福沢諭吉、復活!
慶応義ズク大学の三田キャンパスの地下には、ほんのわずかな人間しか知らない秘密の研究室がある。その秘密を知ることができる人間は、創設時の生き残りを除けば基本的に、福沢諭吉の嫡子と大学の学長、それから理工学部の学部長だけである。基本的にと言うのは、メンバーを追加することもできるということだ。正規メンバーが必要とし、なおかつ信頼することができると判断されたならば、合議を経て新たな人間を加えることも可能だ。むろん、その合議プロセスは不透明である。
彼らが集うその秘密組織は「福沢復活の会」と言う。略して「FF会」。ファイナル・ファンタージを連想させるのはまったくの偶然だが、秘密結社ということもあってメンバーたちはあまり気にしていない。
FF会の結成理由はただ一つ。もちろん、名前の通り、福沢諭吉の復活だ。具体的には福沢諭吉のクローンを造ることである。
FF会はバブルの頃、当時理工学部の助教だった恵まれない研究者、ミサキ氏の酩酊がきっかけで結成された。それはミサキ氏が理工学部長と名古屋のクラブで飲んだあと、一緒にタクシーでホテルに戻るときの会話から始まった。
「学部長ー!最近の学生はなっていないです」とミサキ氏。
「ああ、ああ」と学部長。彼はそんなことよりも、タクシーの窓をあけて吐こうか、吐くまいか悩んでいた。
「あいつら勉強もしないで遊んでばっかりです!学部長ー!私たちが学生の頃はそうじゃなかった。目の前の課題は、体制か反体制しかなかった」
「ああ、そうかもなー」と学部長。彼にとっての目の前の課題は、もちろん嘔吐か否か。
「いま必要なのは福沢の復活ですよ!学部長ー!学問のすゝめ!学問のすゝめーーー!」
東京に帰ってきてから早速ミサキ氏はFF会を発足させた。しかし、しばらくは単なる福沢諭吉研究に留まった。
しかし、二十一世紀になると状況が変わった。科学と思想のパラダイムシフトが起こったのである。ゲノム解析の精緻化と人工多能性幹細胞の進歩、AIの実用化が技術的必要性を満たし、そして倫理観の崩壊が起こると人間と動く無生物の差はほとんどなくなった(無駄が多いか、無駄が無いかだけである)。それと、ちょっとした右傾化から『脱亜論』が注目されたのも、福沢復活の追い風となった。
まあ、とにかく福沢復活が現実のものになったわけである。
20XX年1月
「ミサキくん。あとはこれを入れるだけだね。これを入れれば、ついに福沢が復活するということだね」慶応義ズク大学理工学部の学部長、文山太郎が興奮気味にミサキ氏に言った。文山はティファニーブルーの溶液が入った注射器のようなものを持っている。理論的には、この溶液を福沢のAIロボットに注ぎ、毛布で体温くらいになるまで温めれば、福沢諭吉のクローンに意識が吹き込まれるそうだ。
文山の手は震えていた。ミサキ氏はそれを見ていると少しだけ冷静になれた。そして今までの試みについて思い返してみた。考えてみれば、福沢諭吉復活の理論が完成してから、もう五年は経っていた。そして、FF会はかれこれ十回は失敗を繰り返してきたのだ。一番印象に残っている実験は、爪の垢から取った遺伝子なら、ちょっとはちゃんと復活するかもしれないという洒落たものだった。むろん、その実験は失敗した。ただメンバーは本気だったので、そんなふざけた実験でも、失敗すれば落胆した。
ミサキ氏は研究室を見渡してみた。薄暗く、黴臭い。そして中央には、福沢諭吉のクローン。正直言って、ミサキ氏は怖かった。それはかつての一万円札に使われていた重々しい容貌のためばかりではなく、パンドラの箱を開けてしまうのではないかという畏怖の念でもあった。実験を繰り返すたびに福沢諭吉は人間に近づいてきた。そして、今や目の前にある塊は人間そのものだということをミサキ氏は知っていた。皮膚も眼球も骨も、すべて。
「いきますよー」と文山の声が研究室に響く。何回経験しても、この瞬間だけは緊張するものなのである。メンバーの視線が文山に釘付けになった。もちろんミサキ氏も文山に注目した。文山が溶液を人造の福沢諭吉に注ぐ。誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。
