2-7 山中
◆
相羽の街を出て、街道に出たところで、俺たちは足を止めた。
「お前の考えを尊重するよ」
すぐそばには荷車が二つあり、ちょっとした荷物が積まれていた。そして春夏の部下が二人、馬の轡を取っている。
春夏は旅装で、今度は頭に頭巾をかぶっている。
「世話になった、春夏殿」
「世話になった? 迷惑を全部押し付けて、私たちを根無し草にしたのにか?」
その冗談に、彼の部下たちが小さく忍笑いする。彼らとも、俺は仲良くなれそうだったが、しかし今は、違う道を歩くことになる。
「目的の相手に出会えることを、願っているよ」
「ありがとう。そっちも達者でな」
特にそれ以上は何もなく、行くぞ、という春夏の小さな声で、男たちが動き出した。
俺はそこに立ち尽くして、彼らが去っていくのを見送った。
その背中が見えなくなってから、やっと俺は動き出した。
龍青に教わった目印を探しに、教えられた街道を選んで進んでいく。半日ほど進むと、その目印が見えた。しかしだいぶ遠い。今度は目印を頼りに進むが、日が暮れて、すぐに闇が降りてきた。
野宿の経験は十分なので、ゆっくり休んだ。食事は相羽で買った饅頭が手元にあった。
翌朝早くから移動を再開し、すぐに山の中に入る。ここからは遠景の目印ではなく、岩や川の位置などで自分の位置を把握するしかない。
人がほとんど立ち入らない山の中で、地図なんてあるわけがない。
迷って方角を失えば、あるいは延々と同じような光景の木立の中を彷徨い、死ぬかもな。
と、目印の岩が見えた。どうやら俺は順調に進んでいるらしい。次に川が見えた。水を飲んで一息入れたときには、昼間になっている。饅頭を一つ、食べた。冷えていて硬いが、贅沢は言っていられない。
川を越えて、さらに先へ。峰を上っていき、一度、木立が消える。標高が高いために木が生えないのだろうか。ここで一度だけ、遠景で自分の位置を把握するのだと、龍青は教えてくれた。その通りにして、また木立に分け入る位置の見当をつけた。
そのまま林の中に入り、進んでいく。谷に下りていき、谷底の小川を一跨ぎして、また斜面を上がる。
すると前方で何かが動いた。
背中の剣の柄に手を置く。熊とやりあったことは何度もあるし、負けることもない。
しかしクマにしては、気配が弱々しかった。野生の熊の気迫は人間の剣士のそれに近い。
木立の中で身を潜めせるべきか。剣を振れる空間が確保できるかも問題になるが。
が、チラッと見えたそれが、熊ではないと、すぐに気づいた。人だ。
目の前から近づいてくるのは、老人だった。歩き方が不自然だが、確かに人間だ。
こちらから声をかける前に、向こうもこちらに気づき、足を止めた。
「迷っておられるのかな?」
老人の言葉に思わず失笑してしまった。俺からすれば、この老人こそ迷っているように見える。
「それはそちらじゃないのか? ご老人」
その一言を受けて、老人が笑い声をあげた。
「迷ってはいないが、腹は減っている」
そうか、周囲の薄暗さでは、そろそろ夜になる。
「ちょうど俺は饅頭を持っているが、ご老人、俺と会わなかったらどうしていた?」
「それは、空腹のまま眠ったでしょうな」
急にこの老人が何日も飲まず食わずだったのではないか、と不安になった。
「こっちへ来なよ。今、火を起こす」
自分でもびっくりした。
それにしても不思議なことに老人も足止めていて、俺たちの間には奇妙な空白があったのだ。お互いを探るような、空白。
老人が間合いを詰めて、座り込む。俺も屈み込み、火を起こす支度をした。
腰に下げていた水筒を老人に渡した時、老人の目が白濁し、全く見えていないことがわかった。病気だろうか?
礼を言って、彼は水を飲んだ。もう水筒も空でな、などと言っている。
「ここで待っていてくれ、薪と水を手に入れてくるよ」
「迷わないのか?」
「これでも経験がある」
俺は奪うように自分のものと老人のもの、二本の水筒を手に、その場を離れた。
幸い、すぐ近くに水が湧き出して小川になっており、水を汲めた。歩きながら枯れ枝を探し、集めた。
元の場所へ戻ると、人形のように、全く身じろぎせずにそこに老人がいた。
水筒を手渡し、火を起こして薪で大きくする。すでに周囲は闇に覆われつつあった。
「それでどちらへ行くのかな、お若い方」
適当な木の枝に饅頭を刺し、火で炙る俺に老人が訊ねてくる。
「古龍峡というところに人を訪ねるんだ。あんたこそ、どうしてこんなところに?」
「その古龍峡に用事があったのだよ。私の用件は空振りだったがね」
それはまた、すごい偶然だが、ただ、古龍峡に行くもの以外がこんな山奥にいるわけもないのだ。遭難しているなら別だが。
温まった饅頭を二つに割って、片方を老人に手渡した。
「すまないね。銭を払おう」
「良いよ、そんなものは。それより、古龍峡はまだ遠いのか?」
「一日ほどで着くだろう。すぐ近くに人の通る跡が見えるはずだ」
なら、安心できる。
饅頭を食べている間は二人とも無言になった。
「どうしてあんなところへ行くのかな、お若い方」
そんな老人の言葉に、
「知り合いがいるはずなんだ」
と、応じると、老人が少し目を見開いた。
「隠者殿のお知り合いか?」
隠者?
「龍青という名前の男だよ。隠者っていう人もいるのか?」
ああ、と老人は納得したようだった。
「龍青殿のお知り合いか。しかしそれもまた、珍しい」
「珍しいことずくめだよ。そもそも俺もあんたも、珍しい。こんな山奥に迷い込んでいるんだからな」
それもそうだ、と老人が笑う。
「私は大江というものだ。あなたは?」
「火炎」
「火炎殿、色々と世話を焼かせて、申し訳なかった」
良いんだよ、別に。そう応じて、俺は水を飲んだ。
どちらからともなく、特に言葉を口にするでもなく休み、翌朝、俺は早く起きて二人分の水筒に水を入れ直した。
最後の饅頭を焼いていると、大江が起き上がった。
「寝過ごしましたな、年を取ると、様々なことがままならない」
まるで言い訳のようなその嘆きに、俺は思わず笑っていた。
朝食の饅頭を食べて、俺たちは別れることになった。
「気をつけてな、大江殿。野獣に気をつけた方がいい。水も飲み過ぎるなよ」
ええ、ええ、と大江は頷いていた。
「火炎殿も、お気をつけて。龍青殿によろしく」
俺たちはそんな軽い言葉で別れた。しかしそれでも何か、変な繋がりのようなものを俺は感じていた。ただすれ違っただけ、ただ行きあっただけの相手という感じではない。
一人になって、歩を進めると、確かに人が通った痕跡にたどり着いた。その道筋を辿って斜面を上っていくと、崖のようなところへ出た。
「これは……」
見下ろした先に窪地のようなものがあり、その真ん中に湖ができている。
こんなところに人が住んでいるのか?
家か小屋のようなものを探したが、見当たらない。
しばらく絶景に見入ってから、俺は崖を降りる細い細い道へと歩を進めた。
(第二部 了)