3-4 湖の底
◆
師匠に言われるがままに、背負ったまま、湖のすぐ淵まで来た。
(中心に行くんだよ、さ、早く)
「は、はい」
さっきの今でまだ心臓は早鐘を打っているし、理力の疲弊も激しい。でもまさか、待ってくださいとは言えない。師匠はだいぶ危機的状況のはずだし。
一歩、水面に踏み出し、足が水に触れる。
沈んだ。
「ちょっと待ってもらっていいですか?」
思わず言っていた。すぐ横にいる師匠の幻像が怖い顔でこちらを見てくる。
深呼吸して、もう一度、びしょ濡れの足を水面に乗せる。
まるで地面を踏むように、足が水面に乗った。もう片方の足も乗せる。踏めた。
やれやれ、どうにかなりそうだな。
師匠の体が軽いので、いつもとそれほど違う感覚もなく、僕は湖の上を歩いて行った。
(まさに渡水鳥だねぇ)
褒められているんだろうけど、返事をする余地はない。
危うく師匠を落としそうになり、揺すり上げて背負い直したりしながら、師匠が声をかけてくるところまで、僕は進んだ。
(そこでいい)
はいはい、と体を下ろしたいところだけど、それでいいのかな。
物凄く深い辺りなのは、僕も知っているし、師匠も知っているはずだ。
「ここでどうするんですか? 沈めるとか?」
(そうだよ、そっとやっておくれ)
驚きのあまり、師匠の幻を見てしまった。口も目も全開だっただろう。
師匠は不機嫌そうに、急ぎな、と急かしてくる。
(早くやらないと、私が死んでしまう。このまま理力だけの存在にするつもりかい?)
「い、いや」
しどろもどろになると、集中が乱れて、片足が水面に沈みそうになる。持ち上げて、水面に立つ。
「普通の人間は水に沈むと、呼吸ができなくて死ぬと思うけど……」
(私が普通の人間に見えるとは、嬉しいことを言う弟子じゃないか)
「常識的な考えだと思うけどね」
(ちゃんと考えがある。思い切って、沈めておくれ)
どうなっても知らないぞ、と僕は師匠の身体を水面に下ろした。
脱力したままなので、水死体にしか見えない。そもそも人体は水に浮くわけで、水面に立っている僕のすぐ横に老婆がうつ伏せに水に浮かんでいる、という、なんというか、冗談にもならなければ、誰も想像もしない、奇妙奇天烈な光景が展開された。
「これでいいの?」
師匠の幻を見ると頷いている。
(さて、始めるかね)
急に師匠の体が沈んだので、驚いた。魚が早速、群がったのかと水面の下を凝視するが、何もいない。
ついに師匠は水中に没して、そのままぐるりを仰向けになり、さらに沈み、どんどん見えなくなっていく。
「これは師匠がわざと沈めているってこと?」
(一人でにこんな風になるわけがあるまい)
「しかし、これじゃあ本当に水死体になってしまいます」
そう指摘する僕の横で師匠の幻が、水面で屈み込むような姿勢になった。
祈るように見えるが、両手を湖面に当てている。
(だいぶ前に、瀕死の重傷を治癒させる理力を研究した奴がいた。どこで聞いたのか、生物には水が必要不可欠だと知ったその理力使いは、水を利用した治癒の手法を開発した)
「それを今、やるってこと?」
(ただ生憎と不完全な理科だからな)
理科というのは理術の中にあるいくつかの力の使い方のようなもので、体系だったものではないが、理術の中でも理力をより効率的に、そして絶対的に機能させる手段である。
「そんなものを試して、死んじゃったらどうするんですか?」
(毎年、今日の日付になったら花でも手向けておくれ)
そんな適当な……。
ついに水中に深く沈んだ師匠の体は見えなくなった。
ただ変化はある。
湖の水面がほのかに光り始めた。見渡すと、今、僕がいるところを中心に光が広がっていくようだ。
眩しいというほどじゃない、月明かりの中で消えそうな光だ。
ただ、これは理力の発現であるのは間違いない。
「うまく行っている?」
(おそらくな。時間が経たないとわからんよ、成功か失敗かは)
「時間? 夜明けくらいまで?」
バカを言っちゃいかん、と座り込んだままの幻像が、首を捻ってこちらを向く。
(少なくとも半年はかかるだろうな)
「は、半年?」
(瀕死というより、死んだ肉体を甦らすんだぞ。夜明けまでで治るものか。この間抜けめ)
今度こそ、僕は本当に途方に暮れた。
もしかして、僕は半年の間、毎日、この湖を見張るのか?