しばらく、何の反応もなかった。また失敗かと、ミサキ氏が安心しかけたそのときに、人造の福沢がわずかに震えだした。
「あああ・・・あっ・・・あhhh・・・」かすかだった震えは徐々に強くなり、それは心臓の鼓動となった。「あああああっああっ・・あ・・・・・あっ・・あああああああぁ」
「どうしたんだ!」福沢諭吉の玄孫の孫が言う。
「生体反応です!これは激しい!」と文山。心電図がショートした。「心臓マッサージだ。早く!」
「ああああああ・・・・」福沢は白目を剥き、口から泡を吹き出している。「あああ・・てnあ・・てん・・hあ・・・」
「おい、なんか言ってるぞ!」慶応義ズク大学付属病院の救急科部長が叫ぶ。
「ええ・・・てってー・・・っってんは・・ってんは・・ひいと・・てんはひと・・・・・てんはひとぉおのに・・・」
そのとき、福沢諭吉が目を見開いた。「てんはひとのー、ひとのうえに・・・天は・・人の上に人を、人を作らず・・・天は人の上に人を作らず・・・天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず。天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず!天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず!」
こうして福沢諭吉は復活した。人が福沢諭吉を造ったわけだが。
「余は目覚めた」と毛布にくるまれた福沢諭吉が言った。
FF会のメンバーは、あんぐりと口を開け、福沢諭吉を見ていた。
「ん、どうした?」と福沢。「目覚めてるのは、余だけか」
なんとか冷静さを取り戻した文山が福沢に近づく。「ああ、いや、なんてもうしたらいいのかでしょう。初めまして、いや、初めてという気はしませんが・・・。はい、私は文山太郎と申します。いやはや、私はあなたがお創りになさった大学で教授をしています。ああ、かたじけない。あまりの驚きで言葉が見つかりません」
文山が挨拶をしているあいだ、福沢は一瞥もくれず、研究室を見回していた。そして「ここはどこだ」と無愛想に聞いた。
「東京の三田でございます」と文山。
「ふむ」と福沢は。「まあ、歩くとするか。余には時間があまり残されていないからな」そして福沢は研究室を出ていった。
FF会のメンバーはいまだに呆然としていた。ミサキ氏が外に出たのは、福沢が外に出てから二、三分のことだった。
「福沢さん」とミサキ氏が叫んで、福沢諭吉を呼び止めた。
「ここは本当に三田か」福沢は振り向くと訊いた。
「はい。三田です」
「変わったな」
「おそらくあなたが生きていたときとは大きく変わったでしょうね。まあ、私は歴史にあまり明るくないのですが」
しばらく福沢諭吉は同じ場所から動かなかった。憮然とした表情で、相変わらず腕を組み、景色を眺めている。
「さっき、自分には時間がないと言ってましたね」ミサキ氏が訊いた。
「ああ、そうだ。余には二十四時間しか、残されていない。そういう契約だ」そして何かを閃いたように「新聞はあるか」とミサキ氏に訊いた。
「ちょっと、待ってください」ミサキ氏はポケットをごそごそ探り、スマートフォンを取り出した。「どうぞ」
「バカにしてるのか。新聞だぞ」と福沢は怪訝な表情を浮かべたが、最新のAIが入った彼はすぐに理解したようだった。「うむ」と福沢。
それから三時間あまり福沢諭吉はスマホをいじり続けた。ミサキ氏は、コンビニで買ったコーヒーを飲みながら見続けていた。
夕方、日が暮れ始めたあたりで、福沢はようやくスマホを置いた。それはミサキ氏はそのとき三杯目のコーヒーを飲み終えて、おかわりを買いに行こうか悩んでいるときだった。
「どうかなさいました」とミサキ氏。
「うむ」と憮然とした表情を浮かべる福沢諭吉。「どうやら我が国は、まだ列強国との不平等な関係を続けているらしい。まあ五カ国から米国だけになったのだから、進歩したとは言えるが、あまりに遅々としている」
