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鳥と雷  作者: 和泉茉樹
第一部 渡水鳥
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1-1 鳥

     ◆


 僕は一人でゆっくりと山道を進んでいた。

 何度も通っているので、そこだけ草が短くなっている。背中にはかごを背負っていて、中には山菜が入っている。しかし今日の収穫は少なめだ。

 この山には、僕と七十を幾つか越した師匠しか住んでいないので、足りないことはない。

 木々が不意に途切れ、目の前に湖が広がった。

 ここを回り込んでもいいけど、最近は訓練も兼ねて、直進することにしている。

 少し呼吸を整え、水際へ足を踏み出す。

 ほんのわずかな深さの水の上に、僕の足が踏み出し、水に乗った。そのまま、進んでいく。

 一歩、二歩。

 すでに足首より上までの水深があるけど、僕は水に沈んでいない。

 湖面に、直立し、さらに進んでいく。

 世の中には正体不明の力がいくつかある。最も広く知られているのは呪術だ。何かを見返りに、特別な力を得る。

 今、僕が使っている力はそれとは違う。

 理力、というらしい。集中と意志力によって、超常の力を起こす力。

 この山、古龍峡と呼ばれる人里離れた場所で、僕は物心つく前から育てられ、すでに十五年が過ぎている。

 湖をさらに進み、今の水深は肩を超えたあたりか。しかし僕が水に没することはない。

 十五年という時間の前半は、僕はほとんど特別なことをせずに過ごしていた。共に暮らす師匠が、本当の師匠になったのは、僕が十歳になった頃で、それまでは字や算術など、普通のことしか教わらなかった。