それじゃあ、あの短剣はどうする? 父親のこともある。
(心配はいらない)幻が立ち上がる。(さあ、小屋に戻るとするか)
「僕は、どうしたらいいのですか?」
水面の上に自分が立っているなどということも忘れて、幻になった師匠に問いかけた。
その師匠がまっすぐにこちらを見る。
(お前はどうしたい?)
「どうしたいって……、師匠をここに残していくわけには」
(私のことは考えなくていい。お前がどうしたいのか、教えてくれ)
どうしたいかなんて言われても、どうするべきかもわからないのに、答えられない。
戸惑い、迷っている僕を見かねたのか、師匠が穏やかな調子で促してくる。
(まずあの短剣をどうしたいんだね、龍青)
「短剣は危険です、父を、守らないと……」
(じゃあ、全てが決まったようなものじゃないか。あの短剣の後を追うといい)
でも師匠を、と言い募ろうとすると、師匠の幻は手でそれを制止し、ゆっくりと言い含めるように告げる。
(私のことは心配しなくてもいい。どうせ幻だから、衣食住は何もいらないし、あの小屋ももう人は住めまい。誰も来ないこの秘境で、のんびりと理力の修行でもするさ。あの短剣のおかげで、まだ未熟だとわかった)
とんでもないことばかり言う幻に呆れつつ、僕はどうするべきなのか、じっと考えた。
(良いだろう、夜明けまででも考えると良い。まずは地面に戻れ)
「あ、はい」
考えながら、僕は湖の上を歩き始めた。もう青い光は消え去っている。でも師匠が理力を解除したわけじゃないだろう。今も湖の奥底で理力は激しく渦巻いて、師匠の肉体を癒している、と思いたい。
考えることが多すぎて、その存在にさっぱり気づかなかった。
誰かが湖畔に立っている。小屋を背景にしていて、まだくすぶっている小屋を燃やす火のせいで、影ができているのだ。
客が来る予定もないけれど、たまに猟師が迷い込んだりもする。
間が悪いことに、僕は湖の上に立っているわけで、しかも彼らからは満月の光の元、こちらがよく見えることだろう。
もうどうとでもなれ、と彼らにいる方へ歩いていく。彼ら、そう、二人いるようだ。
湖から地面に降りた時、僕と彼らはすぐそばに立っていて、彼らは明らかに怯えていた。
「あ、あんた……」
見知らぬ男二人組の片方が、後ずさりしながら、僕を指差す。
「妖怪か、何かか?」
「この通り、人間です」
男たちは揃って腰に差していた短剣を抜いた。
「り、理力って奴か? お前が、そ、そうなのか?」
ええ、と頷くと、二人がぐっと短剣を強く握りしめた。
「俺たちのな、仲間になれ」
仲間?
訳がわからないでいる僕の横で、師匠が呟く。
(なんだ、この若造は)
その思念のようなものは、二人にも通じたらしい。キョロキョロと周囲を見ている。
(龍青、二人を湖に落としなさい)
「それでどうなるんです?」
(やればわかる)
仕方なく、僕は二人の男に手を向けた。
理力が二人の体を掴み、二人がそうと気づいたときには足が地面を離れている。
誰も触れていないのだ、驚きしかないだろう。
喚いてジタバタと暴れる二人を、僕は容赦なく放り投げて、宙を舞った二人は水柱を上げて湖に落ちていった。
(続く)