5冷たい雨
「これ、あげるから、つけて」
「何?」
アクセサリーショップの紙袋を渡されて訝しんだ私は受け取ったそれを見る。兄が私にアクセサリーの類いを買ってくれたことは無かった筈だが。
中を見れば、赤いチョーカー。首輪を意識したデザインになっているようだ。
「え?兄さんこれツッコミ待ち?」
「なんで?気に入らなかった?」
兄は私の気になるところに全く気がつかない。中性的な美形ではあるが、明らかに男な兄がアクセサリーショップでこんなデザインと色の物を見ていたら気になるのは私だけなのだろうか。
「いや、気に入ったよ?可愛いし、兄さんがくれるなら何でも好き」
「良かった」
兄は柔らかく笑う。その優しい笑い方は好きだ。そんな笑い方をしてくれることにホッとする。
身に付けてみてほしい、と言われて私はそれを首に巻く。
喉にぴったりと張り付くけれど、伸縮性もあるので不快感はない。着け心地の良さに感心していると、兄が私の首筋に顔を近づけた。
「…んっ…兄さ…くすぐった……」
「……ん……」
髪と唇がさわさわと触れて、くすぐったさについ声を出す。兄は私の首筋に顔を埋めて、暫く私を悶えさせると、ちくりという感触を与えてから顔を放した。
私はその感覚に顔をしかめて、兄のにやりと笑うような悪戯っぽい表情を見て、兄が何をしたのか思い至り、怒って見せる。
「兄さん!今痕つけたでしょ!やめてっていってるのに」
誰かに見られてしまうことを思うと気が気でない。やめてくれと訴えているのに思い出したように痕をつけるのは、兄の悪い癖だ。
「良いだろ?どうせ明日には消えるぐらいのやつだし」
「そーゆー問題じゃないの!お風呂入った時とか居たたまれないじゃない」
「ふーん。そういうものなのか」
涼しげな顔で興味深そうな顔をするだけの兄に、いつか仕返ししてやろうと意気込むことぐらいしか出来ないのだった。
「いつかすっごい困らせてやるんだからね!」
「あーはいはい」
捨て台詞もろくに取り合ってもらえず、かなり悔しい。意趣返しに引き寄せた手に噛みつけば、困ったように兄が笑った。
「うちのお姫さまは何がお望みなのかな?」
「………甘やかして?めいっぱい」
私は根っからの末っ子気質だったようだと我ながら呆れる。それに兄は、根っからの世話焼きのようだ。なんだろう、ウィンウィンの関係?ギブアンドテイク?
兄に傅かれながらそんなことを考える。
無理難題は、無理難題でなかったらしい。とにかく甘やかせ、という私の要求に兄は嬉々として応えてくれている。風呂上がりは髪を乾かしてブローまでしてくれて、マッサージも。お姫様抱っこを強請ってみたらしてくれた。少しふらついたのに腹が立ったので、足にマニキュアを塗ってもらうことで相殺した。
嬉々として答えてくれている兄にドン引きするべきなんだろうか。でも、これだけの待遇に気まずくならない自分にドン引きしつつある。
私より年上の美形(兄)が跪いて傅いてくれるという状況にときめきが止まらない。ヤバい。この生殺与奪権を握っている感じがかなりの快感なんだけど………。
うん。新しい扉を開いたような開いていないような。たぶん閉じることはできないから諦めよう。
兄は私を壊れ物のように扱ってくれる。まるで本当にお姫さまのよう。
私の踵を膝にのせて、慎重に色を掃いて行く旋毛を眺めていると、悪戯心が湧いてしまうのも仕方がないだろう。
「えい」
「は?なに、ちょ……」
兄の柔らかな髪を編み込んでみる。触り心地がいい。なんか少し腹がたつぐらいには。
私を制止する声が聞こえるけれど、私の足を膝にのせているから動くのも難しいらしい。足の下に人体があるというのも、ぞくぞくする。兄には見えないように笑いながら、細かい編み込みを何本も作れば、玩具にされた兄は泣きそうな困った顔をしていた。
昔からこの兄は、女の子のような遊びが嫌いだったと思い出した。綺麗な顔をしていた分からかわれやすかったのだ。
仕方ないのでわしゃわしゃと頭を撫で回して崩してやる。手元が狂って足の甲にマニキュアがついたらしい。冷たいものが足を掠めた。
「あ、ごめん」
拭き取るその手は優しい故にくすぐったくて体を揺らしてしまった。
マニキュアを乾かし終わってから、兄に爪先を突き出す。
「舐めてみる?」
跪いて足を―――という小説があったなぁというぐらいの気分で悪乗りだったのだが、兄は躊躇なく爪先に口付けると私を押し倒した。
甘い嬌声を響かせ始めながら、ぼんやりと天井を眺める。
冷静な何処かが、束の間の夢を見ているだけだ、と無情に考えた。
雨が降っている。
遠くで車が水溜まりを跳ねる音がする。小雨なのだろう。屋根に雨がぶつかる音はしなかった。
兄のことを考える。
優しい自慢の兄だ。兄の優秀さを羨んだことはあれど、妬んだことは一度もない。兄の優秀さはそのまま私の誇りだった。
私たちが子供の頃からずっと、両親は多忙であまり家にいなかった。
それができたのも、両親が兄のことを信頼していたからだろう。
―――お兄ちゃんがいるから大丈夫ね。
母親の口癖だった。
兄は寂しかったのだろうか。
私は寂しくなかった。
だって兄がいた。兄がいれば寂しさなど吹き飛んだ。優しい兄がいればそれでよかった。
雨が降っていた。
「兄さん、雨が降っているみたい」
譫言のように私は言った。なんの脈絡もない言葉に兄は少しだけ面食らった様子を見せて、だが、直ぐに同意した。
私の両脇についた手はそのまま、暫く目を閉じて、耳を済ませたようで目を開くとやや細めて私に顔を近づけた。
「そうだね。きっと冷たい雨が降ってるんだよ」
口づけの合間にそんなことを嘯く。
「冷たいの?」
兄は至極真面目に頷いた。
「そうだよ。冷たくて鋭くて、痛いんだ。外に出ると死んでしまうから、家にいようね」
心が冷えるのを感じる。けれどそれを押し隠して、兄の言葉を冗談にしてクスクスと笑って見せる。
「そうなの?」
まさか、と言いかけた唇は、食べられて、私は兄の体に足を絡めた。
有難うございました
私事ですが、明日明後日模試が連続しててつらいです