 湖の真ん中をいく。水面のすぐ下を魚が通っていく。大きい。

 やがて湖を渡りきり、ふっと呼吸を緩めると、かすかに疲労感がある。

 しかし足は少しも濡れていない。上出来だ。

 また林の中に分け入るが、すぐに小さな小屋がある。

「ただいま戻りました」

 中に入ると、「どうだった?」と声がかけられる。

 声を発したのは、狭い部屋の奥に座っている老婆で、この人が僕の師匠だ。顔には薄い布を垂らしていて、表情は見えない。でもいつものことだ。

 襤褸という名前のこの老婆には、顔を隠す理由がある。

「少しも沈まずに、渡れました」

「さすがは渡水鳥かな」

 渡水鳥というのは、師匠が僕につけた通り名だったけど、今のところ、師匠以外がそう呼ぶことはない。

 山菜の入ったかごを下ろし、中身をいつも通りの場所に出し、かごは片付けておく。水甕の水で手を洗い、食事の支度を始める。

「明日にでも、下へ行っておくれ、龍青」

 背中に声がかけられた。

「買い出しですか?」

 すぐそばの畑で、自分で手塩にかけて育てた野菜を、甕からすくった水を煮立たせた鍋に入れる。

「占いの結果だよ」

「そうですか」

 師匠の占いは、凡百の占い師の占いとは違う。

 超一流の理力使いによる占いは、ほとんど未来予知に近い。

「後で詳細を教えてください」

「詳細などないよ」

 まったく、この人はいつもこんな感じだ。

 干し肉を切って鍋に入れ、調味料も入れる。これは師匠が作っているタレのようなもので、何にでも使える。作り方はまだ教わってない。

 麦はなかなか育てるのが難しいので、芋を育てている。その芋も皮をむいて、芽を取り、鍋に放り込んでおく。

 かき混ぜつつ、師匠に声をかける。

「何か欲しいものはありますか? 上に戻ってくる時に面倒じゃなければ、買ってきますよ」

 僕たちは古龍峡を「上」、麓の村を「下」と呼んでいる。

 師匠は少し考えた後、「はちみつ」と答えた。季節は春になろうとしている。はちみつが手に入るかは、想像してもわからない。

 料理が出来上がり、食事になった。

「いいかい、渡水鳥、相羽の街でお前は運命的な出会いをする、と私の占いは告げている」

 食事をとりながら、師匠が言う。

「誰と会うかはわからない。しかし、それが始まりらしい。気をつけて行っておいで。理力はあまり人に見せるんじゃないよ。ここぞという時だけだ」

「わかってますよ。変な目で見られますからね」

「お前は迂闊だから、どうなるか心配だよ」

「大丈夫です。見せません」

 そうしておくれ、とゆっくりと匙が師匠の口と手元の器を往復する。

 食事と片付けが終わって、まだ日が出ているので、僕は外に出た。

 手には棒を握っていて、その棒はちょうど剣と同じ長さに切ってある。

 正眼に構えて、呼吸を整える。

 すっと振りかぶり、すっと下げる。体を力ませずに、自然な素振りを心がける。

 何度も何度も、繰り返し繰り返し、基礎の基礎を繰り返す。

 汗が滲んでも、呼吸はまだ乱れない。

 振り方を変えていく。複数の筋で、ゆっくりと、しかし滑らかに、振りを重ねる。

「それくらいにしな」

 背後からの師匠の言葉に、僕はやっと集中を解いた。

 いつの間にか服はぐっしょりと濡れ、呼吸は乱れている。何より、周囲が薄暗くなっていることにびっくりした。

 こんな風に熱中することは、今までも何度かあったことだけど、この驚きだけは慣れることがない。

 師匠は小屋の外に出てきて、薪を割るときに便利な木の切り株に腰掛けている。

「きれいな筋だ。悪くない」

「ありがとうございます」

「明日は剣を持っていくといい。安全のためだ」

「剣を持っている相手を無力化する自信がありますけど」

 ふん、と師匠が一笑に伏す。

「それは慢心、油断さね。早く汗を流して、さっさと寝なさい」

 小屋に戻ると、すでに鍋で湯が沸かされていて、これを小屋の裏手の桶に持って行き、水と合わせて、風呂の真似事をする。僕が風呂というものを知っているのは、下に降りたときに利用したからだ。つい数年前まで、本当の風呂というものを知らなかった。師匠も僕も、山を下りなかったからだ。

 体を洗って、服を新しいものに着替える。師匠が入れ替わりに風呂に入った。

 その夜はゆっくりと休み、早朝になって、僕は習慣にしている運動を欠かさずにやった。山の中を駆け回るのだ。基礎的な体力は何よりも重要になる。理力にも影響するのだ。

 走っている最中、僕は無心になる。この無心こそが、理力を支える要素のようだった。

 小屋に戻ると、師匠が朝食を用意してくれていた。いつもの芋と野菜を煮たものだ。

 食事の後、僕は身支度を整えて、小さなカバンを背中に背負った。

「本当にはちみつだけでいいのですか?」

 小屋を出る時に訊ねると、師匠は口元に笑みを浮かべ、「任せた」などと言っている。

 その師匠が僕に剣を手渡した。一度、鞘から抜いて、状態を確かめる。細身のまっすぐな両刃の剣が、綺麗に光を反射している。素早く鞘に戻し、腰に下げた。

「では、行ってまいります」

「気をつけて行ってきなさい」

 僕は師匠に一度、頭を下げ、山を降りる方へ、進み出した。

 こちらの道筋は滅多に人が出入りしないために、下草がだいぶ伸びている。

 この古龍峡に余所者は可能な限り入れない、それが師匠の方針だった。

 下手に下草を刈ってしまうと、道が出来て、人が来るかもしれない。そのために師匠は僕に、下に降りるときは遠回りをしていくように厳命している。今までもそうしてきた。

 この時も森の中を彷徨い歩くようにして進んだので、下の小さな村にたどり着いたときには、太陽は真上にあり、そこから先へ進み相羽という宿場に着いたときには、すでに日が落ちようとしていた。

 師匠が渡してくれた財布の中身をもう一度、確認し、それとは無関係に、一番安い宿に向かった。何度も利用しているので、番頭の男性も顔なじみだ。

 その宿に入ると、表にいた番頭さんがパッと顔を明るくさせる。

「龍青さん、遠いところをわざわざ」

「いえ」僕は頭を下げつつ、訊ねる。「部屋は空いていますか?」

「ええ、ええ、これでも盛ってはいるのですが、部屋は空いております」

 返事に困る冗談だった。

 僕は苦笑いを返してやり過ごし、部屋を取った。

「実はですね、龍青さん」

 部屋に直々に番頭さんが案内する廊下で、そう声をかけられた。

「不思議なお客がいまして」

「不思議とは?」

「盲目なのです。で、目を治す方法を探しているとか」

 ぎょっとした僕に、番頭さんが不思議そうにこちらを見やる。

「何かございましたか?」

「いえ」

 僕は表情を作り直し、穏やかな笑みを返した。

 部屋で旅装を解いていると、廊下から声をかけられた。

「よろしいですか、お若い方」

 知らぬ声だった。返事を返す前に相手が続けた。

「理力というものを教えていただきたいのだが」

 これはまた、厄介なことになった。

 僕はすっと立ち上がり、戸を開けると、そこには師匠と同年輩の男性が片膝をついていた。

 こちらを見上げる両目には、光がない。

「中へどうぞ」

 僕がそう言うと、男性はちょっと笑ったようだった。




(続く)

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