その夜は福沢の復活を記念して、急遽祝賀会が開かれた。準備の時間がなかったとはいえ、多くの人が集まった。百人くらいだろうか。政界から財界、スポーツ界、もちろんみんな慶応義ズク大学の出身者たちである。
司会者のフリーアナウンサーが壇上で喋っている。「きょうは、なんと我が慶應義ズク大学の創業者である福沢諭吉先生が復活されたということで、急遽ではありましたが、それを祝しましたの会であります。きょう集まられた方々はすべて、大学卒業生も含め、福沢先生とゆかりがある、いやまさしく福沢諭吉門下でありまして・・・・・・」
つづいて文山が壇上にあがった。
「本日とういう日は、とりわけ慶應義ズクにとってまったく特別な日になりました。感動で満ち満ちた日となりました。私たちは、つまり慶應義ズクで学び、福沢諭吉氏の意志を引き継いだ私たちということですが、あるいは同志といっても過言ではありません。これからも慶應義ズクの発展と伝統の火を絶やさぬよう・・・・・・」
ミサキ氏はその後も続く、スピーチに退屈していた。だいたいがこういう会が苦手なのである。それに久しぶりに会う同窓の人間たちの凡庸さにも辟易していた。そもそも、ミサキ氏は彼らのことを覚えてさえいなかった。さっき来た太った人間は誰だ?肛門科の医者をやっていて数年前に引退したと言っていたが。「肛門からは解放されたけど、こんどは妻の尻に敷かれてるよ」とその男は言っていた。ミサキ氏は彼が去ったあと、握手した手の臭いをかいでみた。香水臭かった。
ミサキ氏は舞台の上にいる福沢諭吉を見つめた。福沢はたくさんの人間から挨拶を受けていた。挨拶をする人間のなかには泣いている人間もいた。福沢の感情はミサキ氏がいる場所からでは、わかりにくかった。福沢はただ頷いているだけだ。お酌をされても、いっさい飲もうとはしなかった。
会が始まって一時間が過ぎたあたりで、ミサキ氏は福沢が舞台から降り、会場の外に出て行くのに気がついた。おのずとミサキ氏の足も外へ向かった。
「退屈ですか」とミサキ氏は福沢諭吉を見つけるとそう言った。福沢は会場を出てすぐそこにあるベンチに座っていた。もちろん腕を組んで。
「また君か。いや、実に退屈したが、興味もまた惹かれた」
「そうですか」とミサキ氏。
「いや、昔も、余が本当に世に生きていた昔も、斯様なことがあったなと思い返していただけである。余もまた自分で考えてみるに、もとより我が国の気風はちっとも変化していない。わが国で士君子であろうとすれば、どこかに所属せざるを得ない」
ミサキ氏がその言葉にうまく反応できないでいると、福沢諭吉は夜の闇へと消えていった。
次の日、ミサキ氏が午前十時あたりにキャンパスに着くと、福沢諭吉はきのうスマホをいじっていたのと同じ場所にいた。
「どうも」とミサキ氏。「今日でお別れですね」
「うむ」と福沢。
「なにか見ておきたいものとかないですか、案内しますよ」
「ない」
話が盛り上がらず終わったちょうどそのとき、一人の若い女性が近づいてきた。
「すいません」とその女性が言う。どこか垢抜けない感じの女性だ。
「はい」とミサキ氏は答えた。「どうかしました?」
「あの、東館どこですか?」彼女は手に持った紙切れを見ながら、そう言った。
「あれですよ」とミサキ氏は指をさした。「あれが東館」
「ありがとうございます」と彼女は東館を確認すると笑顔でそう言った。
その女性は立ち去ろうとしかけたが、立ち止まった。「あの、見たことあります」と言った。むろん福沢諭吉のことを言っているのである。「わたし、あなたを見たことあります」
福沢は軽く頷いた。
「留学生?」とミサキ氏は尋ねた。
「はい。ベトナムから来ました。あの、四月からここで勉強します」
「頑張ってね」
「ありがとうございます」彼女は笑顔で答えた。素朴な素敵な笑顔だった。「頑張ります。あの、私日本が大好きで、学びに来たんです」
「ありがとう」
そして彼女は軽くお辞儀をして東館へ向かった。
「ベトナムとはインドシナか?」女性の姿が見えなくなると、福沢諭吉はミサキ氏に尋ねた。
「そうです」とミサキ氏は答えた。
復活から二十四時間が経ち、福沢諭吉は止まり続けた。