1-1 鳥
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僕は一人でゆっくりと山道を進んでいた。
何度も通っているので、そこだけ草が短くなっている。背中にはかごを背負っていて、中には山菜が入っている。しかし今日の収穫は少なめだ。
この山には、僕と七十を幾つか越した師匠しか住んでいないので、足りないことはない。
木々が不意に途切れ、目の前に湖が広がった。
ここを回り込んでもいいけど、最近は訓練も兼ねて、直進することにしている。
少し呼吸を整え、水際へ足を踏み出す。
ほんのわずかな深さの水の上に、僕の足が踏み出し、水に乗った。そのまま、進んでいく。
一歩、二歩。
すでに足首より上までの水深があるけど、僕は水に沈んでいない。
湖面に、直立し、さらに進んでいく。
世の中には正体不明の力がいくつかある。最も広く知られているのは呪術だ。何かを見返りに、特別な力を得る。
今、僕が使っている力はそれとは違う。
理力、というらしい。集中と意志力によって、超常の力を起こす力。
この山、古龍峡と呼ばれる人里離れた場所で、僕は物心つく前から育てられ、すでに十五年が過ぎている。
湖をさらに進み、今の水深は肩を超えたあたりか。しかし僕が水に没することはない。
十五年という時間の前半は、僕はほとんど特別なことをせずに過ごしていた。共に暮らす師匠が、本当の師匠になったのは、僕が十歳になった頃で、それまでは字や算術など、普通のことしか教わらなかった。
湖の真ん中をいく。水面のすぐ下を魚が通っていく。大きい。
やがて湖を渡りきり、ふっと呼吸を緩めると、かすかに疲労感がある。
しかし足は少しも濡れていない。上出来だ。
また林の中に分け入るが、すぐに小さな小屋がある。
「ただいま戻りました」
中に入ると、「どうだった?」と声がかけられる。
声を発したのは、狭い部屋の奥に座っている老婆で、この人が僕の師匠だ。顔には薄い布を垂らしていて、表情は見えない。でもいつものことだ。
襤褸という名前のこの老婆には、顔を隠す理由がある。
「少しも沈まずに、渡れました」
「さすがは渡水鳥かな」
渡水鳥というのは、師匠が僕につけた通り名だったけど、今のところ、師匠以外がそう呼ぶことはない。
山菜の入ったかごを下ろし、中身をいつも通りの場所に出し、かごは片付けておく。水甕の水で手を洗い、食事の支度を始める。
「明日にでも、下へ行っておくれ、龍青」
背中に声がかけられた。
「買い出しですか?」
すぐそばの畑で、自分で手塩にかけて育てた野菜を、甕からすくった水を煮立たせた鍋に入れる。
「占いの結果だよ」
「そうですか」
師匠の占いは、凡百の占い師の占いとは違う。
超一流の理力使いによる占いは、ほとんど未来予知に近い。
「後で詳細を教えてください」
「詳細などないよ」
まったく、この人はいつもこんな感じだ。
干し肉を切って鍋に入れ、調味料も入れる。これは師匠が作っているタレのようなもので、何にでも使える。作り方はまだ教わってない。
麦はなかなか育てるのが難しいので、芋を育てている。その芋も皮をむいて、芽を取り、鍋に放り込んでおく。
かき混ぜつつ、師匠に声をかける。
「何か欲しいものはありますか? 上に戻ってくる時に面倒じゃなければ、買ってきますよ」
僕たちは古龍峡を「上」、麓の村を「下」と呼んでいる。
師匠は少し考えた後、「はちみつ」と答えた。季節は春になろうとしている。はちみつが手に入るかは、想像してもわからない。
料理が出来上がり、食事になった。
「いいかい、渡水鳥、相羽の街でお前は運命的な出会いをする、と私の占いは告げている」
食事をとりながら、師匠が言う。
「誰と会うかはわからない。しかし、それが始まりらしい。気をつけて行っておいで。理力はあまり人に見せるんじゃないよ。ここぞという時だけだ」
「わかってますよ。変な目で見られますからね」
「お前は迂闊だから、どうなるか心配だよ」
「大丈夫です。見せません」
そうしておくれ、とゆっくりと匙が師匠の口と手元の器を往復する。
食事と片付けが終わって、まだ日が出ているので、僕は外に出た。
手には棒を握っていて、その棒はちょうど剣と同じ長さに切ってある。
正眼に構えて、呼吸を整える。
