3-1 真実
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前から歩いてきたのは、大江だった。
「またお会いしましたね、龍青殿」
立ち止まった僕に、大江が歩み寄ってきて、頭を下げた。
「隠者殿とお会いして、お話ができました。非常に有意義な時間でした」
「そうですか」僕はちらっと空を見上げた。「これから里に降りるとなると、日が暮れてしまいますが」
「構いませんよ。慣れておりますから」
そうですか、という以外に言葉がない。
「師匠の目をご覧になりましたか?」
思わず話題を探してそう訊ねると、ええ、という返事があった。
「あの瞳は素晴らしい。しかし私のような、呪術を身に受けたものには、使えるものではありません。ましてや理力を身につけるなど、一朝一夕では、とても無理ですな」
「そうですか」
不自然なことに、この大江という老人は目が見えないはずが、まるで見ているように振る舞う。それが僕には不思議だったが、あるいは、呪術が関係するのかもしれない。
もちろん、詳細はわからないが。
そうだ、と僕は腰に下げていた袋を手に取った。
「もし空腹に耐えきれなかったら、これを」
袋を手渡すと、見えない瞳で大江がこちらを見る。
「何が入っているのですか?」
「木の実と木の蜜を練ったものです。粒にしてあって、一粒でもゆっくりと噛めばある程度の空腹には耐えられます」
「これはまた、ありがとうございます」
「帰り道、お気をつけて」
ニコニコと大江が笑い、「では、失礼」と頭を下げた。
杖をつくでも、手探りするでも、躊躇うでもなく、盲目の老人は確かな歩調でこちらから離れていった。
ここまで普通の人間がたどり着けるわけがない。目印を見ても、迷うものは迷う。しかも大江は目が見えないのだ。
そうとなれば、可能性は限定される。
師匠が大江を招いたのかもしれない。
僕は歩調を早めて、道を進んだ。一度、視界が開けて、湖が半分が赤く染まり、半分は日陰で灰色に変わっている風景が広がった。
そのまま斜面を降りていき、開けた場所に出る。小屋が見えた。
「ただいま戻りました」
中に入ると、師匠がじっと座って待ち構えていたのでぎょっとした。
「師匠?」
「龍青、話をしなくてはいけないことがある」
いつになく深刻な声でそう言うと、すっと立ち上がった師匠が部屋の奥へ向かう。僕は素早く足を洗って拭うと、上がった。
師匠が持ってきたのは、小さな箱だった。木製だが古びていて、ところどころが黒ずんでいる。
何より、蓋を封じるように、奇妙な文字が複雑に合わさったような、変な模様の描かれた紙が貼り付いている。
「これは?」
薄布に隠されている師匠の顔を見るが、もちろん、視線は意識できない。
「この中にとあるものが封印されている。お前の両親にまつわるものだ」
両親?
僕が自分の両親に関して、疑問に思ったことは再三ではない。
記憶を辿れば、十歳になる前に師匠にそのことを訊ねたはずだ。答えは「死んだ」というものだった。
死んだ、ということは、墓があるはずだ、などと思って、この小屋の近辺を隈なく探したり、近くの木立の中に分け入ったり、師匠が墓の管理に行くのではと見張ったりもした。
しかし全てが空振りで、つまり墓はない、と考えるしかなかった。
となれば、本当に死んでいるのか、死んでいるとして、墓を作れない理由は何か、などと考えることが止まることはなかった。
さりげなく両親のことを訊ねたことも繰り返しあったし、その度に師匠は「死んだ」と応じるだけで、そのうちに「雑念を持つな」という返事になった。
十歳になるのを機に、師匠は僕に理力のなんたるか、その使い方と発展のさせ方を伝授し始め、その中でも雑念を払うことを要求された。
それでも僕は両親のことを忘れられず、まさに雑念となったわけだけど、いつの間にか、解決を先送りにすることができるようにもなった。
両親が生きているのなら、いつか、出会えるだろう。
自然とそう考え、僕は日々を過ごした。そのうちに師匠に訊ねる事もやめてしまい、いつか来るいつかを、待っていた。期待もせず、不安も抱かず、待っていた。
その時がどうやら、来たらしい。
緊張しない自分が不思議だった。ただじっと、師匠の見る事のできない瞳を注視した。
「お前の母親を殺した者がいるのを、まず教える」
殺した? つまり、死んだということか。
悲しみよりも、疑問の方が強かった。だって、悲しもうに、顔も声も知らず、温もりさえも知らないのだ。
僕はじっと次の言葉を待った。
「お前の母親、花凛を殺した男は、翼王、と名乗っている」
「翼王?」
「呪術をその身に受けた、異質な男だ。大勢の配下を持ち、今もお前の父親を探している」
思わず息を飲んでしまった。
父親は、生きているのか?
「どこにいるのですか、その、父は?」
「身を潜ませても、もはや私でも探り出せないのだよ。そうするより他に、あの男が生き延びる術はない」
「何故です?」
そう聞き返した瞬間、箱が揺れた。
そう、箱だ。目の前の古びた木の小箱。
誰も触れていないのに、揺れた。
フゥっと師匠が息を吐いた。
「翼王はお前の父親を追っている。そうする理由があるのだ。それも配下に追わせているのではなく、呪術で追跡している。お前の父親は常に命の危機にさらされ、それでも逆にあの男も翼王を探している。今も、どこかで」
「その呪術と」直感を口にしていた。「この箱に関係があるのですね?」
そうだよ、と師匠が頷いた。
「翼王が呪術を施した短剣が、この中に入っている。この短剣は一人でに、お前の父親の心臓めがけて、飛翔する。私の知り合いだった呪術士に、この箱に封じ込めさせ、もう十五年が経っているのだよ」
呪術師? 大江のことだろうか。違う。十五年前と言ったじゃないか。
「大江とすれ違ったね? 龍青。あの方と私は、お互いに技を与え合えたら、と私が考え、ここへ招いたのさ。しかし、私の理力では彼の瞳を癒せず、また彼の呪術ではこの封印を完全なものには戻せなかった」
「なら、元の呪術師に依頼すれば……」
「すでに故人だよ。つまり、お前が選択するしかない。いや、私はお前に選択させるしかない」
すっと、師匠がわずかにこちらに身を屈めた。
「この箱の封印は遠からず、破れる。そうなれば、お前の父親の心臓へ向かって、この短剣は飛ぶだろう。お前の父親は死ぬ。間違いなく。お前にはその結末を変えることができるかもしれない。この剣の行く先を追っていく、という選択肢が、お前にはある」
どう答えればいいか、僕は即座に思案したが、さすがに混乱し、まとまらない。
「どれくらいの猶予があるのですか?」
「箱の封印かね? それほど残されていない。明日にも、決めなさい」
明日……。それはまた、急なことだ。
「短剣が解き放たれてからの猶予は、お前の父親の力量によるが、私には把握できない。並の男ではない、すぐには終わらないだろう」
「理力を使うのですか?」
いいや、と師匠は首を振った。
「あの男は、呪術をその身に受けている」
呪術を?
「勘違いしてはいけない」
師匠の言葉に含まれた気配は、刺すようなものがあった。
「あの男が呪術を身に受けたのは、お前を守るためだよ。そして、翼王と戦うためだ」
もうどう答えることもできず、僕は目の前の箱に視線を落とした。
「父の、名前は?」
師匠は少し間をおいて、静か告げた。
「あの男の名前は、龍灯」
龍灯。
僕が見ている前で、箱が小さく、カタリと動いた。
(続く)