2-3 奇跡
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俺が駆け込んだ場所はつい先日、僧侶を切って捨てたばかりの寺だった。
和尚は唖然としていたが、俺は堂々と、
「ちょっと匿ってくれ」
と、言っていた。
和尚は俺が剣の柄に手を置いたところで折れて、中へ入れてくれた。
「あんたの名前を聞いていない」
そう言うと、和尚は背中を向けたまま応じた。
「春夏だ」
「春和尚、か。のどかな名前だが、やっていることは悪党だな」
「そう言うお前こそ、賞金首だということを忘れるな」
あてがわれた部屋で荷物を置いて、俺は春和尚を呼び止めた。
「赤眼和尚とはどういう関係だ?」
「四十年ほど前、ともに野盗をしていた」
四十? 目の前の禿頭の男とは、何歳だろう? 七十?
まぁ、年齢はどうでもいい。
「野盗が寺を運営するとは、世の中、いよいよ腐ってきたな」
「その寺が今、お前を守っているのだぞ」
「その点はありがたいな。ちょっと話がある」
嫌がるそぶりを見せつつ、春和尚は腰を下ろした。
「なんだ? 手短に頼む」
「理力使いについてだ」
かすかに口角が揺れたが、ギュッと閉じられている。
「この前、理力を使う、という奴に出会った」
何? と和尚が身を乗り出すのを、俺は身振りで止める。
「そいつのことを売るつもりはない。ただ理力とはなんなのか、知りたくなった。あんたほどの年寄りなら知っているだろう?」
俺の言葉を受けて、春和尚が目を閉じたので、俺は黙って言葉が出てくるのを待った。
沈黙の後、和尚がゆっくりと口を開く。それでもまだ躊躇いは消え去っていない。
「あれは二十年以上前だ。理力を使う女が、ここに立ち寄った」
女? 龍青の母親、ということだろうか?
「すでにかなり高齢で、その上、両目がなかった。病で失ったと言っていた」
「高齢? しかも目がないだと? じゃあ、どうやってここに来た? そもそもどこから来たんだ?」
「理力の力が満ちる場所を探している、と話していた。ここに来たのは、寺にある書庫の書物が目当てだったらしい。私の記憶では、十日ほど、書庫に入り浸っていたよ」
わけがわからない。
「目が見えないのに、書物を見ていたのか?」
「それが事実だ。私は何度も不審に思って、書庫を見に行った。その女性は、じっと書物に顔を向けていた。巻物をスルスルと読み進めていく。見えてないのにだ。ただ、見えていると感じさせる何かがあった」
全くわからない。
「で、どこへ消えた?」
「わからないよ。しかし私たちには非常に丁寧に礼を言って、出て行った」
「悪党のあんたたちにか?」
「彼女がそんなことを見通せるわけがない。何せ、目がないのだ。あれは、不気味だった」
ぶるりと、春和尚が肩を震わせた。
「顔に布を垂らして見せないようにしていたのだが、ある時、布がめくれた。両目のところが、すっぽりと空洞になっていて、これが奈落か、と思った。どこまでも続いていそうな、深い闇がそこにあった……」
なにやら詩的なことを言い出したが、俺には必要ない情報だ。
「で、つまり、理力とはなんだ?」
「それはお前も書物を読めばわかるかもしれない、ここにいる間、書庫にこもれ」
「俺は文字がよく読めないんだ。無学でね。力はあるんだが」
深く息を吐いてから、空想だが、と前置きして春和尚が教えてくれた。
「精神力、と呼ばれるものの発展系だろうと、思われる。しかしそれは殆ど奇跡に近い」
「呪術とは違うんだろ?」
「呪術が求めるものは、理力とは正反対だ。呪術をその身に刻むと、代償に何かが奪われる。つまり何かと交換に力が手に入る。だが、理力は、何も代償を必要とせず、むしろ外部へ広がっていく」
わけがわからない。何か小難しい理屈がありそうだ。
「噛み砕いて、率直に頼む」
「要は、理力というのは、内にある力で外部へ影響を及ぼす。基本は内にある精神力で、外部世界で最も身近な自身の肉体に力を作用させる。それが達人、超一流の使い手になると、もっと広い範囲、自分の肉体を超えたものに、作用させることができる」
「全くわからん」
私にもだ、と春和尚が顔をしかめる。
「ただあの女性が書物に視線を落とす、ないはずの視線を落とすのを見たとき、私は理力は確かにある、と感じた」
「どうして?」
「彼女が何かを見ている、と思ったからだ。つまり目ではないもの、眼球ではない目が、彼女にはあると、私には確信が持てた。それこそが理力の本質なんじゃないかとな」
これはどれだけ話をしても無駄なようだった。
「それで、その理力を使う婆さんはもうどこかに消えたわけだ。どこにいるか知らないのか?」
「ここ二十年、顔も見ないし、噂も聞かない。死んだと思っていた。お前が急に理力がどうこう、と言いだして、記憶が一気に蘇ったよ。もう理力なんて、消えたと思ったが、違うのか?」
「どうかね」
俺が黙っていると、春和尚は「じっとしていてくれ」と言い残して、どこかへ去っていった。
俺は板の間に横になり、考えた。
龍青の師匠というのが、たぶん、春和尚の話した婆さんだろう。では、龍青はどこからやってきたんだ? その婆さんの子供ということは、さすがにないだろう。
それにしても、理力の実在を、俺は理屈を抜きにして、実感していた。
まず立ち合いの最後、俺の本気の打ち込みを龍青はピタリと止めて見せた。
あの時の違和感は思い出すだけで背筋がムズムズする。
本気で打ち込んだ。龍青の貧弱な剣が折れて飛び、一方で俺の剣があいつを二つに切るはずだった。
だが実際には、俺の剣が欠け、龍青は微動だにしなかった。
まさに微動だにしなかったのだ。
俺の剣が加えた力が、何か、変な柔らかいものに吸収させるように、消えてしまった。
手応えが不自然で、それが今でも不快で、不可思議だった。
もう一つ、龍青の理力の存在を裏付けるのは、あの宿屋の番頭の娘の傷を癒したことだ。
あれこそ、まさに奇跡だった。剣の一撃を受け止めるなどということより、比べ物にならないほどの奇跡だ。
大量の出血は、明らかに致命的な傷だと示していた。俺も何度も人を切っている。あれだけの出血で生き延びた相手は、いない。それは間違いない。
しかし娘は死ななかった。その上、傷もなくなっていた。
理力があの娘に作用したんだろう。龍青が精神力を自分の肉体の外部、娘の体に伝えた。
明かりが暗かったし、俺は襲撃してきた悪党の相手で忙しかったから、よく見えなかった。それが今になると惜しい。
春和尚の言葉で、俺の中で理力は現実の一角として、強く立ち上がっていた。
また龍青と手合わせしたら、勝てるだろうか。
はっきり言って、龍青は今のところ、底が知れない。
底が知れないのに、一方で極端に消極的でもある。
力の使い方を、知らないのだろう。
惜しい。
頭にあるのはそのことだけだ。
俺はいつの間にかうとうとしていて、読経の声で目を覚ますと、夕日が部屋に差し込んでいた。
寺の料理って奴は、いつ食べてもそっけないが、さて、今日は何が出てくるのやら。
というか、出るよな? 食べ物。
(続く)