すっと振りかぶり、すっと下げる。体を力ませずに、自然な素振りを心がける。
何度も何度も、繰り返し繰り返し、基礎の基礎を繰り返す。
汗が滲んでも、呼吸はまだ乱れない。
振り方を変えていく。複数の筋で、ゆっくりと、しかし滑らかに、振りを重ねる。
「それくらいにしな」
背後からの師匠の言葉に、僕はやっと集中を解いた。
いつの間にか服はぐっしょりと濡れ、呼吸は乱れている。何より、周囲が薄暗くなっていることにびっくりした。
こんな風に熱中することは、今までも何度かあったことだけど、この驚きだけは慣れることがない。
師匠は小屋の外に出てきて、薪を割るときに便利な木の切り株に腰掛けている。
「きれいな筋だ。悪くない」
「ありがとうございます」
「明日は剣を持っていくといい。安全のためだ」
「剣を持っている相手を無力化する自信がありますけど」
ふん、と師匠が一笑に伏す。
「それは慢心、油断さね。早く汗を流して、さっさと寝なさい」
小屋に戻ると、すでに鍋で湯が沸かされていて、これを小屋の裏手の桶に持って行き、水と合わせて、風呂の真似事をする。僕が風呂というものを知っているのは、下に降りたときに利用したからだ。つい数年前まで、本当の風呂というものを知らなかった。師匠も僕も、山を下りなかったからだ。
体を洗って、服を新しいものに着替える。師匠が入れ替わりに風呂に入った。
その夜はゆっくりと休み、早朝になって、僕は習慣にしている運動を欠かさずにやった。山の中を駆け回るのだ。基礎的な体力は何よりも重要になる。理力にも影響するのだ。
走っている最中、僕は無心になる。この無心こそが、理力を支える要素のようだった。
小屋に戻ると、師匠が朝食を用意してくれていた。いつもの芋と野菜を煮たものだ。
食事の後、僕は身支度を整えて、小さなカバンを背中に背負った。
「本当にはちみつだけでいいのですか?」
小屋を出る時に訊ねると、師匠は口元に笑みを浮かべ、「任せた」などと言っている。
その師匠が僕に剣を手渡した。一度、鞘から抜いて、状態を確かめる。細身のまっすぐな両刃の剣が、綺麗に光を反射している。素早く鞘に戻し、腰に下げた。
「では、行ってまいります」
「気をつけて行ってきなさい」
僕は師匠に一度、頭を下げ、山を降りる方へ、進み出した。
こちらの道筋は滅多に人が出入りしないために、下草がだいぶ伸びている。
この古龍峡に余所者は可能な限り入れない、それが師匠の方針だった。
下手に下草を刈ってしまうと、道が出来て、人が来るかもしれない。そのために師匠は僕に、下に降りるときは遠回りをしていくように厳命している。今までもそうしてきた。
この時も森の中を彷徨い歩くようにして進んだので、下の小さな村にたどり着いたときには、太陽は真上にあり、そこから先へ進み相羽という宿場に着いたときには、すでに日が落ちようとしていた。
師匠が渡してくれた財布の中身をもう一度、確認し、それとは無関係に、一番安い宿に向かった。何度も利用しているので、番頭の男性も顔なじみだ。
その宿に入ると、表にいた番頭さんがパッと顔を明るくさせる。
「龍青さん、遠いところをわざわざ」
「いえ」僕は頭を下げつつ、訊ねる。「部屋は空いていますか?」
「ええ、ええ、これでも盛ってはいるのですが、部屋は空いております」
返事に困る冗談だった。
僕は苦笑いを返してやり過ごし、部屋を取った。
「実はですね、龍青さん」
部屋に直々に番頭さんが案内する廊下で、そう声をかけられた。
「不思議なお客がいまして」
「不思議とは?」
「盲目なのです。で、目を治す方法を探しているとか」
ぎょっとした僕に、番頭さんが不思議そうにこちらを見やる。
「何かございましたか?」
「いえ」
僕は表情を作り直し、穏やかな笑みを返した。
部屋で旅装を解いていると、廊下から声をかけられた。
「よろしいですか、お若い方」
知らぬ声だった。返事を返す前に相手が続けた。
「理力というものを教えていただきたいのだが」
これはまた、厄介なことになった。
僕はすっと立ち上がり、戸を開けると、そこには師匠と同年輩の男性が片膝をついていた。
こちらを見上げる両目には、光がない。
「中へどうぞ」
僕がそう言うと、男性はちょっと笑ったようだった。
(続く)




