は響き続けた。
やめろ、やめるんだ、黙れ……。
「黙れ!」
叫んだ瞬間には、意識を取り戻していた。
すぐそばで闇夜豹がこちらを驚いた顔で見ている。隣の部屋から顔を出したのは、火炎だ。
「どうした? 何かあったか?」
「いや……」
僕はどうやら寝かされていて、跳ね起きたらしい。上着を着てないままで、今、胸から上掛けが落ちている。
「急に叫ばないでよ。悪夢でも見ていたわけ?」
闇夜豹が顔をしかめて言った。僕はどう答えることもできず、夢のことを思い出した。夢にしてははっきりと覚えている。不自然なほどだ。
翼王。
どこにいるんだ?
「ほら、新しい服。着替えて。私は隣に行っているから」
さっさと闇夜豹は立ち上がり、隣の部屋に行った。それを見送って、やっと僕が戒円を刺した部屋ではないところにいると理解が及んだ。
「いきなり、じいさんを刺したらしいな」
火炎がやってきた。
「うん、あれしか方法がなかった」
「どういう事情だ? まさか理力による治癒を試したかったわけじゃあるまい」
「師匠がくれたあの剣には、呪術に抵抗する処置が施されているから、それを利用した」
火炎が座り込み、詳しく話せ、と言った。
「僕の記憶に触れた戒円殿が、僕たちが追っている呪術師に逆に攻撃を受けたんだ、僕はそう判断した。その呪術による繋がりを絶たないと、きっと今頃、戒円殿は亡くなっていたと思う。その呪術による攻撃を切り離すのに、剣を使って、胸を刺した」
「それで傷を治して、お前は疲労困憊で眠り込んだ。さらに悪夢を見て飛び起きた?」
「悪夢じゃないと思うけど、はっきり言えない」
良いだろう、と火炎が立ち上がった。
「今、飯を作っている。久しぶりに作ったから、味は保証できないが、体に入れておけ」
どれくらい眠っていたのだろう? この家は常に闇に閉ざされているので、時間が分かりづらい。
服を着替えて隣の部屋に移ると、まだ戒円は横になっていた。
すぐそばに、闇夜豹が座っている。僕を見て、すぐに視線を戒円に戻す。
「飯にするぞ、小娘」
火炎が僕に続いてやってきた。
三人で食事を始めようという時、戒円がわずかに呻いて、全員が手を止めて、そちらを見た。
暗がりの中でも、老人の瞼が開くのを、三人ともがはっきりと見た。
闇夜豹が、飛びついた。
(続く)